2011年1月31日月曜日

サラワク大学

さて、ラージャン氏の勤務する大学を訪問する機会がありました。クチンの郊外に、広大な敷地があります。3キロ×6キロで18平方キロの敷地を専有しての大学は、構内をシャトルバスが巡回するか、自家用車でそれぞれの部署に駆けつけなくてはならないほど、大きな大学です。昔からある大学ですが、8年前から規模の拡大を始め、まだ所々増築中です。彼が所属するのは、コンピューターサイエンスという事になっています。生まれはマレー半島のケダー州のアロースターです。典型的なインド系マレー人なのですが、英国へも留学して学位を取りました。今は政府の派遣で、ここサラワク州で教鞭の職を得ているわけです。この校舎の建築には日本政府も一部援助しているそうです。学生数が8000人というマンモス大学になりつつあります。昔からある旧校舎も見学です。こちらは、規模も小さく、木造平屋建ての校舎で落ち着いた感じがするのですが、学生数の増加で今は使われていないそうです。

このサラワク州がマレーシア連邦に加入したのが1963年ですから、それまでは英国の植民地だったわけです。そうした事情もあって、マレー半島のマレーシアとは異なった雰囲気があります。この地域は格別な産業もなく、密林に覆われた地域です。材木の輸出やパーム椰子のプランテーションなどが主要な産業でしょう。他にサラワク州の北部には原油が産出されることが、この地域を豊かに見せているのかも知れません。隣接するインドネシアからの出稼ぎも多く見受けます。同じ東マレーシアでもサバ州はフィリピンからの出稼ぎが多いのと対比すると当然ということになるでしょう。しかし、この地域は現在の状況では、これといった工業地域があるわけでもなく、のんびりとした土地といえるでしょう。そんな事情を背景に、この地域の土着の人々はマレー半島部へ出稼ぎにいくという奇妙な事象が発生しています。これも、当然の事かもしれません。

確かに、ここクチンの空気は今まで見てきたマレーシアの街とは異なります。この街での回教徒の人口は30から40%ということで、大半がキリスト教徒というのも異色の存在です。しかも、この街の大半を占める中国系住民にもキリスト教徒が多いとの事です。マレー半島部では、ペナンは中国人の街とも言われますが、街から村に行くと、たちまちにしてイスラム教徒の集落になるのが一般的です。マラッカでも、中心部は中国系住民が多いけど、村々は回教徒で占められています。しかし、ここでは村々へ行ったにしても、キリスト教徒が大半を占めるという状況になっているのです。

2011年1月28日金曜日

クチンの出来事


今日は医者にでかけました。風邪が長引いて一向に回復に向かいません。Rajanさんの紹介で一緒に連れていってもらいました。お医者さんはクチンの街の一角にありました。ドクターはインドのマドラスからの人で、ここで20年以上も医者として働いていらっしゃるそうです。それで、見立ては確かみたいですわ。例によって、抗生物質と熱冷ましの薬をもらいました。初診料と薬代金を入れて全部で20RMでした。すなわち540円という所です。確かに、このお医者さんも、日本人がタミル語を話すのを興味深く見守っていました。午後の診察は2時から始まるので、こちらは2時きっかりに受付に入り、先生が来たのは2時15分でした。その頃になると患者さんの数も増えました。でも、先生は丁寧に症状を聞いて、対処してくれるわけです。いわゆるホームドクターという印象です。最新の機器や検査漬けにするわけではなく、問診というか、聴診器を当てて診断をしてくれる事は、特に印象深い事でした。最近はモダンな医者が流行しているそうで、パソコンを操作する医師が良いとされる時代です。そんなクリニックに行くと料金も倍以上かかるとの事です。インド系の友人と付き合っているから、当然の事としてインド系のお医者さんや友人のお世話になるケースが多くなるのでしょう。
さて、このクチンという街は平和な所で、ギスギスしていません。Rajan氏の話す所によると、他の地域に比べると、ものすごく住みやすい場所だそうです。軍人や、先生、医師、技術者などはマレー半島から派遣されている人が多いそうです。これといった産業があるわけでもないのですが、中央からの人材派遣に頼らざるを得ないのが現実でしょう。ここクチンではアフリカからの留学生も数多く滞在しているとの事です。また、インドネシアから治療を受けるのに、ここへ来る人々も多いと聞きます。そして、この地域に昔から住んでいる原住民イバン族の多くはシンガポールへ出稼ぎに行くようになったそうです。シンガポールで住居を構えのは、国籍の違いから難しいので、目と鼻の先にあるマレーシア領土内のジョホールバルに住み、通勤するパターンが多いと聞きます。同じマレーシアといえども、地域によって様々な特徴があるわけです。小さな街ながらも、国際色豊かな土地になるのは、それなりの理由があるのでしょう。これを日本と比較すると、日本の国際化の立ち遅れが目立ちます。クチンに到着する時、機内から見えた景観はジャングルそのものでした。今でも村へ行くには、川を上って、車に乗り換えて出かけるなど、近くであっても時間がかかるとの事。
交易の街として栄えたクチンとも言えるでしょう。クチン市街の多くは中国系住民なのですが、彼らの多くがキリスト教信者であることも従来の意識を覆すものです。一般的には中国人といえば仏教徒と短絡しがちですが、ここでは、どうも異なるようです。
まだまだ謎に包まれた都クチンです。明日からは、市内各地徘徊しようともくろんでいます。最近のお天気は、毎日雨が降っていますが。しかし、これも夜、若しくは早朝で、日中雨に会うことはまだありません。中国の正月が来週に迫っています。

