2017年12月11日月曜日

スマトラ紀行(30) さようならインドネシア

メダンのショッピングモール
帰りのバスは、それほど長く感じることはありません。予定では12時半ごろ到着すると聞いていたのですが、慢性的な市内の渋滞に巻き込まれて2時半過ぎにメダンのALS専用のバスターミナルに到着です。それが、最近新しいターミナルが出来たようで、ゴーグルマップの地図では新設なるターミナルが表示されていません。ターミナルから我が目的地のゲストハウスへは、どうやって行けばよいものでしょう?色々な番号の乗り合いミニバンが走っています。表通りにでたものの、これでは、拉致があきません。切符販売所のお姉さんは親切に64番の乗り合いを利用してくださいと言うことで、一見落着です。再び表通りに出ると、即目的のバスが通りかかり、声を上げて(SUN PLAZA)と言えば、運転手は納得顔で、はいどうぞという暗黙の了解となりました。さて、ここで、MapsMeの活躍です。ネットの回線がなくても、地図は事前にダウンロードしてあるので、オフラインで利用出来るのが嬉しい所です。最近大都会では、どこでも一

2017年12月10日日曜日

スマトラ紀行(29)さようならブキッテンギ

パダンとメダンを結ぶ長距離バス
さて、サルマンの豪邸?に三泊お世話になってから、メダンに向けての夜行バスに乗り込みました。出発時刻は5時で、4時半までにバス乗り場に集合となっていました。予定よりも早く4時過ぎにバス乗り場に到着です。サルマンの店からはバイクで15分ほどで到着出来る距離です。お店に立ち寄って皆んなにご挨拶です。絵描きが得意なファーリ少年にも挨拶です。彼には200円(20,000ルピア)のお小遣いを渡しましたが、それが、ちょっとした問題を引き起こしました。母親が、ファーリに、「お金は預かっておくからねl」と取り上げられてしまいました。すかさずファーリは喚く、暴れるの一幕もありました。しかし数分もする間に、おとなしくなってしまいました。20円で袋菓子が買える金額ですから、小学一年生にとっては、全額をポケットに入れておくのはちょっとヤバイのも当然です。さて、今度会う時は、どのように成長しているものでしょうか?彼はいつも、学校から帰り、お祈りの時間になると、父親と連れ立って近くのモスクに礼拝に行く習慣をみにつけています。日曜は学校が休みですが、午後父のバイクで宗教学校の授業にも参加しているようで、回教徒独特の帽子を被り、なかなかさまになった光景でした。

2017年12月6日水曜日

スマトラ紀行(28) ブキッテンギ

名所時計台
今日は午前中は一人でブキッテンギ市内を散策です。町の規模は昔とそんなに変わっていません。ただ、バイクの数がものすごく増え、市内を循環する公共交通機関(市内バスの代用でオプレットと呼ばれるバスとタクシーの中間みたいなもの)が激減です。インドネシアの都市では、市場がまだ活況を呈しています。タイやマレーシアでは、大型のショッピングセンターが市内、その郊外にお客さんを吸い込んでいます。どんな田舎に出かけてもコンビニがあり、大手のスーパーが進出している状況には、インドネシアはまだほど遠いようです。メダンではコンビニを良くみかけましたが、ここブキッテンギでは、まだ数が少ないようです。北スマトラではインドネシアのコンビニチェーン(インドマートなど)があちこちにあり、大量仕入れで比較的価格も安くなっています。何といっても旅行者にとっては、価格がしっかりと表示されている点に安心感があります。イスラム教ギラギラの西スマトラでは、まだ時間がかかりそうです。
散歩の途中で小学生が校庭でブラスバンドの練習をしていたのを見かけました。校庭は道路より低い場所にあるので、上から観察することになりますから、はっきりとわかります。そんな中であれっと思うのは、教師の80%が女性という事です。この州では当たり前の事なのかもしれません。先生はイスラム教徒ですから、スカーフをしっかりと被り、声たからかに生徒達を引き回しています。猛者女教師という印象です。

スマトラ紀行(27) 末っ子ヤント



右がヤントとその息子
さて、朝起きると、サルマンは台所でお湯を沸かしています。ここは、標高1000メートルほどありますから、赤道が近いと言っても水シャワーではまだ寒い気候です。そんな事に気を配ってくれたようで、バケツ一杯分のお湯が登場です。久々の暖かいシャワーを浴びて快適でした。シャワーと言っても、タライで水とお湯を混ぜたものを手桶でぶっかけながらですから、いわゆる行水みたいなものです。
これで、心身ともにリフレッシュです。今日は、この町に住む兄や弟の家を訪問です。弟とは、何度かあったことがあります。最初出会ったのは、サルマンが高校生の時で、末っ子のヤントは10歳の小学生でした。当時の写真がでてきましたので、掲載しましょう。
左がムスリム右がヤント
どこから出してきた写真なのか、23年前の写真が大切に保存されているわけです。近年に至っては、スマホやデジカメは珍しい存在ではありません。当時は写真を撮るという事は極めて嬉しく、喜ばれていました。今でもその風潮が残っているようで、撮影しようとすると、いつの間にか人々がポーズをとって目の前に現れてきます。そしてありがとうとお礼を述べられるのが常です。
こうして、彼らとの交流が延々と続いている次第です。よく観察してみると、兄弟は皆んな似たような性格をしています。基本的には真面目で素直です。一番の出世頭が、三番目の息子モスリムです。彼は若い頃から首都ジャカルタで衣料の販売をして成功したようで、今は車も持って副業もしているそうです。歳終えた母親を引き取ってジャカルタで一緒に過ごしているそうです。今後もこの家族を見守っていきたいものと考えています。

2017年12月5日火曜日

スマトラ紀行(26) サルマンの家

マウンテンバイク!
さて、お姉さんの家で遅い朝食を済ませてブキッテンギにあるクリーニング屋に帰りました。23年程前に訪問したことがありますが、当時は乗り合い小型バスに、満員の車が走っていました。今はバイクの普及によって、朝晩に通学する子供達が利用する程度で、世の中は大きく変わってしまいました。バイクで30分もすれば町に入ってしまいます。時間に縛られることなく、便利なものです。インドネシアでは5年毎にナンバープレートを新規に申請しなくてはならないそうで、その費用がおよそ4万円ですから、一年に8000円ほど別途費用がかかります。8000円というのは、現地の物価からすると高額です。平均給与が30,000円ほどしかないわけですから、大変な出費です。勿論彼らにとっては、我々のように事前に蓄えて置くという考えは希薄です。いざという時には、皆バタバタするようですが、それが、意外と何とかなるというのが、この国の実情です。そんなわけですから、ナンバープレートのないバイクをこっそりと乗り回している輩も出る始末です。友人のニコさんもその一人なんですが、罪悪感など微塵もありません。いつもにこにこ笑ってごまかしているようです。しかし警察の取締に見つかると高額な罰金を払わなくてはならないので、それだけは避けて行動しています。

