2017年2月28日火曜日

9.1パガンへの船の旅




この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです


9.乗り物あれこれ

9.1パガンへの船の旅

5:00
マンダレー出港
10:00
バナナ村到着
12:30
スイカ村到着
13:30
普通の村到着
14:30
ひまわりと菊の村到着
18:30
客引き乗り込み
20:10
終点パガン到着

イラワジ川の船
今日は待望のパガンへの船の旅の始まりです。宿の手配で朝の4時半にタクシーを予約したのですが、時間を過ぎてもタクシーはやって来ません。しかしここは真心で応対するのをモットーとするミャンマーです。宿の番頭さんが機転を利かせてサイカー(リキシャ)を調達してくれました。 「タクシーは来ないようだからこれを利用して下さい」としっかりとケアをしてくれます。 船着き場に着いたのはまだ夜の明けない5時前です。 周囲は薄暗い中に侘びしく蛍光灯や裸電球がまばらに周囲を照らし出しています。
今日の朝は5時半にパガン行き、そして6時にはメッチナ方面へ行く船が運行される予定です。 かくして大金の10FECを窓口で買い求め乗船です。 事前に、政府観光局で切符を買うと何故か1ドル分多く払う事となります。しかも観光局の窓口では、予約しておかないと席が取れないかもしれません」としきりに切符の購入を迫って来るのでした。

2017年2月27日月曜日

8.2新しい訪問者



この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです


8.2新しい訪問者

パゴーの寺院
最近近日本の人が多くがミャンマーを訪問するようになりました。戦没者の慰霊を兼ねた年配の人々もいます。ミャンマー観光年以来観光客やビジネス客は増加の一方をたどっています。太平洋戦争当時喝役であった人々はかなりの高齢に達しています。今はその子息達やお孫さんに当たる人々が慰霊を兼ねた旅に加わっているとも聞きます。NGO を兼ねて訪問する動きも多少活発化して来ました。多くの学生が卒業旅行と称して外国へ足を踏み入れます。ミヤンマーもまだ数は少ないのですが、一部の学生のあこがれをそそっています。多くのパッケージ・ツアーの人々が日本からビルマに観光に来ます。年金/叫カーとか称する中高年の長期滞在の人々も増えて来ました。様々な人々が謎の国ミャンマーを一日見ようと乗り込んで来ました。 最近の統計では日本人の訪問者の数は年間2万人程度となっています。しかしその多くの人々はミャンマーをどのような目で捕らえて帰国するのでしょうか? 彼らに共通するのはなんでしょうか?

2017年2月26日日曜日

8.1第二次世界大戦


この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです


8.日本との関係

8.1第二次世界大戦

マンダレーからパガンへの船
戦時中の日本人兵士は諸外国へ足を踏み入れる前に文化の相違については全く知る事なく放り出されたのが現実でした。多くの兵士にとっては始めての国外の体験です。自国の文化にたっぷりと浸った人々が大量に派遣されたのは事実です。すなわち他国の文化を知る事なく踏み入ってきた日本人の集団はさぞかしビルマにとっては迷惑だったかも知れません。
当時の様子は私にとっては詳しく解りませんが、確か日本軍はインドのインパールへ向けてトの進行作戦を打ち立て、それは余りの無謀さで有名になりました。当時のミャンマーの指導者でもあるアウンサン氏との約束であったビルマの独立を保証する事すら実行せずに単に占領の形を継続したようです。同様な事はインドネシアのスマトラ島の北先端部に位置するアチェ王国の関係にも似ていました。アチエ王国は当初は日本軍に対して好意的でしたが最終的には反日感情が高まり日本軍は終戦を迎える前に撤退を余儀なくされたという記述があります。

2017年2月24日金曜日

7.3イギリスの統治と政策



この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです



7.3イギリスの統治と政策

カラオに残る植民地時代の建物
英国がミャンマーを支配したのは1855年という革になっています。この事は英国のインドへの進出や香港-の支配等に比べると10 年間程遅れて居るのです。従ってその影響はインドにおける支配よりも少
ないように見受けます。其の中で大きな位置を占めたのがヤンゴンではないでしょうか?市内には数多くの旧植民地時代の建物が残っています。しかしこの規模はインドのカルカッタやボンベイそしてマドラスのような規模までは発展しなかったようです。勿論当初は僅かに点として主要なる都市を押さえた事から始まると思います。英国の植民地化はミャンマーの土地と水(イラワヂ川)を押さえたのでしょうが、
人々の心までは統治する事ができなかったようです。
現在も仏教が根強く信仰されています。古来から続いたこの文化を捨て切る事は出来る訳がありません。一つには統治した期間が約100年間程しかなかったという事もあります。また農村部に散在する敬虚なる仏教徒にとっては植民地化されたといっても生活が変るわけではありません。農村部の隅々まで英国の統治が及ぶ事が不可能です。最終目的として英国はこの国からの経済的利益を生み出す事が出