2011年1月27日木曜日

収入格差


さて、ネパールやインドは人件費が安いと定説になっています。果たして人件費は本当に安いのでしょうか?今までの説明では重要な部分が欠落しています。すなわち、生産性を基本にして考えるならば、決して安いとは言えません。もしかすると、それは日本より高いかも知れません。例えていうならば、南アジア諸国の多くの官僚の行動を見れば良くわかると思います。日本の農協の理事職に似た職員が大半を占めています。10時出勤、4時半帰宅、昼休みはたっぷり2時間、実際の仕事は2時間もすればましなほうかもしれませんね。一ヶ月の給料が現地では比較的良いとされる10,000ルピー(12000円)としましょう。お祭りの多い国ですから一ヶ月に20日出勤すればましな方でしょう。実労働時間は2時間×20日とすると40時間で12000円とも読み取れます。そうなると時給で300円。まあ日本の最低賃金の半分程度に該当します。更に、公私混同による受益分(公用電話の私用化、インターネットの個人使用や消耗品の私物化などなど)を加算すると、日本と同様な水準に達すると言っても良いでしょう。国民の数%がこう入った役職についています。公務員以外でも、労働市場は拘束される時間は8時間程度となっていますが、インフラの未整備などで、待機時間が大きく増加しています。この観点からすると実際の労働時間を調整しなくてはなりません。一日3組しか客がこないレストラン(特に外人向け)でもウェイターや料理人を配置しています。人材豊富な国ですから、自ずから買い手市場となり、実際の給与は下がります。しかし、労働密度からすると、一日一時間しか働かないのと似ています。働いている人々全部がこうした計算に該当するわけではありませんが、国際的な統計をとって比較するには、生産性などを含めた新しい観点が必要でしょう。なるほどネパールの銀行員のようにかなりタフに仕事をこなしているケースも見受けます。勿論彼らの場合はそれに見合った高収入を得ていると言えるでしょう。高級ホテルで働く人々はそれなりに、国際標準の礼儀作法を心得なくてはなりません。小さなホテルだと、客がいない場合はうたたねしていても平気でしょう。しかし、前者の場合はそんなわけには行きません。緊張の連続とも言えるでしょう。それは、すなわち労働密度が高いとも言えます。国際的に所得を比較する場合、こうした観点からすると、南アジアの人々の所得は実際以上に低く統計に出される結果になってしまいます。また、南アジア特有の喜捨(バクシーシ)や賄賂による副収入は統計上現れていませんから、現地の人々の実際の所得はかなりの額が上乗せされるのが実情です。国民全てがこうしたブラックマネーの恩恵に預かっているわけではありません。中には時間から時間へと過酷な労働を強いられている人々も存在します。ネパールを語る場合には、最初のスタートが、「ネパールは年間所得一人当たり250ドル程度の貧しい国です。」という観点から始まっていますが、どうもそうではないようです。

2011年1月25日火曜日

クチン第一日目


ペナンの空港を10時前に出発したAIRASIA2時間後には予定通りクチン空港に到着しました。さてさて、久しぶりにあうラージャン氏とは15年ほど会っていません。果たして、無事対面できるものか、かなりの不安がありました。荷物検査や入国管理は20分ほどで済みました。空港の建物を出て、さて、どのようにして市内に向おうかと思案している間に長身のラージャン氏がひょっこりと姿を現しました。本当に久しぶりの対面です。早速、トヨタの車で自宅へ直行です。今日はラージャン氏の息子の16日目の儀式があるとの事で、是非参加して欲しいとの事です。予定では12時から始まる儀式が2時になりました。かなり遅れたわけですが・・・。儀式は大体2時間かかりました。
ここで、気がついたのですが、スリランカの神官が人気が高いことです。ラージャンさんに聞くと、スリランカの僧侶は手抜きをせずに、儀式を行ってくれるとのこと。インドの僧侶に頼むと手抜きをするそうです。さて、不思議な事かと思います。この神官はジャフナ(スリランカ)の出身で、ここクチンにあるヒンズー寺院の神官を8年間続けているとの事です。ここ、マレーシアのサラワク州では8年以上住んでいると永住権が出るそうです。しかし、彼の場合は8年以内に一度、この地域を出て新たにまた8年間の在職を繰り返すとの事です。この神官はタミル語を話すのですが、他にシンハラ語も話すことが出来ます。勿論英語、マレー語も堪能なようで、博学なる人物です。それで、私もためしにシンハラ語で対応してみました。とたんに打ち解け、話が弾みました。こう言った感覚は日本では理解しにくいものがあるでしょう。

