2012年12月10日月曜日

時代の流れ

さて、2002年というと今から10年程前になります。当時利用したGPSのデータが残っていたので、次のようにアップしてみました。下記のタイトルをクリックすることで、詳細を閲覧することができます。EveryTrialへジャンプします。

2002 Lukula Kalapathar Lukula



EveryTrail - Find hiking trails in California and beyond

今から10年前のGPSはガーミン製の初代のE-trexを利用していました。この機器ではログが1,000点しか記録できなく、途中で持参したパソコンにデータを取り込んで、本体のメモリを空にして使った記憶があります。目下この10年前のデータを様々な方法を用いて変換し、GPXファイルとしてトラックとウェイポイントを確保しながら、新しいGPS専用のWEBストレージを利用してのデータ処理です。本当に時代が変わったものです。こうしたデータを相互に利用できることも又何か新しい時代に直面しているかのように感じます。しかも、無料で提供されるというのもすごい事でしょう。

2012年11月15日木曜日

マレー紀行 番外編(Puchong)

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プチョンの教育センター
さて、楽しかったマレーシアの旅は10月30日の深夜で終結しました。数多くの思い出が皆さんの心にしっかりと刻まれた事と思います。AIR ASIAの羽田発KULの便は2時間8分の遅れで先発隊の坂本さんのグループがKLに到着となりました。6時半到着が8時半になり、羽田で待たされたそうです。そして、二週間後エアーアジアから一通のメイルが届きました。いわゆる遅延お詫び金とでも申しましょうか、一人あたり3500円分の当社のご利用券を進呈するという内容です。早速坂本さんと連絡をとり、手続きに入りました。エアーアジアは即返信が届きます。かくして87.5ドル分のクーポンをゲットです。まあ、このクーポンは三ヶ月以内にご利用くださいとのこと、新規予約として友人の名前も使えるとの事です。三ヶ月以降の予約を入れることも可能。至れり尽くせりの対応です。一般的に通常の飛行機会社が二時間以上遅れるとなれば食事を一度提供、6時間遅れると休憩用の部屋と食事を、そしてもっと遅れるならばホテルへの送迎と宿泊食事を提供というのが通説です。ずっと昔の話ですが、バングラデッシュの空港で、当日は半日ゼネストとかで出発が2時間以上遅れました。その際、係員に強引に話をつけたら、チキンカツレツが登場しましたね。待っている客の中では、私達だけが、特大の草鞋のようなチキンカツ定食をほおばった記憶があります。また空港についたものの、今日は飛ばないというのがバンコクで数度ありました。こういった場合は宿を手配し、食事(バイキング)を提供

2012年11月14日水曜日

物価の不思議

さて、日本の物価はここ数年殆ど上昇していません。10年前の交通費と現在のそれとは、変化がないようです。今でも市内均一初乗り運賃は地域によって異なりますが、200円程度の状態がづっと続いています。それに比べると私が旅行をする地域、特にインドやネパールは毎年値上がりを続けています。街角で飲むカップ一杯のお茶は10ルピーから現在は15ルピーに値上がりしたと聞いています。しかし、円換算で考えると20年前と現在のそれとは大きく変わりません。初めてこの国に来た頃一ドルが8ルピーほどで円で換算すると1ルピーが20円ほどだったように記憶します。一杯の紅茶は50パイサでやはり10円でした。ここ数年1ルピーが1.5円というのが、最近は1円を割るようになりました。こうして眺めると円建てで計算すると、値上がりはしていないかのように映ります。その後ネパールの通貨がどんどん下落し今は10円で11ルピーもらえます。

2012年11月13日火曜日

マレー紀行 エピローグ2 最後に

さて、今日は宿泊した宿のリストを公表します。まあ自作のマークシートという感じです。参考になればと思います。

Malaysia Hotel

こうして中高年12日間マレーシア西海岸満喫の旅は一段落しました。マレーシアはまだまだ出かけてみたい土地が多く残っています。標高2000メートルを超えるカメロンハイランドや、東海岸の何の変哲もない町コタバルやトレンガヌ、そしてミュージカル南太平洋のロケ地となったテォマン島などを挙げることができるでしょう。さらに足を延ばして東マレーシアのボルネオ島にいけばコタキナバルやクチンという魅力的な町もあります。今回の旅で数多くの教訓を得ることにもなりました。これを生かして、再度マレーシアに挑戦してはいかがでしょう。
さて、今回の教訓は!
年金生活者小酒のみ集団のマレーシア徘徊旅行の心得です。ペロリ
  1. 宿選びは慎重に、安くて快適な場所を見つけよう。一箇所の滞在は3日程度でゆっくりと回るのがベストです。中心街から近くて静か。そして屋台からも近いのが理想。
  2. 食事は屋台で楽しく。勿論タイガーとかカールスブルグの看板の店(中華系)がオススメです。多人数でいけば色々なものを楽しむことができます。値段も手頃、そして普段着勿論OK.。日中の暑気払いにタイガーは十分にその役割を果たしたようです。次第に体を慣らしていくのがポイント。屋台でもお腹を壊さないことが立証されればシメタもの。後は快食快便の連続となります。
  3. 公衆トイレは街角で簡単に見つかります。長距離移動の場合はできるかぎりバスを避けて列車や船を使うようにしたいものです。バスは2-3時間毎に休憩をしますが、これには個人差もありますから・・・・・。
  4. 貴重品は必ず身につけましょう。電子ロックの部屋だと云っても安心しては行けません。スタッフは自由に出入り可能です。目立たないように小物がなくなるケールが多発しているようです。ご用心ご用心!
  5. 過度な行動は避けましょう。毎日観光やアトラクションのポイントは数箇所に絞って無理のない行動をしましょう。また無理をしない程度に歩く事を奨励します。健康の源につながると思いますが・・・・・。
こうして、今回は夢の企画?が実現しました。もう来年のプランをそろそろ立てようと話が弾んでいます。大きな事故や盗難などもなく、平穏に終わりました。これも参加なさった皆さんの穏やかな心が成功へと導いてくれたのかもしれません。幼年時代に帰って様々な好奇心を今一度燃え上がらせるのも悪くはありません。また幸いにも資金的にも余裕がある階層です。湯水のように使うにも抵抗があります。今回の日常生活からの脱皮として、深い感動を味和うことが出来たかと思います。では皆さん又の機会に!
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そして最後にマレーシアの国家をご鑑賞ください。ありがとうマレーシア!!!!!!