2017年2月23日木曜日

7.2近代史への流れ(列国の植民地化)



この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです



7.2近代史への流れ(列国の植民地化)

インレー湖の運河
昔からの仏教の浸透に依ってこの国の特異性が保たれているのではないかと思います。中世に於いてビルマはパガンの遺跡が示すように強大な王国を形成していたようです。歴史の中で数度も隣りのタイ国と戦争をし何度も勝利を治めています。ミャンマーは1824年、1852年、そして1883年の3度に渡り英国と戦いました。英国がヤンゴンに進出したのは1855年とされています。この国が第二次世界大戦後に独立したのは1947年ですから実質英国領インドの支配下にあったのは僅か、100年にも満たない期間です。英国の植民地化はインドより約100年間程遅れて始まった事となります。この事はカルカッタやボンベイのような巨大なシステムを構築するにはあまりにも時間が短かったように思います。また人口や国の規模からすればインドの10分の1以下のサイズです。
この国の土地の豊かさは充分に英国も未知していた事でしょう。地下資源や水資源に恵まれ、また森林資源にも恵まれ、まさしく黄金の国を発見したのではないでしょうか?過去3回のビルマ戦争を通じてようやく英国はこの他を支配する事となりました。まもなくスエズ運河が開通し本国との行き来は一層容易となり、フランスがインドシナ半島を手中に収める等列強の進出が盛んとなった時代です。インドネシアはオランダによって支配され、マレー半島は英国の支配下に置かれアジア地区は外交手腕にたけたタイランドを除いてヨーロッパ列強国の手中に落ちました。

2017年2月20日月曜日

7.1植民地風のカラオホテル



この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです


 7.英国とビルマ

7.1植民地風のカラオホテル

パインランド カラオ
マンダレーからインレー湖へ向こう道中に標高1500メーター種の高原にカラオという町があります。別名パインランドとも呼ばれ周辺の丘には松ノ木が茂り何処となく日本の景色に似通っている所です。元英国の植民地の避暑地として造られたこの町には、今でも数多くのコロニアル風な建物が残っています。当時鉄道もラングーンからここ迄伸びていたそうです。白い壁と黒い材木のコントラストは何処となく英国の田舎町の風情です。
その中で最も英国らしい建物は今から100年程前に出来たカラオホテルでしょう。機会があって内部を見学させて貰う事ができました。家具は重厚な作りでどれもどっしりとしたものです。日本のデパート等で販売されている現代風のデザインで機能的に造られた製品とは全くその質が違います。当時のパン塊の釜も現在そのまま使用されていました。この建物は政府の所有物なのですが、数年前から民間の企業が政府に家賃を払ってホテル業を始めました。物凄く賛沢な作りです。広い庭を持ち色々な花が競いあって咲いています。日本では栽培禁止の芥子の花が見事に赤く咲き誇っています。一度は泊ってみたいカラオホテルです。ちなみに料金は一番良い部屋で二人で45ドルという事です。戦時中この建物が日本軍の医療施設として利用されたと言われる由緒ある建物です。

2017年2月19日日曜日

6.5インドの偉大さを再認識



この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです


6.5インドの偉大さを再認識

英国植民地時代の建物
日本を離れて見ると日本の良さが解ると言われます。同様にインドを離れてみるとインドの良さを再認識するのも事実かも知れません。長年インドやネパール等を重点的に観察してきた私にとってミャンマー内部から見えてくるインドは大変偉大な国に感じる事がしばしばあります。
インドの産業の規模には改めて感心せざるを得ません。インドの強さは自国で全てのものが生産出来るという一面があります。また色々な地下資源も豊富です。経済活動も活発化しています。人口や国土の大きさがミャンマーのそれに比べて大きいという事だけではなく、文化面でもその音楽や芸能は世界の舞台で華やかに公演されて拍手を受けています。たとえマサラ映画でバターンが決まっているといえどもインド映画は発展途上国へ娯楽作品としてばらまかれ好評を得ています。
産業や文化の面だけではなく、政治や法律等の分野でも近代国家としての頭脳を発揮しています。インド自身が我が国は民主主義の国で世界の見本ともなろうという事を時々ぶち上げています。ミャンマーの国内情勢から判断するとインドの民主主義自身極めてインド的な性格のものであるとしてもこの説は肯定せざるを得ません。法律の