2011年1月21日金曜日

タイプーサム

タイプーサムはヒンズー教のお祭りですが、本国インドではさほど盛大に催される事はありません。ここマレーシアでは盛大に行われています。2011年1月21日がこの祭礼の日で、年によって日時が前後します。今回はペナンでの光景を画像におさめました。まさしく熱狂的なお祭りです。この行事に参加すれば願いがかなうという事なんですが、果たしてその真意は?会場となるUTAMA通りは交通規制で歩行者天国で、まるでインドのどこかの街に来たような感じがします。



2011年1月20日木曜日

乱立する学校

南インドは大きくかわろうとしています。特にバスを乗り継いて各地を回ってみると、色々な事に気が付きます。インド最南端のカンニャクマリからケララ州の州都トリバンドラムに向かった時に気がついたのは、病院の多いことです。また同時にキリスト教の教会も多く見ることが出来ました。
ケララ州をバスで走っていると、荘厳な新しい回教寺院が目に焼き付きます。この地域は昔からアラブのトレーダーなどが出入りしていた地域で、多くのイスラム教徒が住んでいます。またキリスト教徒も15%を占めています。ケララ州の場合はヒンズー教徒の数は他の地域に比べると少なく65%程度を占めるのみになっています。さて街道沿いのイスラム教寺院はさぞかし、アラブマネーの還流を受けて作られたものでしょう。中には、まだ工事中のものもあります。道路も立派になりました。今までは2車線しかなかったのが、4車線から6車線になり、区間によっては中央分離帯も作られています。高速道路の料金所も整備されています。マドラス周辺ではETCの普及も進んでいるようです。そんな中で、大きく目につくのが、何の変哲もない村の中にポツリと広大な敷地を構えての大学(私立)が造成されていることです。いずれは、この周辺地域は大学の街として発達していくのでしょう。マハバリプラム郊外にも二年前から大きな大学が出来ました。校舎は一部完成とかで、授業は始まっています。既に1000人もの学生を受け入れているそうです。建物はモダンで垢抜けたビルの本館が目立ちます。学生や教職員の送迎用の大型バスが20台走りまわっています。完成した暁は、広大な敷地にいくつもの建物(棟)が並ぶことでしょう。学生は周辺地域だけではなく、遠く北インドからも勉強に来ています。勿論寮も完備しています。ここは、工科大学として名を連ねていますが、様々な科目があるようで、環境工学やバイオテクノロジーの学部もあるとの事です。学校の名前は長ったらしく、Dhanalakshmi Srinivasan Enginnering Collegeと名前がついています。いずれは、今の規模が更に膨れ上がり1万人ほどのマンモス大学になるのでしょう。かくして、ここマハバリプラムも次第に北インド系の住民がじわりと増加していくことになるでしょう。幸いに、マハバリプラムからIT工業団地までは30キロも離れていません。就職の道も多少は希望が見えてきます。インドの場合は学業を終えたから、就職は国内でという説は当てはまりません。日本では多くの卒業生が国内に就職を求めます。それは、主として日本語しか出来ないというハンデが伴い、海外への就職という枠が見当たらないわけです。またそういった発想は存在していません。しかし、ここインドでは技術系の大学ともなると英語で授業がなされるわけですから、一応国際的に通用するのも当然です。就職の道は国内外を問わず、広く対応出来るのがインドの強みといえるでしょう。技術系大学だけではなく、医学関係の大学も卒業すれば、国外就職という道も広がっています。こうして、インド社会はあらゆる部分で国際化の波が押し寄せてきます。それに比べると日本の国際化というのは、完全に立ち遅れてしまったと言えます。日本人の海外への渡航者数が1500万人を越えているはずですが、その多くは数日間の観光旅行としての渡航が大半を占めています。南アジア諸国での渡航者数というのは、主に海外出稼ぎ組の数に比例しているでしょう。近年インドからの観光客が世界各地で見受けることが多くなりました。確かにインドパワーには目をみはるものがあります。しかし、その実態をどのように解釈すれば良いものでしょうか?

2011年1月18日火曜日

インドのインターネットカフェ


アブドッラとは10年前からの友人です。ここでインターネットカフェを営むアブドラはまさしくアイデアに溢れた人物です。店内はいつも様々な客で混雑しています。近くに大学が出来たので、学生達の論文提出に一役買っています。学生達はプリンターを持っていないので、ここでプリントアウトするわけです。勿論、経験豊かなアブドッラの指示で完璧なレイアウトを施しての印刷です。近隣からは、銀行口座を開くのに必要な書式のタイピングや印刷の用件が入り込んできます。インド人、外国人を問わず、インターネットでメイルを出したり、チャットをしたりするのに利用しています。ネットの使用料は一時間20ルピーとなっています。おまけに鉄道、バスの予約や飛行機の切符手配も引き受けています。バス、列車の予約業務からは一人当たり50ルピー(100円)の手数料を徴収していますが、何しろひっきりなしに客が殺到しています。小銭をバンバン稼いでいるという感じです。
また携帯電話の普及が凄まじいインドですが、音楽好きな彼らは決まって携帯電話の空きスペースに流行歌を入れて楽しんでいます。これも、アブドッラの得意とする業務です。お客さんの依頼で好みの音楽を選択してマイクロSDカードに記録して渡します。聞きあきた音楽はもうさようならでゴミ箱に捨ててしまうわけです。これもなかなか美味しい商売のようです。他に、Xerox(コピー)の業務もあります。パソコンの出張修理も引き受けます。抜群のアイデアの持ち主なるアブドッラにかかると難問はあっという間に解決するわけです。
さて、このインドのバス予約システムはすごく充実しているように見えます。ぶらりと遊びに行った時は、ある客がチェンナイからハイデラバードへのバスの予約を申し込んでいました。手際よくオンライン予約です。ハイデラバード行は今は列車もバスも所要時間にほとんど変わりはなく、12時間で到着します。料金はACクラスで1300ルピー、エアコンなしでは、その半額で650ルピーとなっています。オンライン上の画面ではバス会社数社の空席状況が表示されています。しかも、どの席が埋まっているかも一目瞭然としています。なるほどまさしくハイテクインドの実情を示しています。5分ほどのオンライン操作でE-ticketを印刷してお客さんに渡し説明をして終了。
さて、アブドッラのテーブルの前にあるHPのプリンターには妙なものが付属しています。良くみると、カラーインクのボトルがむき出しで並んでいます。これもインドの知恵、経費を如何に削減するかの知恵なのでしょう。一時期日本ではカートリッジにインクを注入して再利用することが流行しました。しかし、これは更に進化した使い方とも言えるでしょう。

