2016年11月30日水曜日

モールメイン

ミャンマー各地にある寺院

200年ほど前の教会

スクールトラック
昨日と今日はモールメインの街を歩いてみました。これと言って格別に見るものは無いのがミャンマーの一般的な街の形態です。中世の面影を残した街並みというのは、この国では見当たりません。いずこも新しい街というか、現代の町のパターンです。近年になって高層建築や洒落たビルそしてショッピングモール等が発達し始めています。と言っても、それはせいぜい4階建て程度の小規模なもので、内装などはやはりバンコクの華やかさととはまだまだかけ離れています。この都市の形成をアジア各方面から検討すると面白いものがあります。

2016年11月29日火曜日

ミャンマー夜行列車

グリーン車!

モールメイン行9:00PM発

こちらは普通車両
今日の夜は久しぶりの夜行列車です。ヤンゴンを9時出発で翌日5時半にモールミン到着の予定です。5500チャットすなわち約500円ほどの料金で300キロの移動が出来るわけです。まさしく、ガッタンゴットンとゆっくりと列車は進んでいきます。久しぶりの列車の旅には心も踊ります。座席は2×1の超デラックスと思えども、エアコンはなし、窓の作りギシギシしていて、開閉するのに一苦労。近年は道路が改善されて、夜行バスが頻繁に走るようになりました。これっは、冷房付きですから、少々高くても、多くの方が利用するので、列車の予約は比較的簡単にとることが出来ます。
前日に切符を購入しましたが、窓口の混雑はゼロで、インドの列車予約とは大きく異なります。
切符には、英数字で列車番号そして座席番号が記載してあるのですが、出発時刻の1時間前に駅に入り、15分ほどしたら、予定の列車が入線です。まだ時間が早いようで、客の数はまばらです。そんな中、ミャンマー人が私に切符を見せて、「私の席はどこ}と聞いてきます。切符を見るとローマ数字で記載されています。これだと彼等にはピンとこないわけです。私たちがミャンマーに入って、市内バスやメニューなどの数字が全てミャンマー語で記載されていると、判別できないのと同じ感覚です。それで、やおら、私が彼等を案内する羽目になりました。うむむ!

2016年11月27日日曜日

7. 列車でスーラットへ


7. 列車でスーラットへ

ボンベイの宿で新しく購入したルンギ(腰巻)に火が付きまして、一部穴が開きました。35ルピーもしたのに・・・。原因は蚊取り線香の火で、直径3センチの穴が3つも・・・。悲しみ一杯なのです。
北インドでは庶民の飲み物Teaの値段が何となく高いのです。列車内でのコーヒーの価格は南から遠くなるに従い徐々に高くなり、ボンベイではマドラスの丁度倍の価格です。その反面清涼飲料水(リムカという柑橘系の炭酸入りドリンクやカンパ・コーラ=インド伴コカ・コーラ)は大きな値上がりを感じません。これはスリランカでも同様で、工場で大量生産される瓶入り飲料の価格は相対的に低下しています。「インドでチャイ(通常飲まれるミルク入りの甘い紅茶)を飲んだ」という事が語り草になるのも、時の問題かもしれません。
チャイ(Milk Tea)の価格が50パイサ(0.5ルピー)の時リムカは2ルピーで4倍の開きが、その後、チャイが1ルピーの時は、リムカが225ルピーでその差は2倍ちょっとで追い上げています。
今年は天候不順で南インド特産のココナツが不作で、関連する商品は高騰し異常価格です。