スマトラ紀行(25) 朝のドライブ

牛力でサトウキビを絞る
さて、昨日は嵐の中を無事チャンドン村に到着して、一泊しました。物音一つしない田舎の静寂は体を休めるには丁度良い場所でした。朝8時頃起きると、奥さんと子供は学校に出かけて留守ですが、旦那が一人で留守番です。さて、清々しい朝の散歩をするから、ちょっど出かける旨を伝えると、旦那は、いやいや私がバイクで案内するからと声がかかりました。さて、彼の大切なバイクは自宅の倉庫(昔住んでいた木造の建物)に大切に鎮座しているではないですか。庶民の宝物とも言える貫禄のあるバイ

https://adventures.garmin.com/en-US/by/hoshiba/candung-bike-tour
(上記のサイトで地図を画像が閲覧出来ます。)

クです。さて、このバイクの後ろに乗り込むのですが、田舎ですから、ヘルメットも関係ありません。まさしく、旦那は典型的な農民タイプで大柄な体で、気持ちもおおらかです。言葉が通じないままも、何やかやと話かけて来ます。火山の斜面に開けた小さな村ですから、格別見るものは、ないのですが、のどかな田園風景がしっかりと心に刻み込まれ

2017年12月4日月曜日

スマトラ紀行(24) チャンドン村へ

チャンドン村の家族と一緒に!
今日はブキッテンギに帰る日です。アストゥティ女史は、車で送りましょうかと親切な申し出を受けましたが、丁寧にお断りして、約束してあったサルマンのバイクを待つことにしました。約束の時間は6時となっていたのですが、これが、1時間弱遅れてしまいました。しかし、こちらは、急ぐわけでもなく、悠々としたものです。待っている間に大学の助手なるラムジルさんが、帰るのは、もう少し待っていてくださいね。とバイクでどこかに出かけました。「あなたにお土産を渡したいから」という事で待つこと数十分。彼は地元の特産品なるお菓子や味付け干肉などを買い込んでやってきました。「事前に、私はすぐ日本に帰るのではないし、飛行機に乗る時は荷物制限があるから、なんにもいりませんよ」と伝えていたのですが・・・・。開店祝として渡した封筒を開けて、びっくりしたのでしょう。封筒の中身の2割分ほど買い物をしたのではないでしょうか・・・・。後にこのお土産は、ブキッテンギの友人宅に配達することになりましたが・・・・。

スマトラ紀行(23) 最終日

観光名所!
前回は停電で授業が欠講となったので、その振替で私の滞在を延長して今日が最終日です。さて、今日もあいにく朝から停電です。予定では4時に電気が来るそうですが、またもや不幸に見舞われました。しかし学長なるアストゥティ女史は、今日は担当する授業がありません。
「今からドライブにいきませんか?今日は私は時間があいていますから!」そんなわけで、午前中から学校を抜け出して旦那さんが運転する自家用車で30キロほど離れた名所へドライブです。いやはや、優雅なものです。アストゥティ女史とは、もうこれで一週間になりますから、お互いに知己の中ですから、遠慮も何も不要です。
名所巡りに出かけました。見どころその第一番は、近代的なハイウェイです。山間部を走る道路ですが、立派な橋桁が螺旋状に出来上がり勾配を挙げて行きます。片隅には、旧道らしき曲がりくねった道も見えます。日本では良く見かけますが、インドネシアでは画期的な橋で、彼らが自慢したがるのも無理はありません。もう、坂道での渋滞やエンジンを唸らせる必要もなく、スイスイと高度を上げていきます。峠らしき場所は撮影ポイントになっていますから、家族連れやカップルが駐車して、記念撮影をしています。私達も仲間入りです。

2017年12月3日日曜日

スマトラ紀行(22) 田園でのイベント


頭の上に載せて
今日も竹祭りのイベントがありました。午前中は植樹祭に参加し、竹の苗をサゴヒルの斜面に数本植えてきました。来年もこの地を訪問して、どの位大きくなったか見学に来るのも乙なものです。来年の事は定かではありませんが、小生は、この大学の学生、教師の熱心さに深く関心を抱いていますから、可能性は7割方上昇中です。アストゥティ女史も同行で無事植樹祭は終了です。そして11時頃からは田園の中でのイベント開催の運びとなりました。州都のパダンは車で2時間ほどの距離ですが、一部の学生達がバスを仕立てて参加しています。総勢100人ほどになったでしょうか?道ともつかず、田んぼの畦道なる場所を通過して見通しの良い場所に到着しました。

2017年12月2日土曜日

スマトラ紀行(21) 竹祭り

パヤクンブの郊外にサゴヒルという小さな丘がありますが、ここが竹祭りの主会場となっています。土曜日と日曜日にかけて盛大にイベントが開催されます。朝から夜まで野外での音楽会や民族舞踏など盛りだくさんの行事です。何しろ、この町にとっては始めての開催ですから、システムがまだまだ完備されていません。しかし、最低限の設備は整えてあるようです。移動式トイレも、救急車も配備されています。保安のために警察の部隊も駐留しています。ステージの前には、竹を利用したベンチが設定されています。所々に竹のオブジェクトが配置され、これが夜になると、様々な色彩に照らされて芸術の世界に入ります。中学生らしき生徒達が大きなビニール袋に、ゴミを拾い集めて清掃しています。しかし、これは翌日の朝になると、元の黙阿弥であちこちにゴミが散乱してしまいます。昼夜を問わず、よくも人が集まるものです。バイクで二人のり、三人乗りをして、会場に駆けつけるのでしょう。にわかじたての駐車場は専門の係を配備して体制を整えようと必死ですが、直ぐに満杯になってしまいます。

スマトラ紀行(20) 忙しい日々

竹祭り会場の展示物
午前中はアストゥティ女史と一緒に竹祭りを見学に行きました。旦那さんの運転する乗用車にのって、会場付近までいきました。それから10分ほど歩くと会場です。駐車場の近くには、ボランティアの人々がたむろして、人の出入りや車のチェック等をしています。そんな中で一人のオッサンが登場です。彼は日本に行った事があるそうで技術研修とかで1年半ほど滞在したそうです。17年前に日本に出かけたのですが、今でもかなりの日本語を覚えています。私も嬉しくなりました。多少ややこしい単語も理解しています。17年前に日本に行った頃の証明として当時通っていた空手道場の会員証を見せてくれました。いや仲々ハンサムな青年でした。今は小学生の息子と奥さんの4人ぐらしだそうです。小さな村の事ですから、大体の人々は、あの人は何をしているか、どんな人なのかお互いに知っていますから正体はすぐに知れ渡ります。彼は日本で言うならばさしずめ自治会役員みたいな存在です。