2011年1月17日月曜日

ケララとタミルナード州境の街クムリの出来事。

ケララとタミルナード州境の街クムリの出来事。
さあて、アレッピーからのんびりと2時間半かけてのクルーズはローカル色たっぷりで水郷の旅を満喫しました。いつもだと、船が到着するとタクシーの代用をしている軽三輪車(別名オートと呼ばれる)が待ち構えているのですが、今回は、一台も動いていません。翌日の新聞でわかったのですが、昨日はオートの組合が運賃値上げ認可を求めてストライキをしていたようです。幸いに船着場から、市内バスを拾ってバス駅に到着です。今回は初めて女性の車掌さんに遭遇しました。インドでは珍しいことです。最近女性の職場が増えたとは聞いていますが、車掌さんにも女性がいるようになったわけです。西洋との交流の歴史が深いケララ州ならではかもしれません。確かに、この州はインド国内でもヒンズー教徒が65%キリスト教徒が15%、イスラム教徒が15%その他5%という異色の構成です。様々な文化が古くから日常生活に影響を及びしています。垢抜けたスーパーマーケット形式の店舗は中規模の都市には必ずあり、繁盛しています。店内がこうこうと明るいケンタッキーフライドチキンに似た店も見かけました。最近目につくのは、アラブマネーで潤った人々の寄進によるモスク(回教寺院)の林立です。真新しい、優雅なデザインのモスクが主要街道にそってその勇姿をとどめているのは圧巻といえるでしょう。
さて、本題に戻りましょう。コータヤムからクムリという標高1000メートルの高原の街はバスで120キロの距離を4時間で走行します。最後の一時間は奥深い山の中を走ります。終点が近くなると紅茶畑も広がり、心を和ませてくれるのです。さて、バスは4時半過ぎに無事到着しました。何となく肌寒い気候です。そんな中を早速宿探しです。所が悪い予感が的中です。どの宿も満杯。安宿も高い宿も断られてしまいました。さて、次の町まで行って宿を探そうか、どうしたらよかろうと思案にくれている中、EVEREST GARDEN GUEST HOUSEというサインボードが目に入りました。最後の砦かなぁという瀕死の覚悟で、声をかけてみると、部屋があるという事です。しかも料金は250ルピーで良いからということです。オーナーのJALEELはちょっと小太りで陽気な性格で、片言の日本語を話します。私も応酬してタミル語で対応です。何となく意気投合です。さて、さて、お部屋を拝見すると、何かがオカシイ!いわゆる三階部分で眺めは良いのですが、窓の鍵が掛からないわけです。主人は大丈夫、問題ないからお泊りくださいと言っています。鍵が壊れているので、スライド式の窓は自由自在に外から開閉することが出来ます。まあ話は即決しなくて良かった、まだ支払いもしなくて良かったという事です。うううん、これではどうしようもありません。主人は今度は自宅の一室を紹介してくれました。ここなら鍵は掛かります。先に宿泊していたお兄さん(一人客)に頼んで、鍵はかかるけど、窓ガラスが自由に開閉する部屋に変わってくれませんかと、主人が頼みこみました。しかし、先客も、その部屋を見に行って部屋を代わる事を拒否したようです。まあ、そうこうしている間に一時間半経過、周囲も真っ暗になりました。今から、またバスに乗って2時間ばかり移動して宿探しも大変です。そんな中で、突然二人組の客がチェックアウトしました。間一髪で、鍵もかかる安全な部屋をゲットできそうです。すかさず、我々はその部屋に移動し、難なく一夜を過ごすことになりました。まさしく危機的状態での幸運でした。でも、翌朝になると部屋の一部が水浸し。どうも、この部屋は排水が悪いようです。雇われている爺ちゃんが一生懸命麻製のマットで水を吸い取っていました。夜はさほど気にならなかったのですが・・・。まあ朝も、近くの食堂で朝食を済ませてそうそうに出発しました。この場所も巡礼団のたむろする場所の一つです。しかも明日は山ほど人が来るということです。更にフラワーショーも開催されるという二重の混雑が災いしていたようです。クリスマスから年末、年始にかけての南インドの旅は過大なリスクを伴うものです。皆さんご用心ください。正月明け五日過ぎからは次第に人出が減っていくとの事です。そして、この宿探しの苦労は翌日30日も続くハメになりました。