2012年11月12日月曜日

マレー紀行 エピローグ1  旅の決算


さて、今回の旅の総決算が出ました。航空券はAIRASIAの利用で日本からの往復が約3万円程度です。現地の費用として全部で15万円使った計算になります。お疲れさまでした。当初の予定通り、格安航空会社の利用で前代未聞の徘徊ジジィパッカー旅行が施行されました。(続く)
Malaysia Budget
まだ続きますから宜しく!

マレー紀行 第12日目 さようならマレーシア

今日が皆さん旅の最終日です。静岡組は羽田に向けて午後2時過ぎ出発です。富山組は深夜便です。朝食はマイホテルの一階にあるWhite Caffeという喫茶店でセットものを頼みました。料金は6リンギット(150円)程度でいわゆる日本でいう、モーニングセットのようなものです。それにしても、日本の物価の3分の1程度です。朝食後、早速セントラル駅構内にあるAIRASIAのオフィスに向かいました。記憶に残るのは、セントラル駅の一階と二階を何度往復したことでしょう。目下整備中で上り専用のエスカレーターが一台あるのみです。下りは徒歩の苦難です。何処に行くにしても、この場所を通過しないと行けません。さて、事務所で印刷した搭乗券を見せると、受付が奥の方に用紙を持って行きました。待つこと5分、搭乗券にはしっかりと座席番号がマジックで記載されて戻ってきたのです。これで何の心配もありません。ようやく一見落着です。
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さて、このシステムは通常エアーアジアのプレミアムシートは日本からマレーシアまで4-5万円するのですが、エコノミーで予約を入れて7500円ほどの追加料金で、これを利用できるというシステムです。エアーアジアが売れ行きの良くないプレミアムシートの販売を委託したような形で、別の会社

2012年11月11日日曜日

マレー紀行 第11日目 KL最後の観光

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今日がマレーシアの観光最終日です。明日は静岡組みは午前中空港に向かいます。富山組の中原さんは深夜便で関空に向かいます。いやはや、ここ10日間皆さんはさぞかしお疲れだったかもしれません。あちこちと連れ回され、歩かされ大変な思いをなさったことでしょう。でも苦労があってこそ楽しみは倍増するものです。高齢になっても苦労は買ってしなければ???。お陰で毎回の食事が美味しく、夜が疲れ果ててぐっすり朝まで眠ることができるようになったと思います。もう、この段階に入ると病気も避けてくれるかもしれません。適当に現地の文化に触れ、現地の食事を楽しむ事が旅の醍醐味となっているわけです。しかし、どのようにして、どの程度現地の文化に入り込めば良いのかが難しい所です。でも、今回の旅は今の所大きな問題もなく順調に進んでいます。しかし、坂本さんは今日は微熱がつづき風邪気味で一日休養です。昨晩は皆で中華街に繰り出して楽しく夕餉の一時を共に過ごしたのですが、どうも寝冷えがたたって軽い風邪の様子です。まあ、時と場合によって一人になるという時間も大切です。

2012年11月10日土曜日

マレー紀行 第10日目 ペナンからKLへ


昨日のペナン・ヒルからの帰路市内バスに乗ったのですが、どうも怪しげな雰囲気のバスでした。通常料金は料金箱に入れ、運転手兼車掌が切符をくれるはずですが、今回の運転手はどうも、ネコババしたようです。お金をボックスにいれようろすると、「何枚あるの?」と聞き8リンギット分の紙幣を自分の手にして勘定を始めました。そして、「OK座れ」といって切符もくれません。7時をすぎると周囲も暗くなります。他に乗客はまばらです。どうも、これは運転手の小遣い稼ぎなる気配です。8リンギットというと食事二回分の料金に該当しますから、結構な金額です。こうした客を毎日数人ゲットすると、実収入はもっと上回ることになります。闇にまぎれて暗黒社会の出番なのでしょうか?まあ私達にとっては、何事もなく無事目的地までたどり着けば良いわけです。マレーシアではこうした珍事に遭遇することがあります。この時間帯だと検札係りも非番と見えて、堂々となされるのかもしれません。ランカウィの白レンタカーと言い、今日乗車する白バスといい、脱法(違法ではないの