2017年12月1日金曜日

スマトラ紀行(19) リサイクルショップ

REUSE SHOP
さて、講演会が終わると丁度お昼の時間です。この大学の教師陣は女性が大活躍しています。どちらを向いてもご婦人方が教鞭を振っている光景は、日本の男女均等機会雇用の遅れを様々と感じてなりません。女性が男性をしのいで活躍している社会を目前にして感慨にふけっております。その半面男性の多くは何となくひ弱に感じてなりません。特にこの地域は女系社会で、財産相続は娘へと引き継がれる社会です。
お昼は近くのレストランに招待されました。始めて紹介される人々もいましたが、殆ど女性で10人中私を含めて4人しか男性がいません。この国では男性は一体何の仕事をしているものでしょうか?

スマトラ紀行(18) 屋外授業

今日はアストゥティ女史に誘われて土木科の屋外授業に参加しました。なるほど、8年前から建設中のホテルですが、まだ全景が完成するには至りません。骨組みと屋根が出来上がり、これから内装などをしなければなりません。それにしても8年たっても殆ど進展がないのには驚きます。日本ならば半年ほどで完成するでしょうが。さて、今日の講師は竹を使った建築関係の仕事をなさっているムコダスさんですが、彼は遠くバンドンから、今回の竹祭りの招待で、ここパヤクンブに招待された人物です。インドネシア各地を回り竹の写真を撮影してデータベース化しようという考えをお持ちなわけです。残念な事に資金難で、目下の所本人のウェブサイトは現在閉鎖中との事です。話を聞くと、インドネシアでのウェブ作成の費用は馬鹿高いようです。一ヶ月に一万円ほど必要だと聞いています。いや、この国の物価からすると高額です。この問題の解決には、私が日本でレンタルサーバーを契約して、ドメインを取得して彼らが編集出来るように設定すれば年間1万円ほどで運営することが可能です。この話を持ちかけると、本人は半信半疑な顔つきです。すごく真面目そうな人物で好感の持てる人物に会うことが出来ました。一般的にインドネシア人は英語が得意ではありません。彼らの世界観はインドネシアの範囲にしかありませんから、他の世界がアルということは、ネットやテレビ等を通じて理解はしていますが、実際に外国に足を踏み入れる人々の数はそんなに多くありませんから、第二外国語の必要性も感じていません。これがインドになると、学歴のある人々は学校での授業が英語を使用していますから、会話はスムーズに運びます。

2017年11月28日火曜日

スマトラ紀行(17)パヤクンブ工科大学

大学前にある学生募集の看板
今日が授業第二日目ですが、昨日同様ラムジルさんの手を借りることになりました。毎朝7時半頃には眼が覚めるのですが、8時頃になると、部屋の前にコーヒーが、時には紅茶が届いています。これは、大学内で雑用係をしている家族が毎朝届ける事になっています。ベランダに出て、田園光景を眺めながらのモーニングティーは格別美味しく感じます。それで、8時頃には学生食堂が開店しますから、それをめがけて朝食タイムです。朝食といっても、春巻きみたいなもの2つとコーヒーで十分ですが、その料金が又格安で4,000ルピア=35円です。昼食と夕食も、ここで注文するのですが、鶏唐揚げとご飯(野菜が少々)のセットで70円でお釣りが来る世界です。話には、聞いていましたが、物価が安いのには、感激、驚きです。そして部屋代も必要ないわけですから、一日の予算は500円で十分収まります。いやはや、これだと居心地が良くてたまりません。

2017年11月27日月曜日

スマトラ紀行(16) 授業開始第一日目

記念撮影
さて、この大学でIT技術を学んだ卒業生の中に、ネットワーク管理者として仕事をしているラムジルさんがいます。年齡は28歳で結婚して3年目になるそうです。可愛いお嫁さんで、大学の前に小さな屋台を作っています。すごく陽気で、明るい性格ですが、矢張り、この地域独特の空気があり、いつもお嫁さんに敷かれているという感じが随所で見受けます。しかし、この青年は頭が良さそうです。「今日から授業するんだけどさぁ、どうすればいいかなぁ」と相談を持ちかけました。コンピュータに関して色々と話をしていく間に、彼の実力も知ることができました。それで、インターネット(WIFI)の利用のために、早速私専用のIDとパスワードを設定してくれました。なるほど手際が良く、すいすいと事が運んでいます。彼は頼りになりそうです。英語はどうも怪しげな部分がありますが、お互いに専門的な内容については、ちょっと話せば、大概は意味が通じるものです。そんなわけで、彼をおだてて、授業の応援を依頼することになりました。毎日4時から2時間の授業が始まります。私が作成したパワーポイントの第一日目の教材を26台のパソコンに埋め込むことになりました。これも30分ほどの間に終了です。

2017年11月26日日曜日

スマトラ紀行(15)パヤクンブ

パヤクンブ散策
西スマトラ州第二の都市で人口12万人が住み、現地語の意味としては草深い沼地の意味を持っています。インドネシアでも有数の清潔な都市として有名だそうですが、実感としては、まだまだ随所にゴミが散らかっています。付近にはハラオ渓谷など景勝地があります。そんな田

           拡大して地図と画像を閲覧する。
舎町をブラブラと散歩してみました。郵便局は立派なミナン建築で天にそびえるかのような放物線状の屋根が見事です。既存の郵便局や政府庁舎などは、こうした建築様式を保っています。最近はセメント作りですが、デザインは伝統様式をしっかりと保っています。今でも町には馬車が走り主要な交通機関となっています。しかし、最近はどの家庭でもバイクが必需品となり、これが重要な交通機関となり、以前走っていた市内循環の乗り合い

スマトラ紀行(14) 再びパヤクンブへ

竹祭り開会式
サルマンのバイクに揺られておよそ1時間で、アストゥティ女史と約束していた竹祭り開催会場に到着しました。いわゆるパヤクンブ市の公会堂のような場所です。屋外ステージがあって、そこで開催式が始まったばかりです。市長を始め、そうそうたるメンバーが一同に介している中を、アストゥティ女史は紹介してくれます。何がなんだかわからないまま、とりあえずにこにこと握手を交わすという一般的な光景が始まります。始めはボス達の開催の祝辞が長々と続くのは、いずこの国でも同じことでしょう。テーブルには、現地の伝統的な食べ物が並んでいます。所で、この市長さんは日本へ七回も出かけたことがあるそうで、とても親日的な方です。他にも日本へ商売に出かけたことがある人など日本とインドネシアの近さを改めて実感します。そして最後は竹筒を叩いて、開催のを伝えることになるのですが、当方もステージに立つ羽目になりました。「第一回の竹祭りが成功裏に終わりますように」