2017年2月18日土曜日

6.4インドの数回にわたる文化侵攻



この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです



6.4インドの数回にわたる文化侵攻

パガンの仏教遺跡
仏陀はネパールのルンビニに生まれ、インドのブッダガヤで悟りを開き次第にそれが近隣諸国に広まって言うたといわれています。東は日本、北はモンゴル、南はスリランカにまで広まりました。西を見るとパキスタンのガンダーラやアフガニスタンの中央部にまで一時広まったのは事実です。何世紀もかけてそこには文化の交流が為されていたのです。
パガンの遺跡を眺めていると何処となくインドの遺跡に共通した空気を感じる事があります。寺院建築のデザインも何処とはなくインドのそれと似通っています。幾つかはインドの寺院建築を模倣したものもあるようです。この影響はミャンマーだけではなくカンボジアのクメール文化もインドの影響を受けています。8世紀から12世紀といえばインドの王国は遥かインドネシア方面にまで足を延ばし、スマトラのスリヴィジヤヤ王国や中部ジャワのマジャバヒト王国等を作り上げお互いに影響し合った場所ともいえましょう。ミャンマー語の文字は南インドのパッラパン王国の文字の影響を受けているといわれます。そういえば私の知る限t)でもタミル語と幾つかはその表記法が一致する文字もあり

2017年2月17日金曜日

6,3丁寧な言葉使い



この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです



6.3丁寧な言葉使い

ヤンゴン中央駅
マンダレーで仕事をしている北インド系の友人を訪ねました。彼が話せるのはミャンマー語とヒンズー語の2種類です。同じ職場にタミル系の人もいますが彼ら同士が語り合う共通語はミャンマー語となります。さて彼のヒンズー語はとても穏やかな響きを持って耳に入りました。まるでこれがインド人なのかと疑いたくなるような丁寧な教科書通りの言い回しです。ミャンマーという仏教文化がかくもインド人を穏やかな人々に作り直したように思えてなりません。その背景を考えて見ると北インドでの実際の生活はストラグル(闘争)の連続です。あの社会に生きていく為にはあらゆる場合にも自己主張をしないといけないという強烈さを持っています。それに応じた言葉使いが派生したのではないでしょうか?スラングが生じるのもその国の文化の基盤に依って左右されます。このミャンマーという穏やかなる国に於いてはヒンズー語も全く異なった生き方をしたのではないかと思います。強いて言うならば仏教の穏やかさにインド人が去勢され、インド人らしさを失ったのではないかと思えるほどです。

2017年2月14日火曜日

6.2インド人の憂鬱



この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです

6.2インド人の憂鬱

これでも動く!
ミャンマーに住むインド系の人々は近郊の町へ行くにも警察の許可書がいるそうです。掃ったときには地元の警察に報告する義務があるとの事です。いわゆる外人登録扱いで正式などルマ人にはなれないと言う事を開きました。毎年2000チャット払って書き換えをしているそうです。何人かはビルマ国籍すなわちピンク色のカードを取得できる事になったのは最近の話です。現在はミャンマーで生まれた子供達はミャンマーの市民権を持つことになるそうですが、詳しい事は次回の報告までお待ち下さい。
タージとインレーの間にカラオという小さな町があります。今でも英国風の建物が並び植民地当時の面影を覗かせています。ここでシーク教徒のホテル経営者が向こう側から自転車でやってきました。少し立ち話をしたのですが-彼はきれいな英語を話します。何処で習ったのですか?と聞いたらお父さんが必要だから勉強するように進められたそうで

2017年2月13日月曜日

6.1ミルクティとモヒンガ



この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したもので



6.インドとミャンマー

6.1ミルクテとモヒンガ

お茶屋さん
ミャンマーの街角で足の短い椅子に座って街角の喫茶店て、お茶の時間にしている時が最もミャンマーらしい瞬間だと感じるのは私だけでしょうか? 茶店に入ると必ず中国茶の入ったやかんかポットが紅茶やミルクコーヒーと一緒に出されて来ます。どうもこの組み合わせはインド文化と中国文化を併せた物として映ります。地理的にも両国に影響され易い地形です。
国民食の一つにモヒンガと呼ばれる簡易カレーヌードルスープがあります。これもまるでインドと中国の合作という感じがしないでもありません。ヌードル本体は中国の食品です。スープはどちらかと言うとカレー味でこれはインドの食品です。これらを同時に食するのがこの国の国民食なのです。日常朝ご飯の代用となったリ、夜食にも適当な食べ物で町のあちこちに屋台が朝早くから遅くまで提供してくれます。この食品について付け加えるとその味付けは魚の出し味の効いたものでもあります。マレーシアのペナンにはこれに類似したラクサという食べ物がありますが、これはカレー味が薄くそのスープは黄色くありません。しかし魚の出し汁の風味はアジアの島狭国を思い出させます。これから類推すると、モヒンガは3種の文化混合の味とも言えるでしょう。

2017年2月12日日曜日

5.6陸路の国境は開くのか?