2016年11月26日土曜日

ミャンマーのネパール人

今日の朝はラーマンさんの自宅近くにあるネパールレストランを訪問しました。なるほどなるほど、多くのネパール人が昼ご飯に集まってきています。レストランの主人はご機嫌で、近くにネパール人の宿泊所があることを教えてくれました。立派なビルで宿泊施設を兼ねています。入口にはタウンジーからやってきた母と娘がいたので、ご挨拶です。久々のネパール語会話を楽しむことが出来ました。この施設はおよそ10年前に、宝石の商売で財を成したネパール系ミャンマー人一個人の手で作られたそうで、ミャンマー国内のネパール系住民が自由に利用できるとの事です。しかし大原則があり、この施設を利用できるのは、ネパール系ミャンマー人のみで、外国人やインド系、ビルマ系の人々は残念ながら利用できません。又最長15日間の滞在は可能で、期日が過ぎるといったんでなくてはなりません。数日後には、又利用できるそうです。いわゆる、こうした設備はダラムシャラと呼ばれています。インド各地、特に巡礼地ではそれぞれのコミュニティが利用できる宿泊施設が整っています。いや、しかし立派なものが出来ています。日本円に換算すると数億円の評価になるでしょう。屋上には、ネパール独特の仏塔が建立されています。お見事なものでもあります。ネパール系ミャンマー人を対象にした設備は他に、マンダレーにもあり、タウンジーにも存在しているとの事です。ネパール人の多くは、ミャンマーが英国の植民地時代だったころ傭兵として派遣され、その後も住むことになるわけです。ミャンマーの北には特に多く住んでいるとの事。私たちの知らないところで、様々な活動が為されているわけです。
 

6.ボンベイ、人の波

6.ボンベイ、人の波
2月上旬のボンベイ市内は、空は澄んでいても、朝晩の冷え込みはかなり厳しく、どうしてもブランケット(毛布)が欲しい土地柄です。半袖シャツとルンギのみでは凍え死ぬ?ようにおもいます。ここで、改めて南国、スラランカや南インドの良さを知ることになるのです。ちょっと努力すれば、国力が豊かになるようでう。と言っても、何があれば、豊になるのでしょうか?スリランカは最近物質的に富んできました。タミールナド州は精神的に富んだ土地柄と見受けます。この両者―物質と精神を平行して進ませるのは、かなり困難でありまするぞ。
どうもボンベイは、日を追ってインドらしさから離れていくようです。ここは大都会も大都会。もう人口過剰で、都市の機能はその容量をはるかにオーバーしたような感じがしてならないのです。V.T(ビクトリア・ターミナル)駅とその周辺は、いつも人、人、人の大群が、延々と続いております。そしてタクシーの波。一体これが人間の生活なのでそうか?これを持って豊になったと思うと、ゾォーとするものがあります。

2016年11月24日木曜日

5. インドの話あれこれ(ボンベイ行) 

5. インドの話あれこれ(ボンベイ行) 1984.3.19受信分
マドラス発13:55のボンベイ・メイル(夜間急行)は、ほぼ定刻に満席で発車しました。馴染み不快タミール・ナド州から離れるのが、少々悲しい感じです。列車内は殆どが南インド人で、とても温厚なる空気です。乗客の多くはルンギ(男性用腰巻)に着替えをし、列車内でくつろいでいます。
インドの列車は遅れるのが当たり前という言葉をよそに、帝国の9時数分過ぎにボンベイに到着しました。早速以前投宿したPopular Lodge(ポピュラー・ロッジ)に宿をとりました。翌日は政府観光案内所、東京銀行そしてエジプト航空の3か所で終え、予定の2泊を1泊に切り替えて、このGreat Bombayを脱出です。ボンベイを夕方5時の急行自由席で264キロ北に位置するスーラット(Surat)に到着したのが夜の10時ですから約5時間の旅です。
こうして思うに、矢張りボンベイとマドラスはその顔つきや空気が違ってきたようです。インドで最もインドらしい、印度的だなぁと私が感ずる土地は、どうもタミル・ナド州に集中されているように気がします。と申しますのは、南インドは極端に物価が安いのでして、もし、このタミル州がお金持ちで裕福になったらボンベイ同様インドではなくなるともいえましょう。格別に金持ちを否定したり、貧乏人を肯定したりするのではなく、一つの観点として、捉え方としての比較です。
タミル・ナド州のトリチラパッリで宿泊した宿のルームボーイ達は、一カ月約60ルピーんお手取りと年に二着の新しい制服が支給されます。それでも彼等は何となく楽しそうに、はしゃぎながら毎日を暮らしています。私自身も、彼等と共に、映画の話や村の話を聞いきながら気楽な日々を過ごしています。