2017年11月25日土曜日

スマトラ紀行(13)ファーリ少年

ファーリ少年の事
始めての絵
このクリーニング店は、三人の従業員を抱えています。一人はこの地方の田舎の娘でジャカルタで働いた事もあるという女性、そしてもう一人は、この建物と同じブロックに住む夫婦の奥さん。そしてクリーニング店の裏側に住まいがある女性がパートタイムで忙しい時に応援来てくれます。この奥さんは、まさしく働き者で、陽気な性格です。旦那はバス会社の客案内係として働いています。奥さんは、色々な仕事を経験しています。メイドさんとして働いたこともあったそうです。しかし学歴が低いので、給料の良いところへは就職は出来ません。幸いにちょうど良い場所が見つかったものです。サルマンも彼女の事を気に入って信頼しています。
5日後の絵
先日は数日間実家の父親が病気だったので、急遽実家に帰っていたので私が到着した時には会うことができませんでした。成る程実直そうな人柄です。そして小学校一年生のファーリという一人息子も一緒です。このファーリ君はなかなか可愛い少年で、はにかみ屋ですが、挨拶を交わしてしばらくしてから、私のパソコン(タッチパネル方式)で絵を描く練習をすることになりました。
いや、結構頭脳明晰な子です。簡単に使い方を教えると、少しづつ描きはじめました。直ぐに要領を覚えて、山を書いたり、雲をか

2017年11月24日金曜日

スマトラ紀行(12)ブキッテンギ

中央郵便局
今日のブキッテンギも曇り空です。時々晴れ間があるのですが赤道が近い場所ですから常に乱気流が舞舞しているのでしょう。SIMカードをいれましたから、これでネットが出来るわけです。料金は35000ルピアですから日本円に換算すると300円程度です。
Masdarさんからは熱烈なコメントが寄せられています。果たして今回のパソコン教室はどうなることでしょうか!
何を教えれば良いか、色々と調べなければなりません。いやぶっつけ本番になりそうです。
それにしてもサルマンは私の人生にとって忘れがたき人物です。今も昔もあのおっとりと
通りかかった小学校の鼓笛隊の練習
した態度は変わりません。しかし心の中にはしっかりとした信念をいだきながら生活しています。今までに様々な困難があったでしょう。精神的には優れているのですが、数字とか科学的な能力が低いので器用に世間を渡り歩くという事は苦手なようです。まあ良くここまでやってきたと思います。。
幸いにサルマンの店は商売繁盛の方向に進んでいます。うまく舵取りをしなければならないでしょう。日本で言うと掘っ建て小屋みたいな洗濯屋ですが、少しづつ大きくしていくでしょう。私の教えた言葉の幾つかを実践してくれる所が又嬉しいものです。

2017年11月23日木曜日

スマトラ紀行(11)サルマンの日々


鶏唐揚げ定食(80円)
サルマンの生活も大変なようです。この地域の習慣として女系家族で悩んでいます。妻の方が実権が強いので今の彼には何をすることも出来ません。よくここまで人生を送ったものです。日本的に考えると情けない部分があります。正直言うと愕然としてしまいます。はるか遠くから訪問したはずですが、安宿に篭り、本人も自分の不甲斐なさを反省せざるを得ないのが現状です。今私の家では、妻の方が80%私が20%ほどしか実権がないんですよ。でも、これから少しづづ改善していきたいと思うんだけど!このウエスト・スマトラ州はミナン族が住む地域で、伝統的な女系家族を構成しています。財産相続権は娘に引き継がれますから、当然の事ながら女性の権力が強くなります。
80円均一の食堂
いわゆる、この地域の男性はすべて婿入りしていることになります。ちなみに、サルマンの兄弟の中で兄の家では旦那が4割ほど力があり、彼の妻の方がまだ実権が強いとの事です。弟のヤントの家では半々だとか。そう言えば、アストゥティ女史の動きを観察すると、いつも旦那が奥さんの言うとおりに車で迎えに来たり。送ったりしています。STTPの守衛アントーさんやパソコン技師のラムジルさんの様子を見ていると、どうも奥さんには頭があがらないという状況が見えて来ます。

2017年11月22日水曜日

スマトラ紀行(10)パヤクンブ工科大学へ



二人用レインコート
ブキッテンギからは凡そ1時間の距離にSTTPがあります。ここへは、サルマンがしっかりと導いてくれました。モーターバイクの後ろに乗っけてもらい定刻1時に到着したのです。しかし、雨季特有の空でどんよりとしています。走っている間に少しばかり小粒の雨が降り始めたので、一時停止で、レインコート装着です。何しろこのレインコートは一着で二人分の役割をしてくれます。ちょっとばかし大きめで頭を出す場所が二箇所あり同乗者も頭を出せば良いという単純なものですが、これがインドネシアらしき服装!です。現地の人々は慣れっこですから、少しぐらい雨が降っても平気で走っています。概して雨は30分ほど待てば、小雨になるか、止んでしまうのです。こうして、丁度約束の1時に到着することが出来ました。
工科大学
ここは、意外と小さな学校ですが、学生達の目は明るく輝いています。今日はSTTを訪問しました。STTとはインドネシアの高等工科大学とでも位置づけましょうか。ブキッテンギから40キロほど離れた街にある大学です。今日は驚きの日でもありました。4年前に関空からクアラルンプールに向かう飛行機の中でちょうど隣の席に座っていたインドネシア女史と知り合うことになりました。何か日本で学会があって数人のグループで訪日していた帰路が運命の出会いと

2017年11月21日火曜日

スマトラ紀行(9)ブキッテンギ到着

開店二年目を迎える洗濯屋さん
今日は朝9時過ぎにブキッテンギの近くに到着しました。出発時には「15時間走るけど1時間ほど休憩するから全部で16時間だよ。明日の10時が到着予定」と聞いていました。ブキッテンギらしい光景が近づいた所でバスは朝食の時間となり30分ほど休憩です。スマホで見ると後10分も走れば目的地のブキッテンギのバス駅なはずですが、急いでも仕方ありません。何しろ、このバスは終点がパダンですから、ブキッテンギからは、まだ2時間以上かかります。
私がこの街に始めて足を踏み入れたのが25年前です。マレーシアのペナンからフェリーでメダンのベラワン港にはいり、ブラスタギ、パングルランそしてパラバットを経由してブキッテンギに入りました。当時はインターネットもなく、地球の歩き方やロンリープラネットなどのガイドブックも普及もない時代でした。それでも何かしのガイドブック(安宿情報)や宿に備え付けてある旅のノート、そして口コミの等が有力な情報収集の手段でした。何かのガイドブックに記載されていた安宿にガンガ・ホテルという名称の安宿が街の