2012年11月9日金曜日

マレー紀行 第9日目 ペナン徘徊その2

今日も宿の引越しです。昨夜の宿はどうも陰気くさくて値段も結構しました。今日は以前から目をつけていた船着き場に近いビクトリアインに引越しです。

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この宿は前日に直接受付で予約を入れました。前金を請求されるわけでもなく、パスポートの提示も不要で氏名を告げてOKとなりました。チェックインは午後2時ということですが、マレーシアの宿ではそれ以前に到着しても部屋が空いていると利用させてもらえるケースが殆どです。それにしても、この宿は快適。ツインの部屋は大きく、日当たりも良く内装もしっかりとし、落ち着いた雰囲気を醸しだしています。ああ、これならもっと早くから予約をしておきべきでした。しかも料金は二人で110リンギット3000円をもしません。日本ではさぞかし15000円はすることでしょう。東海岸への旅を画策し、予定が定まらないままペナンに移動したのが災いの元でした。この宿ちょっと不便なのは、屋台からちょっと離れていることです。でも15分ほど歩くと賑やかな繁華街にでますから、思ったほど不便ではありません。食後にすぐ部屋に帰るよりも、ぶらぶら道草をしながら帰るのも乙なものです。

マレー紀行 第8日目 ペナン2日目徘徊


昨日は4人部屋の二段ベッドでしたが、皆さん比較的ぐっすりとオヤスミになった様子です。今日で旅も一週間を超えています。それそろ旅の疲れが出る時期なのですが、以外と年齢の割には元気そのもの、あちこち歩かされる毎日ですが、無事難なくこなしていらっしゃるわけです。朝食は8時半から始まります。宿の料金一人25リンギットには含まれていますから、遠慮なく頂けるのです。トースト、コーヒーそして焼きそばなどが用意されバイキングスタイルですから、好みの品物を好きなだけ選ぶことができます。さて、今日はこの宿でもう一泊したいのですが、適当な部屋はイスラム教の大祭が始まっているので見つかりません。冷房も効き、ちょっと洒落た雰囲気の漂うレッドインというゲストハウスです。通常なら簡単にツインの部屋がゲット出来るはずですが、マレーシアの連休にひっかかったのは、まずい事です。事前に調べて日程を調整して日本を出発するべきでしたが、航空券を購入した後では変更も難しく、結局マレーシア版民族大移動に巻き込まれることになりました。日本のお盆とか正月のような混雑に見まわれうことがあるのです。しかも土曜日曜が重なり4日間の連休になっているようです。今回はイスラム教徒の大祭で特に回教徒の多い東海岸はさらなる混雑が予想されます。そんなわけで苦渋の決断を下す羽目になりました。東海岸も西海岸とは雰囲気が大きくことなり、イスラム色の強い地域です。日曜が休みではなく金曜日が休日になる地域で、町を歩いてもやたらとスカーフに覆われた女性が目立ちます。様々な日常生活の規制が厳しいので外国からの観光客にも敬遠されている地域とも言えるでしょう。でも、ここマレーシアではど

2012年11月8日木曜日

マレー紀行 第7日目 ランカウイからペナン島へ

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つかの間のランカウィ滞在も今日はもう、移動です。レンタカーでの移動は効率が良く楽しい一時を過ごすことができました。さて、レンタカーの契約は10時迄となっています。しかし、昨日の朝お願いした洗濯物がまだ届いていません。宿の受付は何度も近くにあるクリーニング店に電話をしているのですが、まだ閉店中なるようで、一向に連絡がとれません。車を返す時間が刻々と迫っています。受付が言うには11時に車を返しても問題ないですよというものの!そろそろ時間切れです。宿の近くにそのお店があるから、直接寄ってみればどうでしょうと提案を受けました。でも電話がつながらないということは、そのお店には誰もいないという事で、出かけても無駄足かもしれません。で、閉店でもともとの覚悟で立ち寄ったのですが、案の定誰もお店にいません。固くシャッターを閉ざしたままです。洗濯物はソックスとTシャツ数枚だったようですが、何かしら腑に落ちないものを感じながらの決別です。車は波止場の事務所にあずければ良いわけです。着いてみると、小さな窓口がずらりと並び数社がレンタカーと看板をあげているではないですか!なるほど、これで皆平和的に潤っているわけです。脱法なのか、違法なのか良くわかりませんが、事故もなく無事返却でおめでとうございます。又機会があれば、利用したいものです。皆さんにも是非オススメしたいコースです。

2012年11月7日水曜日

マレー紀行 第6日目 ランカウイ島一周

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今日はランカウイ島をレンタカーを借りて島内一周を目論見ました。昨日宿に詳しく情報を提供したもらっい、予約をしたはずなのですが朝になってみるとまだ業者に連絡が入っていません。レンタカーの契約は色々と話がややこしくなっています。昨日観光案内所で聞いた話では一日60リンギットからあるとの話でした。宿で聞いても同じような話です。しかし、ここで保険のかかった車が欲しいと問い合わせると値段が一気に跳ね上がり160リンギットという計算です。えええぇ!これは驚きです。保険なしという一抹の不安はあるものの、値段にこれだけの開くがあるとやはり安い方に飛びつきます。オートマ車は10リンギット高く70リンギットでガソリン代金は別になっています。まあ、当方としては海外旅行保険も入っていることだし、万一事故があっても、そちらの賠償責任で何とかなるだろうと安い方を借りることにしました。早速手配をしてもらうことにし、宿の受付がレンタカー会社に連絡をしてくれましたが、わずか15分後には準備が出来たようで、宿の前まで車を持って駆けつけてくれました。手続きは以外と簡単。パスポート番号や免許証番号などを記入し、保証金として200リンギットを預けるだけです。しかも24時間借りることができ、明日の朝船着場にある当社まで持ってくれば良いという事でした。これで明日は波止場までタクシーを利用することなく、マイカーで駆けつけることができます。多くの客がこうした方法で利用しているようで、係りの人もよくわきまえています。ガソリンは空っぽの状態でしたが、50リットルを入れてくださいという説明がありました。