2011年1月15日土曜日

カシミールのお店

カシミール人のお店とその裏側
今日は久しぶりにハッサンと話をしました。彼もここ、マハバリプラムで色々な仕事に従事してきました。今は海辺のレストラン、そして八つの部屋、更にツーリストカーを一台を持って多角経営をしています。更にもう一つオフシーズンには土地ブローカーの業務も兼ねているそうです。本人の言うには、若い頃は博打をしていて沢山無駄遣いをしていたものだと告白していました。その後、足を洗って真面目に事業に取り組んでいます。銀行からの融資などを受けずに、一定の資金が溜まったら、少しづつ規模を拡大するという方向です。これは、私の手法と同じです。概してインド人の商売人は借金漬けで自転車操業をしているケースが多いのですが、彼の場合は手堅く道を進むという事でしょう。海辺にあったレストランは2004年12月26日に津波の被害にあった大きな打撃を受けたにも拘らず、今はそれを乗り切って着実に商売を続けていました。潮風を浴びながら、彼は熱心に語ってくれました。

ここ、マハバリプラムはカシミールの人々が進出したことで様相が大きく変わりました。この街は彫刻の街で、それらを主体とした品物が有名だったんだけど、カシミールの人々が、色々な品物、宝石、銀細工などを持ち込んで商売を始めるようになったのが1984年だった。彼らの商法は実に上手で、外国人が旅で使う費用の半分以上を宝石などの買い物に巧みに使わせていますよ。なるほど、彼らの店は垢抜けしたデザインで魅力的な商品を沢山陳列しています。外国人も当然の事として、飛びついて行くわけです。この現象は、ここタミルナド州だけではなく、お隣りのケララ州の観光地、隣国のネパールの主要な観光地にも進出しています。彼らは豊富な資金力を元に、さあーと現金払いをしますから、建物のオーナーにとって絶好の店子になります。さて、宝石を売るにも、巧みにお客さんを誘導して、あなたの幸運につながる宝石はこれ、これだと話を進めて行くのです。そして、更にドル両替の仕事も彼らにとっては旨みのある仕事なんです。彼らは顧客からのドルキャッシュを貯めこんで、カシミールに持ち帰ります。そして裏のルートでテロリストグループに有利なレードで販売するのです。相手がテロリスト集団となると、通常の銀行決済の取引とは異なり、新聞などで発表されているレート(現在は44.5~45.0)を4割ほと増しとなる60以上のレートで交換しているのです。ドル札の流れは、パキスタンをはじめカザカフスタンなど旧ソ連邦のイスラム諸国にまで広がっています。そして、彼らが流したドル札でパキスタンのテロリストは武器の購入が可能になるのです。そして、その武器は、私たちインド人の胸に突き刺さるという仕組みです。だから、彼らカシミールの人々はクリケットの試合でインドを応援するのではなく、パキスタンを応援するのです。

そんな話をしてくれました。なるほど多少数字を割り引いて考えても納得せざるを得ません。インド各地に点在するカシミール系の人々にはマネーロンダリングの役割をになっているということでしょうか?

しかし、カシミールの店は構えが豪華に見えます。並べている商品も魅力的な物が目につきます。現地タミール州の産物を展示することはありません。ネパールでも同じ現象が起きています。オリジナルはカシミールの商品ですが、売れ行きが良いと見ると現地生産を始めます。どういう訳か、インド各地にはカシミールショップが各地に展開されています。