2017年11月20日月曜日

スマトラ紀行(8)ブキッテンギへ

ALSの事務所ではバスの出発は18時だから予定の30分前までにバス駅に到着するように説明を受けました。宿のチェックアウトは12時になっています。ギリギリの時間まで粘ってチェックアウトです。30メートルほど離れたところには、ちょっと小奇麗な喫茶店兼食堂があります。価格表示もあり、安心です。スマトラはコーヒーの栽培が有名ですから、人々は一般的にコーヒーを好みます。と言ってもインドのようにミルクを入れるのではなく、ブラックで砂糖を入れたものを飲んでいますが、これがもうむちゃくちゃ濃いのです。それで、タバコをプカプカさせるのが、あたかも身だしなみという風潮です。もう、街のあちこちに吸い殻が散らばっています。世界全体が灰皿の社会で、誰も遠慮することなく吸い殻をポイポイと捨てています。日本や西欧社会のような禁煙化しつつある社会とは大きく事情が異なります。
ともかくバスの出発まで6時間もあります。この喫茶店はWIFIもあり落ち着ける場所です。昼ごはんを食べ、コーヒーを飲んでいるとあっと言う間に2時間経過です。さて、この喫茶店の主人やスタッフの昼食の時間です。私が日本人だと知っていたので、ご飯を一緒に食べませんか?と誘いを受けましたが、残念、今食べたばかりですからねぇ。なるほど、親切な人々も沢山います。
トバ湖周辺はキリスト教徒が多いので、アルコールの規制もゆるいようです。ここでは、キリスト教徒が大半でイスラム教徒が少数化という背景があります。やたらと目に入るのが教会です。
ご飯とお茶で時間を潰してもまだバス駅に向かうのは早すぎます。7キロの荷物を抱えながら、ブラブラと市内を散策です。どこにいても湖が見えるので大満足です。そうこうしている間に、そろそろ駅に向かう時間となりました。
メダンとパダンを結ぶバス
18時発のバスは予定よりも5分早く到着しました。図体の大きなメルセデスベンツの大型バスは5時55分に到着し、私を含めて二人の乗客を乗せて出発です。さて、今から16時間のバスの旅が始まります。マレーシアの場合は贅沢で3列席の配置ですが、ここでは2人と2人の4人がけが一列にならぶバスです。もう既に座席は満席の状態です。幾つかの空席を残したままの出発となりました。座席は意外と座り心地が良く、これならぐっすり眠れそうです。車内は音楽がガンガン鳴り響き、後ろの方からタバコの匂いとトイレの匂いが立ち込めています。日本の高速バスのイメージとはかけ離れた存在です。ああ、こんな環境の中で16時間も過ごすとなると、ちょっとビビリます。しかし9時を過ぎると音楽は消滅でやれやれ一安心です。道中7時頃は夕食タイムとかでバスは

2017年11月19日日曜日

スマトラ紀行(7)サモシール島半周

パラバットへの船乗り場
今日も少し緊張の日でした。昔の面影はまだ残っていますが、今一つ要領を得ません。10時20分ごろのバスでTOMOKに向かいました。40キロありますから約1時間要しました。その後は船がすぐ出発です。12時の出港で30分後にはパラバット到着です。
今日も宿探しです。大体このあたりの相場は150,000ルピアですが、値切って100,000ルピアに決定です。このあたりの宿の仕組みは宿帳を書く必要もなく、金を払って鍵をもらうだけです。のんびりしすぎの傾向です。昨日の宿も今日の宿も日中はひっそりとしていて、宿の管理人を探すのが一苦労です。待つこと30分ようやくやって来ました。150,000を値切って100,000に成立です。
Garminへジャンプ

立ち寄ったお店の人がとても親切で、タバコを購入して、安い宿ないですかと訪ねたら、向かいの宿は10万ルピアでOKなはずですよと進めてくれました。それで、出かけたものの誰もいません。近所の人に探してもらうも拉致があきません。待つこと30分バイクで従業員が戻ってきました。部屋はあるけど掃除が終わっていないから、向かいの店でお茶でも飲んで待っていてくださいとの事です。
詳細な地図と画像はここをクリックすると閲覧出来ます。

待つこと30分ようやく準備完了です。トイレ付きの部屋でまずまずの感じ。でも昨日のバングルーランの宿がもっと気持ちよかったですね。広い庭があって、もう一泊しても良さそうな宿でした。しかしここでもネットはありません。こうして比較するとSIBAYAKが優マークでした。

2017年11月18日土曜日

スマトラ紀行2017(5) バングルーランへの道

ブラスタギからパングルラン
今日も少しエキサイティングな日でした。朝食を済ませてバス乗り場に向かい問い合わせると後30分ほどでバスが来るとの事でした。早速宿でチェックアウトを済ませて、宿の人にも料金の確認を行うと、同じ料金で65000ルピアでした。これはおよそ5ドルです。いやはや、すごいオンボロ乗り合いワゴンです。ドアは壊れているので、素人では容易に開け閉めできません。窓を閉めるには、ダッシュボードにあるスパナを利用して開閉することになります。時速40キロ程度しか出していないのに矢鱈と轟音を立てて走ります。運転手はチェーンスモーカーで、矢次早にタバコを更かしながらハンドルを握っています。すぐに追い越しをかけるのが気にかかりますが、彼らにとっては当たり前なるようです。

2017年11月17日金曜日

スマトラ紀行2017(4)シバヤク登山

シバヤク山
今日は登山です。乗り合いバスで終点まででかけ歩き始めました。時刻は10時過ぎです。殆ど通る人のない閑散とした林道みたいな所を1時間歩くと、見えたのが料金所でした。ここで係員というか見張りが二人入場券を販売していました。料金は1万ルピアですから、およそ90円です。私が日本人だとわかると愛想も良く、色々と注意をしてくれました。昨年日本人で山田さんとかが足を滑らせて落っこちたそうで、危険な場所に近づかないようにとアドバイスをもらいました。さて、次第に話の内容が怪しくなり、下ネタに充満してきました。「同僚は植物から精製した精力剤を作っているんだけど、すごく効くんですよぉ!いかがかな?」と話かけてきます。腹切りやサムライの話もでましたが・・・
(ここをクリックすると画像と地図を同期させたものが閲覧出来ます。)