マレー紀行 第5日目 ランカウイ上陸

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アロースター駅
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フェリー乗り場付近
列車は翌朝定刻通り7時17分にアロー・スターに到着しました。ここは有名な元首相マハティール氏の出身地です。この駅は毎日2往復しか列車が停車しない小さなものです。列車を降りると駅前にはタクシーが待ち構えていました。殆どの客はランカウイ島に行く船着場(クアラケダー)を目指しています。乗合タクシーも登場し声をかけています。どうも一台25リンギット程度なようです。そんな中で一台のタクシーを交渉、ぼろぼろな車体でしたが、要は船着場まで運んでもらえば良いのです。これを値切って20リンギットで交渉成立。乗ること約20分。昨日のマラッカの宿からバス駅までは5分ほどしかかからなかったのに比べると、値切ったのが申し訳なく思え、料金を払う際に、お茶代としてチップを2リンギット弾みました。波止場について早速9時半の船を予約。しばし近くの茶店でモーニングコーヒーの時間です。一般的なエアコンのない食堂ではコーヒーや紅茶はだいたい1-1,4リンギットが相場です。寝起きにはコンデンスミルクたっぷりのコーヒーは打ってつけで、眠気を一気に吹き飛ばし新鮮さが戻ってきます。快晴に恵まれ、海面も穏やかな朝です。ここから1時間半ほどの乗船です。400人ほど乗れる高速艇は席ががらんとしています。ちなみに料金は一人23リンギット(約600円)でした。



マレー紀行 第4日目 マラッカからアロースターへ

マラッカでの3泊は快適な毎日でした。でも、まだ今日一日が残っています。今夜9時20分までにKLセントラル駅に到着する必要があります。ランカウイ島への乗り継ぎ口であるケダー州のアロースターへの列車の切符は既に予約支払い済みです。インターネットの社会はこんなに便利になったものでしょうか?日本にいながらにしてマレーシア国鉄の寝台券が入手できるわけです。勿論、このサイトは全部英文ですから、画面を見ながらその指示に従っていかなくてはなりません。列車を選び、席を選び、クレジットカードで支払いをするのが一般的な手順です。今回は日本の旧ブルートレインがマレーシア東海岸とシンガポールに国境を接するジョホールバルという街を結んでいるのを知って、その試乗をも予定にしていたのです。しかし、運悪く、我々が移動した時期にはすべて満席で売り切れになっていました。マレー国鉄の良いところは、窓口で買うと60歳以上はパスポートの提示で4割ほど安くなります。ちなみに、狙っていたブルートレインの座席は一等車だと一人100から147リンギット(2700円から4000円)です。窓口で買うと更に安くなるわけです。今回利用したKLセントラルからアロースターの寝台列車は一人50リンギット(1350円)でした。駅で直接買えば、三人分の4割引きで1000円ほど浮くのかもしれません。しかし、手間と時間を考えて日本で用意することにしたのです。乗車券といっても自分で印刷すれば終わりです。以外とあっけなく手続きが終わりました。
マレーシア国鉄のサイトは http://www.ktmb.com.my/ をご覧ください。ここから様々な情報を得ることができます。
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今日はゆっくりと朝食を済ませ、午前中は思い出の一杯詰まったマラッカ市街を再度ぶらぶらしてから、お昼過ぎにKLに向かうことにしました。昨日といい、一昨日といい色々なイベントがあり、皆さん少しお疲れになったようです。また私と行動するとどうしても歩く距離が長くなってしまいます。よほどの事がない限りは自分達の足で進むというが原則です。しかし、一般的な日本人の姿としては、近所のスーパーへ行くのも車を利用するのが当たり前になっている車社会です。私のほうは、日本でも車を使う事は滅多にありません。歩くことについては当方は何の不自由も感じていないのですが・・・・。そうした環境の違いからくるものか、皆さん夜はぐ

2012年11月6日火曜日

マレー紀行 第3日目 自転車ツアー


ゆっくりと朝食を終えて今日は一日自転車でマラッカ市内を散策予定です。宿には貸し自転車が一台しかありません。歩いて10分ほどの貸し自転車屋に向かいました。昨日下見をしていた貸し自転車屋は9時から開くと聞いていたのですが、まだ開店していません。それで隣の自転車屋兼ネットカフェをあたってみました。ここでは自転車が3台しかありません。我々は4台欲しいというと、奥からもう一台変速機付きの自転車を用意してくれました。一日の貸賃は一台10リンギット(260円)です。夜の11時までに返して欲しいというわけです。パスポートを預け、保証金400リンギット(4台分)とレンタル料40リンギットを払いました。珍しいことに、ここではちゃんと領収書と預り証を出してくれました。タイのアユタヤの貸し自転車はのんびりとしています。一台4リンギットでパスポートを預ける必要もありません。保証金も不要でした。幸いに今日は雨の気配もなく快適な自転車日和になっています。
こんなわけで、10時過ぎに出発することが出来ました。昨日は色々なイベントがありました。船にも乗り、人力車にも乗り・・・・。自転車で街を回ると行動範囲が大きく広がります。ママチャリ3台とギア付き一台で出発進行です。まずは有名なブキット・チナ(中国人墓地)を目指しました。ここ中国人墓地は上まで行くのを省略して、麓の一部を回って次の目的地セント・ジョンの砦に向かいました。市内はかなりの交通量があるので、交差点を右折する時は自転車を押して歩行者として移動しました。これが最も安全な方法でしょう。左折は問題ないのですが。小さな丘の上にそびえる砦は市内の遺蹟群から離れているので訪問する客も少なく閑散としています。小さな砦ですが、ここから海を眺めながら、故国から遠く離れて移住した当時のオランダの