2011年1月14日金曜日

インドの巡礼団

南インドケララ州の山奥に一年に二ヶ月の間しか開門しない南インドの有名なお寺があります。。例年11月中旬から1月中旬の二ヶ月がここサブリマライの巡礼の季節です。25人のグループの事例を見ると、1週間のコースで車を借りきって一人あたり2000ルピー、一週間(7泊8日)の食事代、宿代が2000ルピーそして、お土産代が凡そ1000ルピーで足りるということでした。さて、これを日本に置き換えるとどうなるでしょうか。日本のそれはハイクラスの設定ですから、単純には当てはまりません。生活物価から想定すると・・・。通常このクラスの人々の月収は10,000ルピーちょいということでしょう。そうなると半月分の給料で1週間のツアーに参加するようなものです。日本の通常のパターンに当てはめてみると25万の給料の人が一週間の四国お遍路参りのツアーに12万円ほど支払うという感覚でしょうか?あくまでもインドバーションのツアーですから、ギュウギュウ詰めの車内、深夜を問わずに運転手二人で猛運転で猛スピードが基本。お客さんは狭い車内で座り眠りを特技とする人々です。しかし、この企画はものすごく人気があるようで、時期になると賑わっています。大体、男性は頭を丸めて、気分一新、懺悔を含めて参加しているようですが、どうも、身についた悪癖は容易に元に戻ってしまうようです。
さて、このインド人の巡礼はなかなか迫力があります。日本でいえば、江戸時代にお伊勢参りが盛んだったような風情を醸しだしています。出発となると、近隣や親戚から餞別が手渡されます。餞別を頂いた場合は、その半分程度のお返しをするのが一般的です。さて、お土産として人気のあるのが、甘いお菓子です。日本の感覚でいうと、大阪の土産は岩おこし、京都の八つ橋、伊勢のまんじゅう。そういったものに該当するでしょう。行った先々でお菓子を買いまくる人もいます。ケララ州の山間部にあるサブリマライにはアイヤッパーという神様が健康祈願として鎮座されているわけです。さて、巡礼に出かけるとなると気分一新で、禁煙、禁酒を余儀なくされます。この寺院は森の中に位置し、通常40キロの道を二日かけて歩くことによって、健康成就につながるとされています。なるほど、それは理にかなっているでしょう。この期間は参拝者は誰もが菜食主義を貫きます。これだと健康そのものの日々が送れそうです。巡礼に出かけたいと思うと、借金をしてまでも参加する人も多いと聞きます。先日、電気修理屋のアルナ氏の息子が巡礼に出かけて帰ってきました。勿論お土産には甘いお菓子をたっぷり持ち帰ったわけです。お父さんはそれをがぶがぶ食べて血糖値がグンと上がり、よもや糖尿病ではないかと心配になりました。数日後に、これは甘いものを大量に摂取したことが理由だったそうで、一件落着したわけです。祈願する寺院(神様)によって衣装がことなるわけです。いわゆる赤色軍団、黒色軍団と出で立ちもそれなりのしきたりがあるようです。
動画は、赤色巡礼団を取材したものです。有名なサブリマライ(マライはタミル語で山の意味)巡礼団は黒装束で固めています。チェンナイからペナンへのフライトも、巡礼団が半分ほど占めていました。この時期になると熱狂的なヒンズー教徒が世界各地から集まるようです。インドは宗教の多様性を誇る国ですが、同時に、それは、宗教間の対立を生み出すと共に、自分の属する宗教に対して熱狂的にならざるを得ないという背景を読み取ることが出来ます。それぞれの宗教によって、聖地が異なります。所得の向上と共に、いや、所得が少なくても、お寺参りは欠かせないというのがインドの現実といえるでしょう。
この記事は現在マレーシアに移動しましたが、回想録を兼ねて掲載しています。

2011年1月13日木曜日

南インドの茶店

ご覧ください。南インドの紅茶の入れ方です。北インドでは通称チャイと呼ばれています。しかし、南インドではティーと呼ぶのが習慣です。この地域では動画のように、高い場所から勢い良くお茶を落としこんでいます。これで、気泡を混ぜると味がまろやかになります。また熱いのを冷ます役割も果たします。砂糖控えめ(サッカライ・カンミ=タミル語)を指定すると、それに応じて調整してくれます。北インドでは、煮出し紅茶手法でチャイを作ります。一定のカップ数に達したときにつくってくれることもしばしばです。それまで客はじぃっと待つ場合もあります。カルカッタでもそうですが、南インドも紅茶を提供する場合は、事前にグラスにお湯をかけて消毒?じっと見ているとちょっといい加減かもしれませんがね。した上で紅茶を入れてくれます。まあ気分的には良いものですね。また南インドでは紅茶と共にコーヒーも良く飲まれています。現在の価格は紅茶一杯5ルピー、コーヒー一杯が7ルピーが相場になっています。他のソフトドリンクの類が200CC程度で10ルピーです。紅茶の場合は半額ですが、分量もその半額になっているので、どちらが安いか、どうも一長一短かもしれませんね。それでも、人々はティーショップに群がるわけです。

2011年1月11日火曜日

ゴミ収集

さて、ここマハバリプラムは世界各地からのお客が訪れています。その為か、他の街に比べると比較的清潔さが保たれています。といっても、これはあくまでもインド版スタンダードを基準にしていますから、随所にゴミが散らかっているのも仕方ありません。各家庭が毎月20ルピー清掃料として徴収されています。国際観光地なるマハバリプラムです。遺跡の入場料は外国人が250ルピーで、現地のインド人は10ルピーです。外国人はものすごく払っているわけです。一人の入場料が、現地の単純労働やの一日分の給料に近いはずですが、一向にこの街はきれいになりません。
それが、名もない普通の街にでかけると大変な事になっています。もう、街中がゴミだらけの世界です。店の番頭さんは自分の店先のみを掃除し、掃き溜めしたゴミは隣のお店の境界線ぎりぎりまで持っていくだけです。これだと、全く解決になりません。どうも、モラルの欠如というか、ゴミという意識、概念が異なっているようです。土に帰るのに時間のかかるプラスチック類はいつまでも、その形を留めています。排水を悪くし、水たまりと化してしまいます。それだと蚊も大量発生してしまいます。どうも、そんな事は全く気にしない人種なのでしょうか?皆がしているから、私も当然という雰囲気でござります。ああ、これだと、いつまでたっても社会の発展はありえません。果たしてインドの人々はいつになったら、この危機を感じ始めるのでしょうか?