2017年11月16日木曜日

スマトラ紀行2017(3)グンダリンの丘

グンダリンから眺めるシナブン山
今日は、一日中街を散歩しました。郊外の丘にも出かけてみましたが、結構眺めがよいのです。食べ物や物価の感覚にも慣れてきました。少しばかり落ち着いてきました。3日ほど前と1週間前には地震があったそうです。何しろ火山を控えた街ですからね。すぐ近くのグンダリンという丘にでかけました。


詳しくは、ここをクリックすれば地図と画像を閲覧出来ます。

快適な宿も見つかりました。現地の物価にも少し慣れてきました。昨日は久しぶりのインドネシアで多少緊張していましたが、今日からはゆったりモードです。しかも、地方の小さな田舎町に移動しましたから、過ごしやすさが違います。冷房も必要なく、ちょっと水シャワーが厳しいかなぁという所です。宿のスタッフも温厚な笑顔を見せています。インドネシアというと、危ないとか治安が良くないとか、騙されるという言葉に連想されますが、こうしてゆっくりと眺めると良さが滲み出て来ます。

2017年11月15日水曜日

スマトラ紀行2017(2)ブラスタギへ

ブラスタギ町から見るシバヤク山
メダンから60キロほど南へくと、ブラスタギという小さな町があります。メダンから近いこともあり、標高1000メートルほどありますから、絶好の避暑地です。この地域は火山も多く、時には噴火に見舞われることもあります。今回はそうした兆候もなさそうです。さて、ここへ行くには、バスバスのりばに向かわなければなりません。インドネシアの場合バス乗り場は行き先によって、会社によってバラバラですから、幾つもバス乗り場があります。メダンでは大きなバスセンターとしてアンプラスとピナンバリスという2つがありますが、その他多くのバス乗り場があります。バス乗り場に向かうには、乗り合いミニバンで行くことが出来るのですが、ルートが複雑で始めての人には使い勝ってが難しいので大変です。比較的利用しやすいのが、バイクタクシーです。
さて、宿の主人からバイクタクシーをお願いしたら、登場したのがインド系のお兄さんでした。しかし残念な事にインドの言葉を話すことができません。両替のお店にいったらインド系のお姉さんが応対してくれました。彼女に聞いてみましたが、彼女もインドの言葉は話せないそうです。ここがマレーシアとインドネシアの大きな違いでしょう。マレーシアでは公用語として英語、中国語、マレー語そしてタミル語が使われています。インドネシアの場合、インド系住民の数は相対的に極めて少ないからでしょう。この地区は別名インド街と呼ばれているようで、よくインド系の顔を見かけます。運転手もそんな一人なのでしょう。さて、事前の話で8000ルピアでしたが、当の本人は場所を良く飲み込めていなかったようです。宿の主人の説明してくれた地図と方向は似ているのですが、バス会社(SINABUNG JAYA)は見当たりません。本人は電話で連絡しようにもSIMカードの残高が不足しているようで、急遽立ち寄って補充です。それから今利用しているオンラインのバイクタクシーの本部に場所を確かめています。どうも、当初考えていた場所より、かなり先のようで、8000ルピアでは無理で12000ルピアになるのを了解してほしいということでした。
 詳細は、ここをクリックしてください。Garminのサイトに移動します。

2017年11月14日火曜日

スマトラ紀行2017(1)メダン到着

メダン中心地にあるヒンズー寺院
今日はあっけなくメダンに入りました。新しくなったメダンの空港は、かなり設備も良く快適です。入国審査もパスポートを見せるだけで、帰りの切符を提示して指紋採取で一ヶ月のスタンプをもらいました。今朝はマラッカの宿の主人がバス停まで送ってくれました。小雨の降る中でしたが、車で行くと10分もかかりません。バスは10分ほど定刻より遅れて到着くです。マラッカ・セントラルバス駅から、空港へのバスに乗り込んだものの、切符の検査があるわけでもなく、間違って乗ってもわかりません。不思議な世界です。8時半過ぎのバスは10時半過ぎに無事KULIA2に到着です。ここで昼飯としてカップラーメンを食べて過ごしました。

2017年6月7日水曜日

婦女子の為の補習校



今日も又学校を訪問しました。今回の学校は特殊な学校で、学齢期に通学できなかった女性を対象にした女子専科学校とでも名称を付けましょうか?婦人の為の学級です。この学校で何かお手伝いすることが出来るものかどうか、実地検分に出かけました。
校長さんもにこやかで穏やかな人です。しかし、その目には確たる信念が輝いていました。何しろ女性ばかりの職場です。学校と行っても、貸しビルの一画を借りての授業です。幸いに、この施設は、他の学校と共同でビルを借り、一カ月35000円の家賃を20,000と15000円の共同利用です。
学生は学年に応じて毎月600から1200円の授業料を支払います。教師は8人の構成で現在は70名ほどの生徒が通学しています。その中には70歳のおばあちゃんも在籍です。ポカラからやって来たおばあさんは、カトマンズで毎月4000ルピーの部屋代を払って、ここに勉強しにきているそうで。こうした学校はネパール全土で20校ほどあるようで、政府の援助と地元の支援で運営されています。

2017年6月4日日曜日

カトマンズの学校でのパソコン実習室

今日は怒り心頭
近くのテウダの学校に出かけました。昨日昔からの友人で、この学校を卒業したミヌさんの仲介で、パソコン教室の支援をどうするか下見にでかけたわけです。約束通り10時に予約を入れて科学の教師に会いました。なかなか愛想の良いかたでしたが、職員室に入ると、校長が、「貴方は何者か?」というような不愛想な眼つきで私をにらみつけていました。この時点で校長は私をネパール人と思っていたようです。引き続きコンピューターの教師を紹介されて、パソコン室に向かいました。さて、パソコンが12台ほど並んでいます。いずれも埃だらけで、デスプレーも指紋や汚れに満ち溢れていました。先生に聞くと、一応稼働しているとの事。勿論ネットワークは構成されず、インターネットの環境もありません。全校で300名ほどの生徒がいて、第一学年から10年生まであるそうです。となると一クラスで30人程度。パソコンの授業では2人に一台の生徒が利用できる環境でした。色々と先生に質問していると、この先生のコンピューターの知識がどの程度なのか判断が出来ます。さて、それでは、これらのパソコンのリストがありますか?勿論あるわけがありません。それでは早速作成してみてください。