2012年11月5日月曜日

マレー紀行 第2日目 マラッカ徘徊

昨日は皆さん旅の疲れもあってか、ぐっすりとお休みになったようです。昨夜のビールも効果があったのかもしれません。マレーシアの多くの宿は朝食が付いているのが一般的です。ここもその一つです。宿によってはその内容が様々ですが、APA KABAホームスティでは簡単な朝食が出ます時にはマレー風中国風のお菓子などもつくことがあり、コーヒーや紅茶が飲み放題というのも嬉しいものです。
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朝食を終えてから午前中は博物館回りです。マラッカの市街はダッチ広場を中心にしてチャイナタウンやリトルインデァ、セントポールの丘や博物館などが集中していますから、歩いて回るのも容易です。皆さんをダッチ広場に案内した後は自由に博物館を見学してもらうことにしました。その間当方は両替に奔走です。ここマレーシアでは街のあちこちに公認の両替商が数多くあり、お店によってレートが異なります。多くの両替商は銀行での両替よりもレートが良いのです。3件ばかり回ってみたのですが、一つは土曜日で休業でした。インド人街に一箇所開いていましたが、ここは1000円で36.8リンギットです。他に一箇所ショッピングモールの一角では37.8リンギットです。両替する金額が高額になると、この差はばかにはなりません。ここで皆さんから預かった費用の一部100,000円を3860リンギットに交換することにしました。1000円で1リンギット(約27円)の違いですが、10万円となれば100リンギットの差がでてきます。この国では一般労働者の2日分の日当に相当します。マラッカからKLの中距離バスの料金は11リンギットですから、5往復することができます。屋台でのラーメンや焼き飯などは3-5リンギットですから、100リンギットといえども馬鹿になりません。昨年のマレーシア滞在時は円高でレートが良く10,000円で400リンギットを超えることもありました。まあ今回はこのレートで手を打つことにしましょう。


こうして、あちこちレートの良い店を探し、両替を済ませて再度皆さんと合流です。時間も丁度お昼ご飯が近くなりました。昼食はマラッカ・ラヤにある「経済飯店」というセルフサービスのお店です。自分で好きな惣菜を盛りつけて会計係りの所で支払う簡易なシステムです。この店の宣伝では100種類以上の惣菜が歌い文句です。まさしくそのとおりで何種類ものおかずが並べられています。便利で明朗会計なるシステムで誰でもすんなり入れます。マレーシアは回教国ですからマレー系の食堂ではアルコールは一切ご法度ですが、中国系のお店にはいるとビルがしっかりと並んでいますから安心です。今回の我々の旅にはもう一つの目的「ビール研究会」なる部分も見え隠れし始めました。早速何種類ものおかずを好みに応じてお皿に盛りつけ、缶ビールを一人一本づづ加えての合計は4人で71リンギット(2000円)という破格の値段でした。風通しの良い屋外のテーブルで快適な昼食を楽しむことになりました。真昼間からバイキングという感じがしないわけではありません。

2012年11月4日日曜日

マレー紀行 第1日目マラッカ到着


今日は朝7時半にN氏と関空で待ち合わせ。出発は9時25分ですから2時間前からチェックイン開始です。チェックインと言っても既にウェブチェックインを済ませていますから荷物の検査程度です。関西空港では機内持ち込み荷物の制限が厳しいようで、これも計量されましたが、難なく無事通過です。預ける荷物も10キロに満たない小さなものです。このAir Asiaでは荷物の料金も15キロから5キロ刻みに最大40キロまでそれぞれ料金が設定されています。その内体重によって基本料金が違うという設定があっても良いかもしれません。小柄な我々ならば更に安く購入出来たらなぁとおもいます。

2012年11月3日土曜日

マレー紀行―旅の始め(10月19日)

Air-Asia
今日が旅の第一日目です。私の方は以前からAir Asiaを利用していたのですが、友人のN氏は初めての体験です。巷では様々な珍説が出まわっているようです。座席の間隔が狭いのではないだろうか?機体の整備は万全なものか?定刻通りの出発になるのだろうか?ともかく価格が通常の飛行機会社の半額、もしくはそれ以下で販売されています。今回私が購入したのは16000円、友人は13000円でした。しかし、この価格はもう少し待てば9000円程度まで下がっていました。16000円のプロモーション価格が発表された時に、「これはチャンス!」と思いきや、一週間後にはさらに値下がりをして13000円。そして最終的には9000円まで下降したわけです。航空券をいつ手配するか、どの価格で入手できるのか、まるで賭け事をしているかのような錯覚に陥ります。
概して、日本とマレーシアの平日期間、すなわち学校の休みや特別な祭礼の時期の前後は価格が下がっているようです。10月中旬は日本では特別の行事もありません、マレーシアでは11月から50日ほど学校が長期休暇に入ります。というわけで、この期間の前が大当たりしたわけです。どちらかというと、羽田便よりも関空便のほうが安い傾向にあります。ネットを通して購入する場合は慎重

