2017年11月21日火曜日

スマトラ紀行(9)ブキッテンギ到着

開店二年目を迎える洗濯屋さん
今日は朝9時過ぎにブキッテンギの近くに到着しました。出発時には「15時間走るけど1時間ほど休憩するから全部で16時間だよ。明日の10時が到着予定」と聞いていました。ブキッテンギらしい光景が近づいた所でバスは朝食の時間となり30分ほど休憩です。スマホで見ると後10分も走れば目的地のブキッテンギのバス駅なはずですが、急いでも仕方ありません。何しろ、このバスは終点がパダンですから、ブキッテンギからは、まだ2時間以上かかります。
私がこの街に始めて足を踏み入れたのが25年前です。マレーシアのペナンからフェリーでメダンのベラワン港にはいり、ブラスタギ、パングルランそしてパラバットを経由してブキッテンギに入りました。当時はインターネットもなく、地球の歩き方やロンリープラネットなどのガイドブックも普及もない時代でした。それでも何かしのガイドブック(安宿情報)や宿に備え付けてある旅のノート、そして口コミの等が有力な情報収集の手段でした。何かのガイドブックに記載されていた安宿にガンガ・ホテルという名称の安宿が街の
真ん中にあることを知り、早速交渉し宿泊することとなりました。部屋と言っても、全く簡素な作りで、ガラス窓などはなく、板で出来た窓ですから、閉めると真っ暗です。今思い出してみると、良くそんな所に泊まってものです。当時の安宿というのは、発展途上国では良くあることで、さほどの抵抗もなく、値段の安さからも受け入れざるを得ない状況でした。何しろ、数ヶ月も旅を続けなければならないわけですから、節約をしなければなりません。しかし、それは、大きな苦労ではなく、安心して眠ることができればそれで良いのです。当然の事ながら、トイレやシャワーも共同です。出かける都度、しっかりと鍵をかけて用足しにいくわけです。
さて、ここの宿には、番頭格の青年、掃除のおばさんそして、更に一人若い青年も働いています。当時は少しばかりインドネシア語も話せるようになり、料金の交渉や買い物等に重宝していました。しかし高度な内容になるとチンプンカンプンです。さて、この街は標高1100メートル程の高原地帯にあり、周囲には、数多くの景勝地があります。街のそぞろ歩きや、周辺の観光地めぐりをするには、数日間の滞在が必要です。所が、この宿のスタッフの中に、青年が気にかかります。落ちついていると言えば、落ち着いているのですが、覇気がないというか、いつも暗い表情をしています。ボツリボツリと話をしているうちに、次第に彼の置かれている状況がわかって来ました。
この宿で働きながら学校(高校)に通っているとの事です。しかし、朝はやくから夜遅くまで仕事をしています。夜は12時頃まで仕事です。最後の仕事というのは、最寄りの警察署に宿泊者名簿の提出を行うことです。大体これが夜の9時頃になるわけです。そのほかに、洗濯などの作業もこなさなくてはなりません。実家は、ブキッテンギの郊外にあり、日帰り出来ないわけでもないが、朝5時の乗り合いバスを使わなければなりません。往復の交通費も重み、家が貧しいので大変だから、自分で働きながら学校に通っているという事でした。
しかし、働き始めてから一ヶ月ほど経過したけど、給料が未払いのままになっているので、今後どうしたら良いものか、まさに、路頭に迷うが如く、すごく心配していました。私のたどだとしいインドネシア語で、ここまで理解をすることが出来ました。
夜になると、いつも警察署に向かいます。いつもお腹を空かしているようで、夜になってそっと、屋台で売っている軽食を差し入れすると、優しい微笑みがこぼれてきます。
さて、これはどうすれば良いものでしょうか?メダンで宿泊した安宿は、オーナーがニアス島の出身で、島から出てきた青年達のコミュニティの場ともなり、何人かは、ここで働きながら学校に通っています。いわゆる苦学生引取場所みたいな所でした。そうした事からもヒント得たのかもしれません。また神様の仕業かもしれません!ともかく二人でひっそりと語り合い、「ここを脱出すれば良い、今までの給料未払いは考えなくてもいいから。当分の生活費は私が準備しましょう。明日銀行に出かけて口座を開きましょう。しばらくの間の生活費として2万円を入金し、部屋を借りる手配をし、寝具を購入し体制は整いはじめました。15歳の少年にとっては、まるで魔法にかかったような気分でしょう。私が日本に帰国したら、すぐに一年分の生活費を送るから、心配しないように」こうしてサルマンとの出合いが始まったわけです。その後大学を卒業するまでの7年間奨学金を送り続け、無事大学を卒業したわけです。
大学をでたものの、そう簡単に良い職業につくことも出来ず、首都ジャカルタまで出かけて職探しをしてみたものの、うまく行かず、故郷に戻ってきて、銀行に勤務をしましたが、これも思うようにうまく行かず、今はクリーニング業を始めて張り切っています。人生の様々な苦難を乗り越えて、今は一段と大人になっていました。信仰心の厚い彼は、人が良いというか、純情さを失うことなく今の人生を歩んでいます。
事前にフェイスブックで連絡を取り合っていたので、私が現地に到着する時間は知らせてありました。
バスが到着しても、駅には彼の姿は見えません。バス会社の窓口のおじさんにお願いをして、電話をかけてもらうことにしました。さて、20分ほどしてバイクでとことこと姿を見せてくれました。いや懐かしい顔立ちで、今も昔も殆ど変わりません。あどけなさはないものの、二児の父親らしい余裕がどこかに感じ取ることが出来ます。
早速バイクの後ろに乗っかり彼のお店に到着です。新しく開店したクリーニング店は来年の1月で丸2年経過します。最近は固定客もついて商売は順調に進んでいるようです。勿論彼の家にも訪問です。その後ホテル探しです。以前宿泊して馴染みとなっていたデリマホテルは満室で値段も昔の倍ほどに値上がりしています。何しろ周辺には高層ビル化した高級ホテルが二軒も営業をはじめました。成る程、これだと安宿として有名だったデリマホテルも強気の姿勢でしょう。ここを最後に訪問したのは、10年前でしたから。矢張りどんどん変わっていくものです。こうしてようやく探し当てたのが、場末のムルニ・ホテルでした。値段を聞いてびっくり、7.5万ルピアですから日本円で600円ほどです。まあ設備から行くと、当然かもしれませんが・・・。場末の宿には慣れっこですから、驚くことはありません。それが、意外とぐっすりと眠れる夜となりました。前夜が夜行バスだったこともありましょう。宿も決めたので、一度お店に戻って閉店まで、じっくりと観察することになりました。
今までの再会では、食事をしたり、飲み物を飲んだり、バス代を払う段階で、こっそりと本人に概算の額を渡して、あたかもインドネシアの友人の接待という見せかけをしていたのですが、これからは、そんな仕草は不要です。「あなたは、私のお世話をしてくれたのだから、これからは、私があなたのお世話をするから」と嬉しい言葉を発し、即実行です。成る程こうした気持ちというものは嬉しいものです。

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