2017年6月2日金曜日

村の学校でパソコン教室1

スルケ村 建物はお世話になったジャガット家
今日は懐かしのスルケ村にやってきました。前日購入したバス切符の集合時間は5時半となっています。約束の時間にバスステーションに到着したものの探してもされたバスは見当たりません。何しろ新しいバス駅を建設中で、仮のバス駅は小さなスペースで各方面行きのバスが同時刻に発車するものですから、大混乱をきたしています。バスステーションのパーキングエリアに入りきらないものですから、ここへはいりこむ道路へはみ出した状態です。切符販売のカウンターに問い合わせると、今3キロほど手前にいるよ。今到着するから待っているようにと報告がありました。同じバスの切符を手にした客も心配そうにしています。さて、バスは出発時刻の6時が遅れて6時20分にバス駅に入ってきました。それからが、また30分ほど、ノロノロと狭いバスステーション内を渋滞している出口をめがけて進もうとしています。更に30分遅れて、バスがカトマンズ市内を出発したのは、6時50分となりました。何故か乗客はまばらで31人の座席を持つミニバスですが、10人程しか乗客はいません。途中で車掌が声を張り上げながら乗客を拾おうとしていますが、今は地方選挙明けで、村からカトマンズに向かう人はいても、村に向かう人々は激減しています。今回の地方選挙では、40万人もの人がカトマンズ市内から地方へ投票の為移動したと新聞に掲載されていました。人口の一割が移動した事になります。不在者投票の仕組みなどもなく、戸籍のある地元に帰らなくてはなりません。帰らないと、後日にらまれる事になるそうで、まさしく原始的な投票システムです。

2017年6月1日木曜日

三軒の家を訪問



昨年訪問した小児麻痺の少年
今年も彼を訪問しました。昨年は地震後一周年でお見舞いとして食料等2000円分を購入して届けました。今回は僅かながらですが、1000円のお小遣いを差し上げました。お爺さんが傍で孫の世話をしています。足が不自由で立ち上がることが出来ません。年齢を聞くと13歳になったそうです。顔にはハエが飛び回っています。しかし、その目は人懐っこく優しい目をしています。いわゆる世間の穢れをしらない素直さに溢れています。話に聞くと、政府から毎月1000円程度の金額が身体障碍者への給付として届いているそうです。さて、この金額は私達日本の貨幣価値に置き換えてみると、最低賃金の二日分程度の金額ですから、単純に考えると月1万円程度の給付と同等になるでしょう。私が近づいて手を差し伸べると、ニコニコと笑顔を見せてくれました。周囲にいた人々も、「ああ、僕ちゃんは喜んでいるよ」とささやいているのが聞こえました。私には彼の人生を変えるようなことはできませんが、彼の清々しい笑顔が私の心を慰めてくれると同時に、どうしようもない悲壮感とが交錯する瞬間です。傍にいたお爺さんは、1000ルピーのお札をそっと、孫のポケットにそっとしまいこんでいたのが印象的です。家族崩壊や子供の虐待などは日本では新聞記事に数多く報告される昨今です。家族の愛情があってこそ、周囲の愛情があってこそ、この子は生き延びているのでしょう。とにかく複雑な心境を抱えながら、家族の元を離れることになりました。

タミ族の公民館

公民館の内部
さて、以前から約束してあった村の公民館へ資材を寄付する話が進行していました。今日はその現場視察です。事前に連絡していたものの、地区の住民は10分ほど遅れて姿を見せました。タミ族は、ネパールの丘陵地帯に住む民族の一つですが、無類のお酒好きで、農耕を中心とした生活を続けています。ネパールの民族の間には、それぞれの個性があります。例えば、タカリ族はジョムソン街道に多く住む人々でチベットとの交流で財をなした人々を多く輩出しています。またネワール族の多くは、交易を得意とし、首都カトマンズに多く住んでいますが、一部はネパール全土に広がり商売を営み、比較的裕福で地元でリーダー的な存在を多く見受ける事もしばしばです。さて、この公民館は7年前から建設が始まったそうですが、資金難で中断したりでなかなか完成しません。さて、今回は僅かですが、1万円の寄付をすることになりました。同行したラジュさんには既に現金を渡しています。今後必要なのは、床と外壁

2017年5月31日水曜日

村の大工さん

左の二人が大工さん右は、ジャガット氏のお父さん(75歳)
 2年前の大地震の影響で、ここスルケ村の大工さん達は、大忙しです。あちこち新築する家が増え恩恵を受けています。あの家も、この家も俺達が作ったんだよと張り切っています。これから先数年間も安泰でしょう。まだまだ修復や改築をしなければならない家屋が残っています。資金繰りがつかない仮定も、一定の時期を待てば、それなりに余裕資金で家を新築する資金を捻出することでしょう。後しばらくすると雨季にはいります。雨季になると畑仕事、乾季には、自宅近くの家を作るのに従事するわけです。いわゆる内需拡大とでも申しましょうか?それにしても、彼らは、建築の事を勉強したわけでもなく、全ては経験で、人のやっていることを見習いながら、経験を積んでここまで到達したそうです。職人を雇うには、平均すると一日1000ルピーほどの費用が掛かります。食事も提供しなければなりません。又地酒も振舞わなければなりません。まあ、こうしてのんびりとしながら、数か月かけて家が完成するようです。ちなみに二階建て部屋が4つの建物で10ラーク(凡そ100万円)程度かかるようです。概算すると三か月の工期で常時三人の建築大工を雇うとすると一カ月30日×3人×1000ルピーは、9万円の出費です。そのほか、セメントを運んだり、木材を運んだり、砂を運んだりする人材が必要です。大雑把に見積もると一カ月10万円ほど人件費がかかることになり、三か月だと30万円という数字になります。残り3割ほどは材料費という事でしょうか?

2017年5月19日金曜日

ええぇ、これ何?ネパールのウェブ作成

干場の作成しているサイト

ネパールの業者によるサイト
さて、ホームページは、世界中で様々なものが公開されています。当方も素人ながら、独学でレンタルサーバーを購入し、ドメインを購入し友人達のウェブ作成をこなしています。現在の所、私の作成したサイトは、ゴーグルでチェックすると100点満点の80点とか90点を獲得し、サイトのスピードも比較的はやく、やパフォーマンスのエラーなどはも少ないので、黄色もしくは緑色を頂いています。さて、こちらの業者の作成したサイトをチェックしてみると、30点とか20点、ひどいのになると一桁の得点しか得ていないのもあります。文章を見ても、単語のミスが目立ち、やたらとハイカラな英文を組み合わせて作成していますから、意味がちんぷんかんぷんになっています。スペルミスも多く、何処かのページをコピーペーストで作成していますから、怪しい文章になるのは当然です。旅行代理店のページを見ると、どこも同じような文章でやたらと派手に飾りつけだけが目を引いているのが実情です。