2016年11月23日水曜日

4. マドライ



4. マドライ


1月末のマドライの陽射しは、とても強いのです。ちょっとカラリとした感も致します。朝夕は過ごしやすいのであります。マドライを見ていると、印度的だなぁと感じます。特にスリランカから来ると、尚その感じが強くなります。いつもお世話になるガネッシュ・メスなる食堂では、食事の際は、何と11人ものスタッフに面倒を見てもらうことになるのです。水を運んで持ってくる係、お皿代用のバナナの葉を配る専門家!ご飯(ライス)を給仕する係、副食を並べていく係、バケツに入れたカレー汁をかける役割の人、食事後のテーブルを掃除する係など、完璧な分業体制です。日本とは全く異なったシステムですから戸惑うことでしょう。開店そうそうに行くと、総勢10人のスタッフに見守られて食事をすることになりかねません。客の数よりも、従業員の数が多いこともしばしば!街の賑わいは、スリランカのコロンボやカンディの比ではありません。
・八百屋には総合野菜販売業は少なく、玉葱専門店、芋類専門店などと、これも分業の度合いが深いものと感じました。
・郵便局の近くに、封筒や関連した必需品が売られているものと思っていたけど、なかったのが残念。
・いんどの船会社、出入国事務所・銀行では、矢鱈と人が多いのに気が付く。よく見ると書類をあっちへ持っていったり、こっちへ持って来たりする係(ペオン=英国方式)がいます。私たちには風変りに見えますが、当人達は休む間もなく一生懸命ですから、努力は買いましょう。現地のシステムに順応することが大切です。
・マドライより、トリチィのバスは3時間。160キロの道を10ルピーの料金で走るのであります。日本に比べると馬鹿安です。図体の大きいアショカ・レイランド社の車体が、ドコドコと唸りながら走ります。その点スリランカを走る日本製のミニバスは、何と言ってもこまわりが効くようで、まるでコマネズミのようにくるくる走ります。比較すると、さしずめ象車と猫車の違いなり。道中、緑豊かなのに驚きます。4月以降のTamil Nadu州はカラカラ天気で褐色の世界に近いのに、今は緑の絨毯です。しかし、同じ南インドでも西側にあるケララ州や、スリランカ南西部のように、鬱蒼として森林やジャングルがないことに気が付きます。丘には、うっすらと低木が茂っているにしか過ぎません。しかし訪問する季節によって、こうも違うものかと印象づけられます。
・先日のラメッシュワラム到着時の話に戻ります。ある日本人旅行者が、「Change Money・・・と言っているから、スリランカ・ルピーをインド・ルピーに交換できるさ。」と丁寧に別の旅行者に自信を持って説明しています。私が現地語でレートを確かめてみると、100スリランカ・ルピーは3538インドルピーでした。現実に交換した経験者は、信頼ある情報の持主なはず何ですが・・・。

2016年11月22日火曜日

3.日本人いろいろ



3.日本人いろいろ


A氏:下船後、入国カウンターで見かけた中年(3545歳)。重い荷物を背負って、疲れた感じ。声をかけたが、無口で反応なし。干渉すべきかどうか迷ってします。
B君:スリランカで出会って、10日間ほど同じ宿に滞在した。いつも不平、不満をブーブー言う27歳の日本人。彼の話は最もらしく聞こえますが、内容を深く突き進むと、考え方は可成り浅薄。
C君・D嬢:学生で二人ともスパスパのタバコ好き。日本を4日前に出て、スリランカ滞在の3日間滞在後、この船でインドに渡る。「ラメッシュワラムで一泊ゆっくりと」と船上で話していたけど・・・。クタクタになりながらも、B君と一緒にマドラス行きの列車に乗り込む。
E氏:30歳前後。インドの初旅で、日本を出発して数か月。10PMの列車に乗ってインド最南端に向かう予定が、何故か、B-E4人と一緒の行動。南インドはバスが便利と説明しても受け付けず、列車の時刻表とにらめっこしている。