2012年9月1日土曜日

立山登山


久しぶりに立山登山にでかけました。富山県民感謝デーとかで運賃三割引きでした。天候に恵まれた快適な山行でした

2012年4月20日金曜日

ランタントレッキング10日目


今日がトレッキング最後の日です。ドゥンチェからカトマンズまでバスで7時間の旅です。来るときは、バスが坂道でスリップしたり、ドゥンチェ近くのチェックポストでエンジントラブルがあり、続いて、運転手が車体付属の荷物室の鍵を忘れて引き返したりなど2時間程度余分に時間がかかりました。でも帰路はそういったトラブルもなく平穏に、予定よりも早く2時半にはカトマンズに到着することが出来ました。まずは、シャワーを浴びて一休みです。夕食時は早速日本食で乾杯!
皆さんお疲れ様でした。心に深く思い出を刻むことが出来ました。今回のトレッキングは、航空券の手配が異色でした。まあ、若い世代の方々は既にご存知なと思いますが、エアーアジアで日本からクアランプールへ往復を準備しました。更にクアランプールからカトマンズ往復はタイ航空のインターナショナルのサイト(英語版)から予約購入することにより、往復8万円でゲットです。更にトレッキングはガイド兼ポーターなる我が知己のネパールの息子?が担当してくれた事で格安で、且つ楽しみが沢山混ざったトレッキングになったわけです。まさに不思議な空間に包まれた10日間のトレッキングだった事かと思います。又機会があれば、こうした創造的な奥深い!!!旅を楽しみたいものです。

2012年4月19日木曜日

ランタントレッキング9日目


昨日は強行軍でした。ここトゥロシャブルではケーブルTVも入っているので、今までとは異なった世界に踏み込んだようです。今までは夜が更けると静寂が漂う日々でした。ここでは、人工的な音が入り込み、雑音になって聞こえます。
トゥロシャブルからバルクまではゆるやかな下りが多くなります。道中真っ赤なシャクナゲが咲き競っています。緑の森の中に真紅のシャクナゲはやはり目立ちます。バルクまではゆっくり4時間、バルクで昼食を済ませてたっぷりと休憩を取りました。ここからは、車道をおよそ2時間歩くことになります。最近は道路事情が良くなり、我々は3ごろに到着したのですが、同じコースを歩いていた韓国の夫婦はそのまま、ジープでカトマンズへ帰ることになりました。バスだと7時間程度ですが、専用車だと5時間程度で到着するとの事です。道路状況も改善されました。

ランタントレッキング8日目

今日はトレッキングの8日目です。そろそろ皆さん疲れが貯まる時期になるのですが、引き返すわけには行きません。皆には伝えてないのですが、今日が実は、今回のトレッキングで一番距離も時間も長くかかる区間です。2500mから一度1600m付近まで下り、更に600mの登りになります。連日の疲れも重なっているので、予定通りに到着出来るものかどうか危ぶまれました。
今日は道中多少なりともイベントがあります。バンプーとランドスライドの宿に立ち寄って日本の友人から預かった品物を届けるという役割を担ってきました。それぞれの場所で無事手渡すことができたのですが・・・・・。ちょっとしたハプニングがありました。届け物の中に4,5年前に友人が撮影した写真がありました。姉妹が仲良く写真に収まっているのですが、妹が一ヶ月ほど前に病気で亡くなったわけです。先に訪問したバンブーの宿の女将に聞くと、知っているとの事。それ

2012年4月18日水曜日

ランタントレッキング7日目


昨日も晴天に恵まれました。今日はランタン村から下山してリムチェに戻ります。標高3500mから2500mまで下ります。来た時と同じルートですが、3日前に通った時はまだシャクナゲは開花には少し早かったようです。しかし、帰路は幾つかの開花を楽しむことが出来ました。真っ赤に咲き誇るシャクナゲが所々で目に入ります。リムチェでは前回投宿した同じ宿を利用しました。昨日は誰もお客さんがいなかったそうです。しかし、今日は満室です。客商売はともかくムラの激しいものです。行きは7時間かかったのですが、帰りは6時間で到着です。やはり心持ち下りは楽になります。でも急いで下ると膝を痛めがちですから、用心しなければ!今回のトレッキングの行程では、基本的には朝7時の起床で7時半が朝食タイムです。朝食は、チベッタンブレッドにジャムとか蜂蜜を塗ったものが常食となりました。多人数で来るとシェアが出来て便利です。すなわち三人でチベッタンブレットが2枚とお茶を3カップ頼んだりで、融通が効くわけです。昼は概ね12時頃になります。昼食、夕食ともに3人で3品、4品を注文すれば充分です。スパゲティや焼きそば、サンドイッチやじゃがいも料理などバラエティーにも富んでいます。これも、宿によって微妙に味が異なるのが楽しみの一つになりました。

2012年4月17日火曜日

ランタントレッキング6日目


今日は午前中キャンジュンゴンパから氷河ポイントに往復してランタン村に帰ります。出発前はちょっとしたハプニングがありました。数日前にカトマンズから仏像がこの村に届きました。一時的に民家に安置してあったのですが、今日が吉日とかで、本尊を僧院に引越しの日です。ちょうど私達が投宿していた宿の隣の家から出発です。偶然にも祭礼の朝を迎えることになりました。正装した僧侶が地元の人々が集い華やかに儀式が開催されました。その様子もご覧いただけます。
9時すぎに標高4200m付近にある氷河展望台に向かいます。途中まだ少し雪が残っていましたが、ガイドの誘導で無事到着です。ここからの眺めは絶景です。キムシュン氷河を正面に望みながらのティータイムは最高の一時でした。平均年令65歳としては、良くここまで無事これたものです。達成感が皆の顔ににじみててきました。後は帰るのみです。又会える事を祈って氷河ポイントに別れを告げました。帰りにはゴンパ(僧院)に立ち寄りました。まさに、この時間帯は、僧院での祭礼の続編がなされていました。老若男女が歌を歌ったり、踊りをしたりして宴たけなわを見ることになりました。素朴なれど、幸せが実感できる空間を生み出している僧院内部は簡素なれど、荘厳な雰囲気もかもし出しています。
同じ宿で昼食をとってゆっくりとランタン村に向かいました。今日は最後まで晴天に恵まれ楽しい山行でした。皆さんは久しぶりのホットシャワーで身も心もすっきりなる様子でした。