2017年5月14日日曜日

ネパール地方選挙当日

政党の出張所!
今日は交通機関が全面禁止となり、許可を得た車両しか走行できません。空港と市内は緑色ナンバーの車両(タクシーやバン)などは動けるのですが、タクシーも禁止の日です。救急車やプレス関係などは、OKとなっています。空港に行くには、市内の要所から政府観光局がシャトルバスを運行しています。ですから市内はまるで歩行者天国の状況です。
投票所の近くには、それぞれの政党が路上でテーブルを持ち出して、幹部が分厚い有権者リストを手にして、見張っています。少し距離を置いたところに別の政党幹部がたむろしているという微笑ましい選挙風景です。有権者には、プラスチック製の写真がラミネートされている投票所入場カードが配布され、今回三か月にわたり三度行われる投票に利用されるとの事。それが終わると、このカードは無効になり、次回の選挙時には、再度発行されるとの話です。さて、選挙が三回繰り返されるという事は、一カ月後に、再度カトマンズ市内からそれぞれの村に帰るわけです。これも私達には見当のつかない不思議な現象です。何しろ、今回が初めてのモダンな選挙です。

2017年5月13日土曜日

ネパールの選挙 前々日


選挙のポスター
バイクによる行進
ネパールの選挙 前々日   
ポカラでは、毎日選挙運動が続いています。市内には、時々バイクの隊列が旗をなびかせながら勇ましく行進していくのが、ここ地方都市の典型です。他方カトマンズ市内は、法律に準じて、こうした行動は自粛を控えさせられているようで、目立った動きはありません。唯一の大都市カトマンズと地方の大きな違いです。小さな町では、それぞれに家には、自分達の支援する政党の旗を大きく掲げています。子供達も小旗を手にして遊んでいます。まるで、日本の選挙とは大きくことなった方法です。諸外国とは異なって事前投票の制度がありませんから、今カトマンズ市内の人口は大きく減少しています。数日前から、村から出稼ぎに来ている人々や、住民票を田舎に置いている人々は、一斉に帰郷しています。新聞記事をみると、はるばるインドへ出稼ぎに行っている人々の一部も、投票の為に里帰りをしているそうです。そんなわけで地方は活気づいている次第です。
カトマンズ市内には、選挙委員会から選挙の仕組みや、方法、注意事項などのポスターをあちこちで見かけますが、果たして、この絵に表現されている方法で実行されるのでしょうか?個別訪問禁止とか、暴力はいけません、接待禁止など表示されていますが、こうした事は、外部から逆に考えると、こうした事を行ってくださいというのも同然です。規則があっても、それを遵守する道徳感が欠けてしまいました。

2017年4月25日火曜日

ネパールの停電そして選挙

雨が降ると道はぬかるみ
今年に入ってネパールの電力事情は急に良くなりました。過去数十年に渡って、いつも停電を続け、一日18時間の供給しかされないこともしばしばでした。所が事態は急激に変化し、今は停電皆無の状態です。そりや、時々作業停電や、雷雨の時には、天候が回復するまで一時的に供給を停止することがありますが、以前に比べると極めて良好で、過去の状況がまるで嘘のような状態です。深夜でも街灯が煌々としています。夜出歩くには全く不自由は感じません。懐中電灯不要の世界になってしまいました。ある友人は昨年の11月にインバーターに使う蓄電池を新たに購入しましたが、その翌月から停電がなくなり、不要となってしまいました。悲劇様々の状況です。
というのは、矢張り政府の悪徳政策によって、意図的に停電をしたいたようで、これに依って、ソーラーパネルや、インバーターの販売業者は大打撃を受けたのは間違いありません。うすうす気が付いていたのですが、通電中に全部の家庭がインバーターに接続して充電をしていたはずですが、これでもパワーが落ちなかったという事です。という事は、電力が過剰に存在していた証でしょう。電力関係の大臣が変わってから、激変したわけです。様々な情報が交錯する中で、やはり、政府高官は、電気を横流しして、莫大な利益を得ていたことも発覚しました。

2017年4月23日日曜日

ネパールの地方選挙

街頭演説会
ネパールは今地方選挙の真っ最中で、それぞれの政党があちこちで投票を呼び掛けています。さて、これはネパールのみならず、インドの地方選挙でも同じような光景を見るのではないでしょうか?村の選挙は私達が想像するのものとは大きく異なっています。まず第一にお金がかかります。識字率が低いので、選挙とはどういうものか理解できません。日本のように、広報が配布され、個々の候補者の意見が述べられることがあっても、読み書きのできない村人の票を取り込むにはどうすれば良いでしょうか?結局人海戦術、すなわち選挙運動員を雇用しなければなりません。ここで左右されるのは、矢張り資金力という事になります。地域の代表になるには、50人程の運動員を集めなくてはなりません。運動員と言っても、無料奉仕してくれるわけではありません。現在の経済状況では一日あたり700円ほどの費用がかかり、一カ月ほどの期間を契約して個別訪問を行ってもらう事が当然となっています。となると、その費用だけでも100万円を計上しなくてはなりません。他の候補者に乗り換えられると困りますから、

2017年4月20日木曜日

カトマンズの片隅で

古都パタンの王宮広場
先日友人で、ここカトマンズで宿の経営をしているジャガットさんと一緒にある家族を訪問しました。カトマンズ中心地にあるナヤバザールの簡素なアパートにはインドからの家族5人が住んでいます。32歳の夫は近くの縫製工場で一日500円の収入を得ながら、家族を養っています。彼等の出身地はインド・ビハール州のラクソールの村ですが、6歳の男の子が初期の小児麻痺で足が不自由で立ち上がることが出来ません。そんな子供を抱えた家族は、村人から差別を受け、村から出ていくように促されていました。両親からも迷惑がられ、結局村を離れることになりました。9歳の長女は栄養不足で年齢の割に発達が遅れているようで、身長は6歳の次男と変わりません。正常に育ったと思える8歳の長男を伴って、全員5人でインドの首都デリーに向かいました。そこで数か月過ごしたようですが、あまり芳しくありません。ネパールでは、海外出稼ぎ熱が高く、若い人や仕事をする人がいないとの情報を得て、はるばるカトマンズにやってきたそうです。こちらに来て約半年経過しています。足の不自由な息子のために、生活費を節約しながら、検査(費用は約10,000円)も受けました。幸いな事に格別異常はなく物理療法で回復に向かうだろうという診断を得ました。と言っても、療法に通う費用を捻出するのも大変です。こうした、話をどこからともなく、友人のジャガット氏が聞きつけて、何とかできないものかと奔走しています。そんな中に私も参加することになりました。