2016年11月21日月曜日

2.インドを歩く日本人



2.インドを歩く日本人

最近、日本人旅行者に接する機会が多くなりました。その事柄に関係して感じますことを、少しばかり書いてみようと思います。殆の人に共通することは、日本語は十分理解出来るが、英語は極めて苦手(小生も似たりよったり)。勿論現地語も差パリ。まあインド社会に来て間もない人々には無理駆らぬことかもしれませぬが。現地語に関しては、数か月後には、ある程度の用が足せるのが一般的かと思いますが・・・。郷に入っては郷に従えとやらで、皆さんはドラッグ(大麻吸引)の方向に努力を傾注されているようであります。勿論言葉が全てというのではありませぬ。言葉が出来なくても、ユーモアのセンスを持って上手に旅を楽しんでいる人々も数多くいる次第です。この両者を持ち合わせない人々は、一種の硬直状態を抱えたままの旅に陥りやすいようです。

2016年11月20日日曜日

1.インドへの船旅



1.インドへの船旅

スリランカからインドへ渡る航路の切符は、接続する列車出発の5日前からコロンボ駅構内(Tourist Counter cum Railway Information Center)で求めることが出来ます。規則では25名の割り当てしかないのですが、何故か実際は60名の外人が乗車、乗船します。コロンボ発夕方の650分の列車に乗ることになります。当日切符を求めた日本人が二人いましたぞ・・・。料金は全部で341ルピー。2等自由席はちょっと混雑します。一人10ルピーで座席取りのダフ屋も登場。
1220  PM6:30 列車がホームに到着。プラットフォーム⑦番。
                PM7:05  コロンボ・フォート駅出発、予定より15分遅れる。
                PM7:30  マシンガンを持った兵士が五名巡回に来る。05
                PM8:00頃 乗車券拝見ということで鉄道職員が来る。
                                          その後数度にわたって鉄道公安官と兵士が巡回
1221日 AM 0:05  アヌラダプラ到着
                  AM 0:45  アヌラダプラ出発
                  AM3:40  タライマンナール桟橋到着

2016年11月19日土曜日

さて、どうなるか民族抗争



さて、どうなるか民族抗争

さて、タミル人とシンハリ人の抗争は一向に終わるようには見えませんが、どうもスリランカ政府の武力による根絶方針は長期にわたり、失敗に終わるような気配を感じてならない。すなわち、スリランカ政府の台所は大火事で、大蔵大臣が先ず悲鳴をあげた模様です。何しろ、ここ8カ月間の軍事費用は通常の20倍に膨らみ300クロール・ルピー。これを日本円に換算すると一カ月で30億円。すなわち一日あたり1億円を投じている勘定になります。間接的損害はこれ以上になっていることでしょう。
軍隊の数は、公称14,000人。こうして考えてみると、タミール人はしぶとく張り付いているようであります。さらに又、スリランカの外貨事情は悪化する一方です。以前にも述べたように観光収入のジリ貧、紅茶の生産高は例年の40%に低下し、国際市場ではインド産・中国産のTeaに押され気味。しかも近年アラブ諸国はスリランカ人の雇用を控え始めあとか。スリランカ政府軍は、イスラエルの後方支援を受けているという噂もうなづける次第です。更に石油価格の低下で中東諸国の通貨が弱くなり、海外からの送金も激減しそうです。世界的に民間の海外援助の中止も出始めています。どうもマイナスの材料ばかり続きます。

2016年11月18日金曜日

ランカ人根性物語



ランカ人根性物語

スリランカに出入りを初めてあら67年は経過したでしょう。人によってその印象は百人百様かと思います。短期間の一カ月以内の旅で且つ一日10ドル以上の費用で旅をする分には、スリランカ航空(Air Lanka)が言うように「パラダイス」かもしれません。それが7ドルから下がると、旅はみじめ?となる感が強いのです。
こうして何度も出入りをしてみると、時には良く、時には悪く、その印象が異なってくるものです。さて近年は、この各種なる意味での小悪魔たちの住む国を何となく愛するようになりました。それは、我々人間のどこか奥に潜む悪魔的存在を否定できないように・・・。そこにスリランカに対しての最終的な答えのようです。いつかは、また訪れたいと思います。逆に言うと、そこに住む人々は如何に忠実に育っているかをも教えてくれるようです。