2012年4月16日月曜日

ランタントレッキング5日目


5日めは、ランタン村からキャンジュンゴンパに向かいます。昨日はかなりの強行軍でした。今日の行程は昨日の半分程度の距離です。この標高では高山病になる方もいらっしゃいます。無理をしないように、標高3500mから3800mに進みます。道中のは絶景の連続です。エベレスト方面に比べると箱庭的でスケールは小さいのですが、それなりに風情のあるトレッキングです。正面にツエルゴリの姿を見ながら西に向かいます。ランタン村を離れると次第に白く輝く峰々を眺めることができます。

2012年4月15日日曜日

ランタントレッキング4日目


第4日目は標高2,500mのリムチェからランタン村(3,500m)に向かいます。一日でおよそ1,000メートルの登りです。ランタン川に添ってゴラタベラ(3,000m)までは森林地帯を歩きます。ゴラタベラで昼食です。まだシーズンが始まったばかりで予想外にトレッカーの数も少なく閑散としていました。天候にも恵まれ快適です。真っ青な空に浮かぶ白い峰を眺めながらのトレッキングの醍醐味を味わうことができました。ゴラタベラまではちょうど中ほどにある3時間かけてゆっくり登ります。ゴラタベラ周辺はシャクナゲ林になっているのですが、開花には少し早かったようです。あと1週間ほどすると、次第に咲き始め一ヶ月ほど続くそうです。
今日は長い一日です。ここゴラタベラは眺めが良いので居座りたくなります。もう一踏ん張りしてランタン村まで足を運ばなくてはなりません。ゴラタベラから先は植生も大きくことなり、別世界です。夕方4時近くにようやくランタン村に到着しました。

ランタントレッキング3日目


今日はカンジムからリムチェに向かいます。昨日は3時間半の行程で登りの連続でした。今日は山の中腹に添っての歩行です。カンジムから1時間半ほどは登り坂が続きますが、その後は比較的平坦な道になります。道中シェルパガオンに立ち寄って昼食です。出会う人も少ないひっそりとしたコースです。殆どのトレッカーはシャブルベンシから川沿いの道を利用して一日でシャブルからリムチェ(ラーマホテル)に到着します。我々は故意に眺めの良い山腹の道を利用しました。8時出発で3時到着という成果でした。昼食のじゃがいもがものすごく美味しかったですね。

2012年4月14日土曜日

ランタントレッキング全行程解説



ネパールの首都カトマンズから北に130キロに位置するランタン谷トレッキングの概要を動画でお知らせします。まずはコース概要をご覧ください。トレッキングは1400メートル付近から出発し最高地点4150メートルまでを歩きます。全行程やく80キロです。
  1. 初日はバスでカトマンズからシャブルベンシまで約8時間の旅です。
  2. シャブルベンシから急坂を登ってカンジムへ
  3. カンジムから山の中腹を横切りシェルパガオンを経由してリムチェ
  4. リムチェから森の中を通りゴラタベラ経由でランタン村
  5. ランタン村から最奥の集落キャンジュンゴンパ
  6. キャンジュンゴンパから氷河展望台を回ってランタン村
  7. ランタン村から川沿いにリムチェ
  8. リムチェからランドスライドを経てトゥロシャブル
  9. トゥロシャブルからシャクナゲ林を歩いてドンチェ
  10. ドンチェからバスでカトマンズ

2012年4月13日金曜日

ランタントレッキング2日目

ランタン谷トレッキングの動画が一部出来上がりました。試作品ですが、道中の様子がよく分かるかと思います。お楽しみください。

ピカサウェブアルバムでランタン谷を

先日3月16日から25日の10泊でネパールのランタン谷をトレッキングしました。前回の投書でGPS軌跡とゴーグルアースを組み合わせて取得した画像をスクリブド経由でアップロードしました。

今回はGPSデータを撮影した画像を同期させてゴーグルアース上で閲覧できるように工夫しました。ピカサウェブアルバムを利用することで、容易に撮影位置を特定することができます。以下に示されたサイトをクリックしてお試しください。

https://picasaweb.google.com/lh/albumMap?uname=jjhoshiba&aid=5730211695466146369#map

クリックすると下記のような画面になります。初期設定で航空写真と地図を切り替えてみましょう。また縮尺も自由に変更してください。左側の画像をクリックすると、その地域が拡大されて位置が良くわかるようになります。10年前に取得したエベレスト方面のGPSデータも保管しています。いずれ機会を見てアップロードしていきたいと思います。

ScreenHunter_05 Apr. 12 00.30

時代は進化したものです。GPSのデータとJPG画像をマージさせることで画像に位置情報を貼り付けます。その後ピカサウェブアルバム一連の画像をアルバムにして登録しアップロードすると完成です。最近はGPS機能のついたデジカメが廉価で販売されています。パナソニックのルミックスでGPS機能付きが14000円と出ていました。しかし、GPS機能を常時オンにするとバッテリーの寿命が短くなってしまいます。今回使ったのはGarminCXS60とペンタックス社のオプテオRZ10利用しました。他にJVC-VICTORのEVERIO NH-450 ムービーカメラで撮影した画像にGPSデータをマージさせようとしましたが、どうもうまく行きません。