2011年1月10日月曜日

家庭の主婦はアーテスト

タミルナードゥ州では、毎週金曜日の朝、女性が玄関先に絵を描く習慣があります。今日は、ここマハバリプラムでお絵かき大会がありました。お寺の境内で華やかに開催される会場は、選挙運動を兼ねているのでしょう。政治家のポスターや顔写真が一杯並んでいます。勿論、大会のスポンサーは某政党ということでもあります。昨日の競技会は男性の部、そして翌日は女性の日となっています。皆さんグループを組んで和気あいあい楽しくお絵かきを楽しんでいらっしゃる。そんな素顔のインドの風をお届けしたいと思います

2011年1月9日日曜日

ダンスフェステバルと政治集会

さて、毎年恒例のマハバリプラム・ダンスフェステバルはクリスマス(12月25日)から一ヶ月間連続して開催されます。今日はもう一つのイベントも開催です。今年五月にこの州の選挙があるので、前哨戦の演説会が100mほど離れた場所で開催されています。ダンスフェステバルは最前線の席が有料で100席ほどありますが、その後方は自由席になっています。さて、この両方のイベントを比較すると一目瞭然、政治集会に軍配が上がりました。今日は与党の開催する講演会なのですが、人集めの常套手段として名の売れたシンガーを引き連れて、まずは聴衆を和ませるのが基本なるようです。スピーカーの音をガンガンにして遠くからでも聞こえるように、流行歌を演出しています。時間と共に人だかりもどんどん増えていきました。警察も会場周囲の交通規制に乗り出しました。他方、クラシック・ダンス専用のダンスフェステバルは私にとっては居眠りしたくなるような気分です。インドの選挙制度も次第に国際化!したようで、選挙公報が発令された後は、講演会などを開催した場合は収支報告をしなければならない仕組みになっています。それ以前の運動であれば、どれだけお金を使っても無届で良いとの事です。そんな事情もあって、選挙前の活動はものすごく華やかになります。この前日は同じ場所で規模は少々小さなものでしたが、野党の政治集会が開催されました。こうして、インドも次第にその姿を変えつつあります。
結婚感も、見合い結婚から恋愛結婚に変わりつつあります。携帯電話の普及で男女の駆け落ちが続出した地域では、若者の携帯電話の使用を制限した州もあると新聞に載っていました。インターネットや携帯電話の利用が進む中で、人々の生活は容赦なく国境の壁を超えて、人々の生活パターンが画一的になりつつあります。そんな中でもインド的な場面を残したまま進むわけです。友人で電気製品の修理を行うアルナ氏の説では、今のインドは見合いが90%恋愛結婚が10%、でも離婚率は恋愛の場合は50%で見合いの場合は0%だと持論を話してくれます。見合い結婚は占いをして、相性をばっちり決め、神官も賛同しているから絶対離婚しないのですよと強調していまししたぞ。本当かなぁ。

2011年1月8日土曜日

マラリア対策!

インドのマラリア対策でしょうか?散水車ならぬ、噴霧車が勢い良く街中を消毒しまくっています。インドならではの光景です。当日は、このマハバリプラムで恒例のダンスフェステバルと政治集会がほぼ同時刻に開催されました。100メートルほど離れた距離に二つのイベントが共存?音楽をガンガン鳴らし賑やかな時間が過ぎていきました。明日は、この詳細を紹介します。

2011年1月7日金曜日

マハバリプラムへの道

今から30年前、この道路は埃だらけのガタガタ道でした。ぎりぎり2車線で、対向車が来ると徐行運転をしなければなりませんでした。それから30年後、状況は一変しました。10年ほど前から、この近くはIT関連産業が軒を並べるようになりました。それに付随して私立大学も広大な敷地に大きな建物を作り全容を誇っています。働く場所があると、当然の事ながら、団地やマンション、ショッピングモールの造成も必要になります。マハバリプラムからチェンナイまでの所要時間は今も昔もそんなに変わりません。道幅は広くなり、4車線、6車線になりましたが、交通量も同時に増加し、ラッシュ時間帯には渋滞があちこちで発生します。様々なタイプの車両がうずまく、インド的な光景です。所々まだ工事中や道路補修中の箇所があり、そこへ出入りする重機車両が道幅を狭くします。道路もすぐに痛んでしまい、随所に穴ぼこが生じます。スイスイと走っていたのが急に速度を落として走らざるをえません。それにしても、交通量の増加には目をみはるものがあります。料金徴収所もあり、日本でいうETCの仕組みもあります。交通規則といっても、あるようで、ないようで皆思いのままに動いている?そんな中をお巡りさんが、警棒を叩きつけてやけくそになっている光景は日常茶飯事です。政府が決めた飲酒運転の規則もあってないようです。話によると、飲酒運転が発覚し正式に告訴されると500ルピーの罰金が待ち構えています。それを三回繰り返すと免許停止措置が取られるというのは、日本でもおなじみかと思います。ここで大きく異なるのは、この国では、500ルピーで正式に交通違反切符を切る変わりに、100ルピーか150ルピーの目溢し料を直接お巡りさんに払うことで、物事が丸くおさまるという方法が幅を効かせています。そんな事もあって、インドのお巡りさんはやけにメタボ気味なのかも知れません。
同様に、排気ガス規制も実施されているのですが、政府が運営するバスの中にはものすごく古い車両があります。大都市区間を走るバスが一定の期限に達すると、それが、地方の田舎路線用として転用されています。車体に描かれた行き先表示もそのままで走っています。地元の人のみが知るまさしく路線バスになってしまいます。それに比べると民間事業の運営するバスは規則に準じて、次々に新車に買い換えをしています。トラックも、排気ガス規制があるのですが、車両点検には、賄賂が幅を効かせて古くても難なく通過しています。インドだけではなく、南アジア社会に広がる、こうした習慣が続く限り、発展への道は険しいようです。