2016年11月17日木曜日

いざこざ・トラブル

いざこざ・トラブル
さて、急増している日本人旅行者との間に各種のトラブルが発生しています。次の物語は、実際にあった話です。伝聞ですので多少違っているところがあるかもしれませんが・・・。
一人のスラランカの青年がいました。彼は19歳で浜育ち、サーフィンを日本人から習いました。その事件が起きたのは数年も前の事です。当時彼は日本人と西洋人の考え方の差を知り、特に日本人に対して好感を持つようになっていました。すなわちアジア的マインドが気にいっていました。従来の西洋人の方法は、どうも我々スリランカ人を人間扱いしていないのではないかいう空気を感じていました。それに比べると日本人は我々を同等に見てくれていると・・・。昔の日本人はドラッグ(麻薬)もやらず、サーフィン一本で見ていても気持ちがよかったとか。ともかく彼は日本人贔屓だったのです。

2016年11月16日水曜日

19か月支出総額100万円

ツアーに比べると!
格安の列車
19か月支出総額100万円
何度も何度も足を運び、同じ土地を飽きる事もなく漂っています。年に数回病気で寝込み、弱気になることもあります。そろそろ齢かなぁと感じたり、ああ、無駄な暮らしをしているのかなぁと弱気になることもあります。が、病から回復すると脳の働きもまた活発になるようで、しきりに次の開拓地を探ることになります。しかし新天地への道は遅々として進みません。でもそれが私にとってのマイペースかもしれません。アラブ社会の幾つかの国々を、半年ほどかけてゆっくりと見学をするのが、ここ数年近未来の計画です。
旅行者の間では、もう我らの」年代になるとオジン組。時には「お父さん」と呼ばれる始末です。まあそれなりに、私なりの世界観と庶民感覚を持ち得たことに満足しています。どうも放浪の星の下に生まれたようで、ちょっとやそっとで、人生は変わらないようです。新しい人との出会いを求めて延々と旅は続くようです。
我がマラリア騒動も一件落着で、塞ぎ込んだ状態から脱し、次は何を見ようか、体験しようかとプラン中です。まあ100件程思う事があっても、その中で2つか3つ実行できるなら十分と自分で信じている今日この頃です。ざっと一年半が過ぎ19か月のウロウロで実質使った金額は、これまた前回同様、約60万円の地上費と40万円程度の飛行機代ということになるでしょう。

2016年11月15日火曜日

藪医竹庵



藪医竹庵


検査結果
カンディに移って3日目。次第に体調が思わしくなくなりました。不調の始まりです。悪寒が始まり、それに続いて39度以上の熱でぐったり。勿論解熱剤を服用しているので食欲不振、それに加えて間接と腰のだるさ。果たしてこれは単なる風か、ひょっとするとマラリアの一種なのか?以前にもこれに似た経験があったので、数日もすれば快方に向かうものと、たかをくくって辛抱していたのだが・・・。結局は医師に診てもらうことになりました。
体温計で熱を見て、聴診器をあてて、私がケニヤやインドを旅したこと、症状を説明すると、「アンタ、マラリア」と即決。6種類もの薬を渡して「これを飲め」と各々2錠ずつですから一度に12粒もの薬品を胃に放り込まなければなりません。その為か一向に回復の兆しはありません。逆に吐き気を伴い、もうメチャクチャです。

2016年11月14日月曜日

民族問題が・・・



民族問題が・・・

タミル人との民族問題を反映して、近年シンハラ人の仏跡巡りは、スリランカからネパールへ飛び、そこからインドに入国して北インドの仏跡を回るルートに変更になりました。今までは南インドのマドラス経由で旅をしたのが、ルート変更です。これに伴って飛行機代金がおよそ400ドル上積みになりました。
多少のデマや流言があり、南インドでは嫌がらせを受けるとか、生きて帰れないとか、出国の際、係官に多額のワイロを要求されるとか・・・。デマを信じやすいスリランカ人にとっては尚更大きく心にのしかかって来るようで、仏跡巡礼をあきらめて、一週間程度のバンコクへのパッケージ・ツアーに参加する人々が増えたようです。