この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです


5.6陸路の国境は開くのか?

デパートの前 
さて現在ミャンマーはアセアン諸国連合に加入しました。日本の国際化の歴史でも解るようにその手順としては、第一に物資の交流が始まり大量に全世界へめがけて日本商品が送り込まれました。そう言った過程を終えて次は人と人との交流が始まりました。多くのビジネス関係者や観光客が今や世界各地に流れて行きます。それから文化の交流へと熟成して行くのではないでしょう。ミャンマーも次第にその政策に変更せざるを得なくなりつつあります。
1995年の統計では観光客の入り込み数は国境近辺のボーダー地区を往復する数を含めて20万人を越えたようです。しかし空路でのヤンゴン到達組みはその半分の10万人程度となっています。いずれは陸路の国境の開放へと向う事になると思いますが、現在の状況では当分の間不可能ではないかと感じます。大量の観光客の増加が情報を一気にもたらしてしまいます。現在の政権にとっては

2017年2月11日土曜日

5.5軍事政権への道





この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです


5.5軍事政権への道

inle temple
1947年に英国から独立したミャンマーは暫くの間ウ・ヌーの指揮の下に民主主義の道を歩み始めました。しかし1962年にはネ・ウィンが政権をとりその流れが現在に至っています。ネ・ウィンは次々と産業の国有化をはかりビルマ人国家の建設を目的としたようです。この時には10万人を超えるインド人が本国へ帰還したとも言われています。1988年年頃に民主主義の要求が高まり、当時一週間で6,000人もの死亡者をだしたとされています。これを受けてネ・ウィン氏は引退をしました。国名もビルマ社会主義連邦共和国からミャンマー連邦と変更しました。翌年選挙が実施されNLD(即ちナショナルリーグオブデモクラシ)が過半数を占めたのですが、政権の移行は為される事なく現在の軍事政権が継続されています。高齢のネ・ウィン耳は現在でも影の政治家として国家を左右する力があるとされています。

2017年2月10日金曜日

5.4ミャンマーの坊ちゃんとの会話(元活動家)


この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです


5.4ミャンマーの坊ちゃんとの会話(元活動家)

ヤンゴン市内で
先日ピーのゲストハウスに宿泊していた時にヤンゴンの青年と話をしました。英語もかなり話すので色々な意見を聴く事が出来ました。家はヤンゴン市内にあり、家族はあの有名なスコットマーケットで宝石屋をしているとの事です。本人は大学時代に知り合った彼女に合いにきたそうで、今回は一週間の滞在の予定とか、彼女の家は地元では有名なレストランを経営していて、かなりのお金持ちだそうです。新婚旅行で彼女はアメリカのダラスへ行きたいといっているのだけとも沢山お金がかかるから私はインドネシアのバリ島にしたいと噴いていました。在学時代は、民主化の選挙が行われた時で武器を持って活動した事もあると話していました。両方ともかなりの金持ちです。ヤンゴンの自宅には車もあるそうです。これから叔父さんのコネクションを利用して船員となり海外で働く予定でいるそうです。

2017年2月9日木曜日

5.3回教徒と仏教徒の抗争


この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです


5.3回教徒と仏教徒の抗争

ミャンマーの列車
昨年の春にミャンマーではかなり大きな暴動が発生しました。この事は日本の新聞にも報道されました。事件の発端はある回教徒が仏教徒の娘を強姦した事から始まりました。マンダレーでの事件は各地に飛び火をし、回教徒の商店や車等が焼き討ちの的となりました。この事件が収まるには2週間以上必要だったという事です。当時マンダレーでは夜間外出禁止令が発動され、3人以上での歩行は即取り締まりの対象となったそうです。寺院に対しても軍が僧侶の行動を規制する動きとなりました。この国の伝統なる早朝の托鍬に代わって軍が寺院に食ぺ物を差し入れしたとも言われています。
時々散発的に回教徒と仏教徒との抗争が起きる事がありますが、今回は今までにはない大きなものとなったようです。バングラデッシュとの国境付近の州ではかなりの数の回教徒がミャンマー人として住んでいます。数年前にはこの地域の住民ロヒニヤンなる回教徒のグループが大量に隣りのバングラデッ