2011年1月5日水曜日

12月26日ケララのお祭り

列車は、予定どおり定刻に終点カンニャクマリに到着しました。朝7時前でまさ肌寒さを感じる気候です。手前のナガールコイルの街で多くの客は下車したようで、車内はがらんとしていました。さて、さて、駅前に降り立って驚いたのは、インド各地からのバスが数十台びっしりと駐車されていました。ここへは数回足を運んでいるのですが、こうした光景を目前にするのは初めてです。駐車しているバスの傍らでは、食事の準備をしているグループもあります。どうも、何かがありあそうです。ともかく宿を探さなければなりません。駅から宿が集中する地域へは歩いて10分程度の距離にあります。いくつか宿をあたったのですが、全て門前払いに出くわしてしまったのです。これでは仕方がありません。止む無く、ここは通過地点として、隣のケララ州の州都トリバンドラムまで進むことにしました。バスを乗り換えして3時間後にトリバンドラムに到着しました。しかし、ここでも無残に期待は裏切られてしまうのです。どの宿も門前払いです。
止む無くならに北へ70キロのコラムに移動です。ここでも宿は満室とかで、数軒アタックしたのですが、門前払い。もう、絶対絶命!最後の望みをかけてノックしたのが、YMCA。ここは何故かがら空きで、部屋もすごく綺麗で料金も二人で500ルピー(1000円)でした。さて、その夜はこの街の寺院で盛大なお祭りがありました。

2011年1月4日火曜日

バックウォーターの旅(水郷地帯)

ケララ州のバックウォーターの旅としてコラムとアレッピーの区間は有名で、朝10時半出発で8時間かけて目的地に到着します。双方とも同時刻に発着です。
料金は一人300ルピー(600円)で少しリッチな船舶を使用しています。しかし、アレッピーからコータヤムの区間は2時間半の旅で10ルピー(20円)と格安です。後者の旅はローカルバスまがいのローカル船ですから、道中庶民の生活を垣間見ることができました。



2011年1月3日月曜日

12月25日いざ出発

カンニャクマリエクスプレスのボード

今日2010年12月25日から南インド周遊の旅が始まります。
マハバリプラムから30キロの距離にあるチングルパット発は夕方6時25分です。通常バスで一時間で移動が可能です。逆算すると4時過ぎにマハバリプラムを出発しても十分な余裕があるはずです。さて、出発を4時にして、バス乗り場に向かいました。しかし何かが変です。バス停には一台チングルペット行のバスがぎゅう詰めの客を乗せて出発を待ち構えています。午前中にバス停付近を徘徊した時は、4-5台のバスがそれぞれの行き先ボードを付けて待ち構えていたんですが・・・。今日から毎年恒例のダンスフェスティバルが始まります。バス停近くの友人アルナ氏の息子センテルに聞くと、バス停留所はここではなく、バイパス入り口に臨時のバス停が出来て、そこから出発するとの事です。友人のファズルに携帯電話で連絡をすると、すぐにバイクを走らせて1キロ離れた仮バス停まで送ってくれました。そこには、がら空きのチングルペット行のバスが我々を待っていました。バイクからバスに乗り換えると即バスは発車です。他にもう一台バスが待っていました。この路線は最近便数が増え30分間隔で運行されるようになっています。まあ、次のバスに乗っても良いのですが、乗ったら、待つことなく、即発車で絶好のタイミングで駆けつけたものです。15分ほど進むと、先発してい

2011年1月2日日曜日

新年おめでとうございます。

タミル・ナド州で見かけるアート。家の玄関に毎週金曜日に
女性が様々な文様を描く
ここしばらく留守にしていました。先日12月25日の夜行列車でマハバリプラムからインドの最南端カンニャクマリ(コモリン岬)にでかけました。さてさて、現地は大混乱というか、日本で言うとお盆と正月を一緒にしたような大混雑に遭遇しました。二度と行くまい南インドとでも言いましょうか・・・・。宿探しに右往左往の連続でした。この地域は合計10回ほど訪問しているのですが、今回のような大混雑に見舞われたのは初めてでした。思い出してみると、苦い経験ですが、別な見方からすると良い勉強にもなりました。しかも、最後の訪問地トリチでは小雨模様でぬかるみの中をとぼとぼ宿探しに奔走する結果になりました。行きはチェンナイから700キロを列車で南下(高齢者割引インド国鉄寝台列車)は400円(金、四百円也)帰りはバスを乗り継いで約800キロが800円の世界でした。順を追って旅日記をお届けしたいと思います。年末12月31日は当初の予定を3日ほど繰り上げてマハバリプラムに帰着です。ここで1月11日まで沈殿することになるわけです。