2017年4月20日木曜日

カトマンズの片隅で

古都パタンの王宮広場
先日友人で、ここカトマンズで宿の経営をしているジャガットさんと一緒にある家族を訪問しました。カトマンズ中心地にあるナヤバザールの簡素なアパートにはインドからの家族5人が住んでいます。32歳の夫は近くの縫製工場で一日500円の収入を得ながら、家族を養っています。彼等の出身地はインド・ビハール州のラクソールの村ですが、6歳の男の子が初期の小児麻痺で足が不自由で立ち上がることが出来ません。そんな子供を抱えた家族は、村人から差別を受け、村から出ていくように促されていました。両親からも迷惑がられ、結局村を離れることになりました。9歳の長女は栄養不足で年齢の割に発達が遅れているようで、身長は6歳の次男と変わりません。正常に育ったと思える8歳の長男を伴って、全員5人でインドの首都デリーに向かいました。そこで数か月過ごしたようですが、あまり芳しくありません。ネパールでは、海外出稼ぎ熱が高く、若い人や仕事をする人がいないとの情報を得て、はるばるカトマンズにやってきたそうです。こちらに来て約半年経過しています。足の不自由な息子のために、生活費を節約しながら、検査(費用は約10,000円)も受けました。幸いな事に格別異常はなく物理療法で回復に向かうだろうという診断を得ました。と言っても、療法に通う費用を捻出するのも大変です。こうした、話をどこからともなく、友人のジャガット氏が聞きつけて、何とかできないものかと奔走しています。そんな中に私も参加することになりました。

ジャガット氏の意見では、指圧療法で快方に向かうかもしれないという望みを託し、費用の安い治療院を捜索中です。彼等の家族も見て見ぬふりをしているわけではありません。一人500円の義援金を募った所、15人ほどが賛同してくれたようです。ここで、私も参加です。数十万円の拠出は無理ですが、出来る範囲の資金を用意することになったのです。
さて、この家族の宗教はイスラム教ですから、家族を訪問して、ジャガット氏も初めて、その事をしったようです。私としても、最初は戸惑いました。ネパールへ来たのだから、ネパール人の支援に役立つならば、そして、仏教徒やヒンズー教徒の多いネパール人を対象にしたものと想定していたのが、大きな番狂わせとなりました。一瞬、何故私がネパールに来て、インド人家族で且つイスラム教徒に手を差し伸べるのだろうか?と疑問が沸きました。しかし、それは、視野の狭い考え方だという事に気が付きました。今目の前で、こんなに困っている人に何故手を差し伸べるのをためらっているのだろうか?国籍を超えて、宗教を超えて、困っている人がいれば、そこへ支援をするのが急務なのは当然です。国籍や宗教にこだわっている自分が急にみじめになってしまいました。
すなわち、日本人が支援をしているのではなく、干場という個人が支援をしていることで十分なのです。
概して、ネパールやインド等では、個人としての支援よりも、「日本人が支援してくれる、ああ、日本人は神様だぁ!」という感じになり、彼等は常に、両手を合わせて感謝の意を表しています。この裏には、現地の人は、「日本人だからお金持ち、そして、高額の支援をしてくれる」という先入観を抱えています。支援には、国境の壁み宗教の壁も存在しません。日本の国旗を背景に、花束贈呈の儀式に多額の費用を注いでいる支援団体に疑問を感じるこの頃です。
家族の話に戻りますが、子供達も学校に通わさなければなりません。といっても、子供達はネパール語ができません。又居住証や、ネパール人が通常所持するIDカードも持ち合わせるわけがありません。近くにイスラム教徒の子供達が通学する学校があるので、先日問い合わせにでかけたら、二人の子供通うなら年間7000ルピーの授業料を払って欲しいと、途方に暮れています。
一般的にイスラム教社会では、困っている人々を救済する仕組みがありますが、ここでは、残念ながら機能していないようです。彼等のあまりにも凄惨な状況そして貧しさに対して、何の慈悲を受けることなく時間が過ぎていきます。
一つしかない部屋の窓側にマットレスが敷いてあり、一家5人の就寝の場となっています。家財道具らしいものは全く見当たりません。ガスボンベに並んで多少の台所製品がおかれている質素な部屋です。私たち日本の標準的な生活からすると、驚愕するしかありません。
幾つかの質問をする毎に、母親は涙ぐみながら話をしてくれました。
さて、インドやネパールの乞食の中には、それを職業としているグループも数多く存在し、見せかけは貧しそうに振舞い、欧米人の関心を引こうとしています。その反面、一日の収入は真剣に働いた人々を上回る場合もあるそうです。しかし、この家族はそうした人々とも違います。
彼等はネパール語が話せないので、ジャガット氏がヒンディ語で話をし、それをネパール語で私に通訳しての意思疎通です。私も時々ヒンズー語で口をはさみながらのインタビューが続きました。
それにしても、昨今のカトマンズは建築ラッシュで、中心街には高級ホテルや、ショッピングモールなどの新築、再開発などが進展し、その多くの労働力はインド人に頼っています。縫製工場なども、人材不足で多くのインド人が働いています。田舎からも人々が出稼ぎに行き、村には老人ばかりになっています。自国での産業がない国で、農業等の第一次産業を嫌う風潮が強くなり、出稼ぎ熱は収まる気配がありません。
必然的に労働力の移動がインドの村落からカトマンズへと激しく進んでいます。
大都市は金持ちが住む場所ではありません。貧しい人が住むことのできるのが都市なのです。田舎では、皆が顔見知りですから、毎日モノを貰いながらの日々も長続きしません。

後日談

今日はイスラムの難民家族を訪問しました。私が10,000ルピーそしてJagatさんが集めた2500ルピーを手渡ししました。
息子が治療を受けるのに、インドのベナレスに行くことが決まり、用意したわけです。以前とは話が違うことになりましたが、その家族の気持ちを汲んで実行することになりました。村に住む近くの子供が同じような症状だったのが、ベナレスの病院で治療を受けたら、回復したとの話を聞いて、一刻も早く、出かけたいとの事でした。二人の息子はカトマンズの親戚に預けての旅立ちです。
日本円に置き換えて考えると、物価水準を加味した場合、この家族の収入は日当が500ルピーです。まあ6倍程度の購買力を考えると3000円の日当です。毎日働いて一カ月9万円。ぎりぎりの生活になるでしょう。私たちの渡した金額は、日本で言えば、75000円ほどの値打ちになります。これだと、富山から東京往復そして、滞在費用などに充当できるでしょう。いやはや、モハメット・リザゥルは、32歳の小柄な青年です。いかにも真面目そのものなる印象を受けました。年齢の割に痩せています。幼い頃から栄養状態も良くなかったのでしょう。確かに会った時には、何か探し物をしていたものを見つけた時の感動に似ています。
息子は私の膝に乗っかって嬉しそうにしていました。
さて、この家族は、やはり貧しいようです。何しろ奥さんは文字を読むことが出来ません。携帯電話を持っていても、かかってくる電話を受けるのみです。旦那の番号もわかりません。文字が読めないことの不幸を目前にして、驚愕します。しかし、その事については、誰も責めることはできません。あまりの環境の悪さに茫然としてしまいます。しかし、彼女は生きるのに必死です。


0 件のコメント:

コメントを投稿