2016年11月13日日曜日

安い、安い物価

確かに、スリランカの気候、風土は素晴らしいと思います。「緑したたるインド洋の真珠」はその呼称にふさわしいのですが、人々の顔はどうもせせこましく映ります。同程度の人口で8倍程の国土を有するアフリカのケニアは、ゆったりとして素朴さを感じます。国民全体に経済感覚がないというか、社会のシステムが異質であり、個人差もあるだろうが、人間の本性をまざまざと示してくれているようで、人の良さを感じてなりません。アフリカの出来事ですが、レストランの従業員が私をわざわざ500mも離れた宿まで案内してくれたことがありました。庶民の素直さを感じてなりません。あの時、同行してくれたアフリカ人(ケニア人)を怪しげなるガイドと疑った自分が恥ずかしくなります。何故かスリランカでは、怪しげなるガイドが多すぎる。
いずれにしても、カンディとヒッカドワは私の良き休息の場所となりました。前回の訪問は民族問題の取材?の意味もあって、ちょっと緊張しましたが、今回はそれが日常化し、かつ激化するでもなく、人々はマンネリ化したようで、最近は格別変わったこともなく、私も気分的には楽になっています。やはりスリランカへは又訪問しそうなのです。物価の上昇も落ち着きはじめ、ドルとルピーの交換レートも以前と大差なく円の急騰を反映して円建てで計算すると昨年よりも大幅に値下げになり、旅人には嬉しい悲鳴です。そして通称ガイドなる数も激減しています。これは警察の取り締まりが厳しくなった事が原因と聞きました。

2016年11月12日土曜日

どこへ行くスリランカ



どこへ行くスリランカ

さて、久方のスリランカです。およそ一年振り、懐かしの我が故郷に帰宅です。どうも、ここでは、言葉が通じすぎて、全てのストレスは吹っ飛んでしまします。例によって怪しげなるガイド群が付きまといますが、難なくスラリと交わしておしまいです。
先ずは、前回の訪問地ヒッカドワに到着しましたが、全く不調、不景気そしてドン底という感じです。一昨年、昨年と打って変わって静寂そのものです。聞くところによると、大きなホテルのみ利用者増減なしで現状維持をしているものの、中小のゲストハウスは軒並み利用者が減り、部屋代も下がる一方です。前シーズン50ルピーの部屋は現在30ルピー。且つ我は友人割引とか称してシャワー、トイレそして庭付きの結構良い部屋を15ルピーで利用している次第です。

2016年11月11日金曜日

1985年1月の出来事 皆で日本食

スリランカ物語
1985年1月の出来事
場所:ヒッカドワ
日本人村が出来上がりました。この海辺の観光地では、正月の休みをとって旅に出たサーファー連中を主体として集まりました。今日は仲間達が集ってパーティーを開く事となりました。皆で手分けをし買い物をしてから天ぷらオンパレードを開くことに決定したのです。朝の9時頃から夜の9時まで楽しいひと時を過ごすことになりました。
全員で買い物に出かけ、その後は下準備。午後4時から6時頃までは調理の時間。そして6時から10時が本番。できたものは、各種天ぷら、野菜サラダ、牛肉の炒め物、そしてジャガイモのドイツ風煮込み。場所は繁盛していないレストラン(全館を借り切って・・・。使用料は全部含めて70ルピーでした。







2016年11月10日木曜日

ランカ最新情報おしまいに!

キャンディの民泊にて
ランカ最新情報おしまいに!
さて、ここヒッカドワでは今回のタミル系スリランカ人との抗争についての話は、あまりなされることはありません。理由としては、紛争地が遠く離れた場所にあり、この地域は99.9%の住民はシンハリ系に属しています。直接の利害関係がなく、至って平静で他人事として済んでいるようです。しかし、ここで伝わるニュース源は政府系の統率色の強い記事に頼っているのも事実です。観光地という事もあって、外人を追っかける事に夢中になり、国全体が直面している問題を捉える眼を失ったようです。
ここで、彼らの主張の誤りは次のように見出すことが出来るのです。
彼ら(シンハリ系住民)は「スリランカは俺たちの国」と主張しながらも、スリランカ北東部(タミル系住民が大半を占める)へは、絶対に出かけられないのです。いや出かけないのです。自分達の土地だと言いながら、自分達がいかないのは、他から見るとどうしても矛盾しているとしか言いようがありません。

