2011年11月24日木曜日

ユーロ危機とブータン

いろいろな数字が出て、世界が撹乱されているようです。一体何が原因でこうした事が起きるのでしょうか?マスコミでは様々な数値が報告され、それを解説してくれるわけですが、今一つしっくりと行きません。もっとわかりやすい説明はないものでしょうか?ギリシアやイタリアなどが膨大な借金を抱え込んでいるとの事ですが。その借金返済の目処がつかないようです。要するに、ECという大家族の中で内輪で借金をしていたような状況でしょうか?厳密に言えば、内輪というか、多少その範囲は広がっているわけですが・・・・。借りたお金が、自立の為に使われたのではなく、どちらかというと、消費財にその多くが回ってしまったのでしょう。借金をするからには、自分たちの財産が失くなり、身売りしたわけでもないようです。プール付きの家やヨットなどがゴロゴロ転がっている国に見受けます。借金の大半は、ギリシア国民の年金や、社会保障の財源に振り当てられているようです。どうも、この国では、自分たちの財を切り売りする気配も有りません。もし、これが、EU加盟国でなければ、当然の事ながら、その国の通貨が弱くなり、借金の額はサラ金の如く倍増していくわけでしょう。そうなると、外国製品を安く購入するわけには行きません。となれば、自国産の製品(例え粗悪であっても)で賄うしかないわけです。それが、自然と競争力をつけ、いわゆる、国力(通貨)がゆっくりと回復に向かうはずです。しかし、どうも、ラテン系の国には、そういった気配を感じることは出来かねるようです。この当たりの問題が根本的に控えているのではないでしょうか?

2011年11月21日月曜日

マラッカの壁画

さて、マラッカ河にそって遊歩道が整備されています。河というよりも、運河です。清掃が行き届き、様々な花で飾られています。運河沿いは、家の裏側になるのですが、壁画というか、ペイントが施され、散歩する人々の心を和ませてくれます。

2011年11月19日土曜日

ブータンの事

以前15年ほど前にブータンに足を踏み入れたことがあります。ブータンと言っても、インドと国境を接しているジャイガオンという街でした。街の半分がインド領で、半分はブータン領で、道路を挟んで国境になっていました。当時は道路を超えてブータン領内の宿に宿泊することが出来ました。道路を挟んで、何の仕切りも、鉄条網もありません。本線の道路には立派な検問所もあり、ここからが、ブータンなることを象徴すべきゲートも設置され、警備員や税関職員、そして入国管理官が常駐していました。いわゆる、インドと接しているのは、いわゆる袋小路の裏道みたいな所でした。インド側の街はジャイガオン、ブータン側はプンツェリンという名前だったと思います。カルカッタから北へ500キロほどいった所は、インド東北部で国境が不自然な形をして、くびれています。ネパールとバングラデッシュがものすごく近くインドを挟んで対峙しています。この地域の交通の要所がシルグリという街です。ここからは、ダージリン行、ネパール国境行き、シッキム行アッサム州都のゴウハティ行などがあります。そんな中でジャイガオンといえば、2時間もかからない距離ですが、ブータン国境の街でした。
今でも、ブータンはインドのように、自由に旅をすることはできません。政府の指定した一定の水準を持った宿しか宿泊できないようです。しかも、一日あたり観光費用込みで200ドルほどが強制的に徴収されるパッケージ形式と聞きます。
当時唯一安い宿に泊まることができたのが、このプンツェリンの街でした。もう、殆どインドの街とは変わりません。いや、変わり様がないかご思います。店に並ぶ商品の多くはインド製です。多分最近は中国製も入っていることでしょう。軍隊はインドにお任せという国情があるようです。インドと中国に囲まれているわけですが、インドとは、国境にそって鉄条網があるわけでもなく、いわゆるオープンボーダーです。

2011年11月7日月曜日

日本の国際化

マレーシアに来てもう3週間が過ぎています。この国の多様性と日本の単一性の違いは各方面で観察することができます。
この国は出稼ぎ移民の多い国の一つです。中近東の産油国ほどではないのですが、実に多種な言語が街角から響いてくるのです。エアーアジアが発着するLCCT(Low Cost Carrier Terminal)にあるセルフサービスのレストランで掃除や食器の後片付けをしている多くはバングラディッシュ語が聞こえます。ペナンにはネパールレストラン、マラッカにもネパールレストランがあり、いつも賑わっています。近くの大型スーパーでカートの整理をしている男性は携帯電話でスリランカ語を話しています。本当に様々な人々がうごめいているのが実情です。いわゆる単純労働部門にもこうした多くの人材派遣がなされてるのは、ここマレーシアだけではないようです。

2011年11月6日日曜日

マラッカ国際空港


マラッカ国際空港
マラッカにも空港があります。しかも、それは国際空港になっています。先日機会があって訪問しました。国際空港といっても、名前ばかりで、ここ、マラッカから300キロほど西にあるインドネシアリアウ州の州都プカンバルへ行く便です。しかも、それは週3便しか運行されていません。確かに閑散とした空港です。それでも、掃除のスタッフ、警備員は常駐です。この国は今日本同様、どの州にも空港が最低一つあるようになりました。一番小さいペルリス州は別ですが。
さて、この空港はいったい、採算が取れるのでしょうか?実はこの空港は元は飛行機の訓練用として設立されたようで。パイロット養成所が併設されています。そんなわけで、国際線の路線は小遣い稼ぎみたいなものです。それで、インドネシアからの医療を目的としたお客さんが主として利用することになっています。まあ、所得の向上により、インドネシアから飛行機で直接ここマラッカに乗り付けるのがブームになっています。空港内には、2つの大きな病院(Mahkota Medical Centerと半官半民のPutra Hospitalのカウンターも設置されています。そういえば、クアラルンプールのLCCT(AIRASIA専用ターミナル)からは、マラッカ市内行のバスが一日5本運行されています。直接病院前まで横付けというサービスです。

2011年11月3日木曜日

マラッカの日本人墓地

今日はマラッカの日本人墓地を訪れました。常宿になっている民宿KITITTOのマスターの好意で郊外にあるひなびた墓地です。主要道路から外れ訪れる人々も殆どない場所です。太平洋戦争に関連した墓地というよりも、以前昔からここ、マラッカに在住していた方々が埋葬されています。昭和初期や大正時代に亡くなられたことが碑文に記されていました。これは、政府の観光局に出かけても知っている人々は少ないでしょう。中国人墓地としてのブキットチナは有名で多くの観光客が訪問します。こんな所にも日本人が古くから住んでいたんですねぇ。