2016年11月9日水曜日

続観光地の物語

続きまして観光地の物語
この観光地は、どうも狂い始めたようです。これは世界的な傾向、アジアの観光地はどこへ出かけても物価高、白人に対してのおべんちゃら、金に対しての執着心の強さにまみれてしまうと、心が狂うのも当然です。
ヒッカドワではなく、それは、南に20キロほど離れた少し寒村じみた観光地ウナワトゥナでの出来事でした。一人の老人が、ヨボヨボと杖をついて物乞いに来ました。現地の青年はコカ・コーラを飲みながら大声で「Go!(あっち行け)」ときつい調子で叫びました。もうこれは恐るべきことです。高齢者を労うことを徳とする社会回教徒の視点からすると、その青年は舌を抜かれても仕方ありませんぞ。
店主も「今はお金がないから後で来ておくれ」と現地語で返答していました。どう考えても、それは嘘、戯言にしかすぎません。5円、10円のお金がないという事はないはずです。パキスタンやインドでは、店主は決まって、5パイサ、10パイサを必ず渡していました。あたかも、それが義務でもあるかのように・・・。誰も、乞食や弱者を追い払おうとはしなかった。今まで見て歩いた社会とは大きなる違いです。何となく、観光地の弱点をありありと目前にして寂しい思いをしました。

2016年11月8日火曜日

レストラン不繁盛記



さて、ヒッカドワ(海水浴場・観光地)にやって来ましたが、意外と静かなのです。しかし、パキスタンのように回教に縛られた規律正しい国とは大違い。ああ乱れているなぁ!と深く感じるのであります。それは、この土地柄は強く文化汚染を受けているからなのです。西洋から中流、上流階層がドバーと押し寄せると、元からあった仏教的しとやかさは姿を消しまして、西洋、特に北欧のフリーセッnクス的思考が激しくぶつかるのでして、寛容な仏教徒はその波に巻き込まれ易い性質があるのではないでしょうか?
レストラン不繁盛記。昨年とは大違い。どうもスリランカ方式は解せません。蛍光灯に黄色や緑色のセロハンをかぶせてしまうと、折角の食事が不味くなるのが分からないのであろうか?外人客がは入店するや否や、わざとらしく、音楽を西洋風に切り替えたり、音量を最大に上げてみたり・・・。いろいろと悩ましいことが多いのです。
麺類(ヌードル)を茹でるにも、魚をボイルするにも、全て水から為そうとするこの不可解さ。料理のファンダメンタルズの欠陥は、もう救いようがありません。表向きのみ西洋風なれど、中味はズタズタになっています。

2016年11月7日月曜日

来年は俺たちの番さ



来年は俺たちの番さ

コロンボの友人達と
スリランカで今年の流行語は「フラット」と「セーフ」に尽きたようでして、英語そのものが定着したようです。前者は商店(街)の建物が壊され平坦になった事、後者は無事生き残ったことを意味するそうです。私も皆に交じってこの言葉を盛んに使いました。
コロンボの常宿としているユースホステルのあるヘイグロードの住民(半スラム的生活をしている人が多い)の勇士の何人かがポリスに指名されたそうでして・・・。でも話を聞くと「無給で棒切れ一本貰った臨時のお巡りさんだった」という事。この地区に住むガンジャ中毒のラーマン君とも懐かしく話をしました。話をしてみると、気も良く、話の筋も通っています。ただガンジャの好きな事が彼の将来に難点を加えることでしょう。でもこのことは、日本人の飲酒ということに置き換えることとも似ていますから、非難はできませぬ。

2016年11月6日日曜日

経済援助や企業進出について

典型的なスリランカの家族
経済援助や企業進出について
開発途上国への援助や企業の進出ということに関して、最近思う事が一つあります。
一般的に、日本企業や商社の海外進出の評判を観察すると、金儲け主義だとか、現地に何も還元しない、或は文化的交流に欠けるという声を聴きますが、この事に関係する話を少しばかり致しましょう。
私自身詳しくわかりませんが、思いつく点を幾つか。
一般的に欧州系企業の評判が良いのですが、それを解釈するにはいくつかの点を修正して判断する必要がありと思うのです。すなわち、現在の瑠璃ランカ或いは、この国同様に元大英帝国だった一部の国では、全くと言って良いほど英国式の文化が浸透しています。それらの影響は政治形態、教育制度、土地制度、食文化等幅広く及んでいます。現地の人々の考えからも、英国方式しかないと考えているようで、海外進出に対しては絶対的優位にあります。

2016年11月5日土曜日

衝突は政治的対立(ムールティ君より)

衝突は政治的対立(ムールティ君より)

中央がムールティ君、右は妹
インド政府は、インド押しかけたタミール人難民に、一人当たり3000インドルピーのローンを与えたそうである。
インドより色々な救援物資が届いたけれど、スリランカ政府からの品物は・・・。すなわちスリランカ各地の難民キャンプに送られる予定のユニセフ・赤十字の物資はスリランカ政府の手を経ているので、僅か20%相当しか出回りません。残りは政府高官の手に入ったのであろう。
大工場や商店などタミル系のものは破壊されたけど、政府はこれらの保険金の支払いに頭を悩ます結果となりました。生命保険も同様で、保険会社及び政府は大赤字。こんな状況だと、発展はさらに10年遅れることでしょう。
大きな暴動は、1956年のシンハリ語公用語法制定の時に、北方の街ジャフナ(Jafna)で、タミル人(ヒンズー教徒)対シンハラ人(仏教徒)の大きな衝突があったそうです。その後はずっと小競り合いが続いていたものの、1971年には、シンハラ人対シンハラ人の対立。その後1977、1979、1981年と連続して騒動が生じていた中で、今回が最大の闘争になっているそうです。
例えばスリランカ中央部に位置するバドゥラの街は3-4万人の規模ですが、8割がタミル人。その街は今、タミル人がいなくなってしまいました。そんな中で或る店主は従業員3人を殺したうえで自分も自殺を図ったそうです。何千人と押し寄せる群衆と軍及び警察の武器に対抗できないと悟ったそうです。

2016年11月3日木曜日

ムールティ君の話



ムールティ君の話

1225日はクリスマスの日です。久しぶりにカンディのマーケットをのぞきました。以前から店員連中となんだかんだと世間話をして時が過ぎていきます。マーケットの中でも、9か所暴動の被害を受けた爪痕を残しています。親友のムールティ君は、このマーケットの一角でおじさんのお店を切り回しています。彼の所に立ち寄って、夕方自宅を訪問することになりました。彼の住まいは私の常宿となっているムナシンハ家の3軒隣ですからすぐ訪問することが出来ます。
その時の話を記載しましょう。私の記憶が薄れない間に、そして少しでもスリランカの実情を知ってもらえれば幸いかと思います。
タミル語、シンハラ語そして英語を駆使しての会話でした。彼も真剣、私も真剣になったのです。一つの文章としてまとめるには、難しいので次の章で少しづつ記載していきます。

カンディーの市場
尚地名や人名などはカタカナ表記となり実際の発音とは異なる場合もありますが、予めご了承ください。
さて、ムールティ君はまだ25歳の好青年です。典型的なヒンズー教徒で家族は人柄のやさしさが溢れるお母さんと18歳の妹がいます。妹は目がクリクリとした美人で、小学校の頃父親が亡くなり、それ以前に弟も病気で亡くなったとの事です。商人育ちで小柄な体格で陽気な性格を持って客の対応に当たる第一級の販売員としてカンディのマーケットで活躍しています。

2016年11月2日水曜日

湿潤・軟弱



湿潤・軟弱

パキスタンから直接スリランカに入ると、文化の異質さがをはっきり感じることが出来ます。パキスタンの男系社会の親切さに慣れると、結構快適なる国で、何となく純粋な気分になります。酒は飲めない、女性は街をウロウロしない等と制約が多く日常生活は回教の規則に律されていますが、これがスリランカにくると、
「ああ、乱れている。だらしない」という印象になります。パキスタン的観点で見ると
乗物の臨席におばちゃん・姉ちゃんがでっかいお尻で割り込んでくる。
新聞にお酒の宣伝が満載。
女性が一人で街に出かける。
等と彼らにとっては、恐怖とも思える信じ難いことが沢山あるのです。