2012年4月11日水曜日

ネパールの英語

先日からネパールの友人宅にべったりと貼りついてホームページ作成のお手伝いをしています。新しく会社を設立し、旅行代理店を発足させました。メインは日本のお客様がターゲットです。ホームページ作成という作業がいかに大変なものか肌で感じる日々です。
まず、友人は、類似したホームページ(英文)から必要と思われる部分をコピーしてワードの文書に貼付けました。これを私が日本語に翻訳するわけです。所がこの作業は簡単そうですが、以外と難しいわけです。そうした切掛があって、私も同業他社のホームページで日本語版をチェックしてみました。何とそこには数多く間違いがびっしりと並んでいたわけです。ちなみに、在東京ネパール大使館の発行するトレッキングに関する情報でさえも、英文記事をそのままゴーグル翻訳にかけたような文章が並んでいます。現地で発行されている日本語版のサイトも不可解な日本語が羅列されているではありませんか?一見何ともないようですが、じっと見ると表記の揺れや、点とコンマの使い分けの間違い、語順の間違いなどを発見してしまいます。いわゆるあら捜しというわけではな

2012年4月9日月曜日

ランタントレッキング全行程解説Google Earth

Langtang2012 March All 2012年3月16日から25日の10日間ランタン谷に出かけました。GPSのデータをゴーグルアースで出力した画像を公開します。

2012年2月17日金曜日

今日は誕生日


ここ、僧院はインドというよりも、ミャンマーの色彩の濃い場所です。この僧院内に住む人々はいわゆるヒンズー系というよりも、モンゴロイド系で占められています。40人ほどは、ミャンマーから腎臓移植手術を受けるために、ここから通っています。腎臓移植ともなると、ドナーも一緒に長期間過ごすことになります。日常の世話をする人も必要です。そうしたことで少なくとも二人が一緒に住んでいます。また、この学校に通う子供たちの数人は寄宿生活を送っているのですが、やはり、東南アジア系の顔をしています。ここがインドだと言えないかもしれません。スタッフの多くもモンゴロイド系の人々が、その役割を担っています。数人が、近くの村からこの僧院で職を得ているという状況です。
今日は、この僧院で賄い係をしている人の誕生日です。夕方になると、誕生祝いのお菓子が、この僧院に住む全ての人に配られました。幸いに、私がカメラ係になったわけで、病院に通う家族の部屋を訪ねて歩く事ができました。ここで、様々な表情を垣間見ることになりました。ある家族は姉妹二人で過ごしています。ある家族は夫婦二人で過ごしています。ある家族は父親と息子と共に暮らしています。部屋の中は自炊の道具、薬品の匂いが立ち込めています。高給ホテルとはいきませんが、電気や水など基本的なものは完備しています。毎朝、それぞれが近くの市場で野菜や魚などを仕入れて自炊しているようです。誕生日を迎えた人がゲストにお菓子を配るシーンを撮影するのが私の役割です。中には、ノートブックを持ち込んでインターネットをしている家族もいます。手術後の通院治療をここでしていることになります。、皆和やかに、幸せそうに暮らしています。家族が側にいることが術後の経過を、回復を更に早めてくれるのかもしれません。誰も暗い表情はしていません。

2012年2月14日火曜日

ボデスカ学園

さて、ここ僧院での暮らしが一ヶ月になります。毎日子供たちと遊んでいる日々です。おかげ様で動画編集のコツを少しばかり飲み込むことがで来ました。まずは素材が豊富にあります。そして、昨年購入したハイビジョン対応のデジカメがあります。でもパソコンがその動画を処理するに力不足が難点です。今日はこの学園で寄宿生活を送っている子供達を記録してみました。彼らが5年後に、10年後にこの動画を見るとさぞかしびっくりすることでしょう。
こうして、長期間、彼らと共に生活してみると、様々な事が浮かび上がってきます。教育はどのよう

2012年2月11日土曜日

ボデスカ学園の校長

さて、この学校はものすごく楽しい学校でもあります。ここの校長さんが一風変わった人物です。旦那は元ミャンマーの大使館に勤務されていたそうで、会うと大概その自慢話から始まります。今はコルカタ市内のど真ん中で一人暮らしです。いつも近くのバス停まで送迎がついての出勤です。時々ヒステリックな声で生徒達をしかるつけている光景をよく見かけるわけです。
それで、一人暮らしの彼女は大の犬好きで、この学園内に三匹の犬を買って世話をしています。勿論、毎朝与える牛乳(1リットル)や食事は、この学園の費用で賄われています。寄宿している生徒の何人かが愛犬の世話係として指名され、常に気を配っています。
一昨日、その中の一匹がちょっと元気がないので、獣医の診察に出かけました。診断後獣医から、三回分の注射をするように、薬剤と注射器をもらった校長は、三度に分けて打つのを一度に注射してしまったようで、即犬はぐったりしちゃいました。大慌てで、生徒三名が付き添って車で再度、動物病院へ急送したわけです。

僧院の子供たち その5

ここ、僧院には10人ほどの子供たちが共に寄宿生活を送っています。アビノフはインド東北部のアルナチャル州からやってきました。ゴーグルマップで彼の村を一緒に検索してみました。彼は目をキラキラさせながら、パソコンに映し出される画像に熱中しています。ようやく、彼の村!記憶に残る田畑や道路の地形が浮かび上がってきました。こんな山奥にも仏教寺院が2つあるそうです。今はここで僧衣に身をつつみ、同時に学校へも通っています。いつも易しい表情を見せてくれます。教科書は先輩の使っていたものをそのまま利用しています。それに比べると現在の日本の子供たちの環境は恵まれています。先輩の使っていた教科書をそのまま利用するのは、彼に限ったことではありません。こうして考えると学習の環境はまだまだ不十分な箇所を多く見かけます。それでも、教科書が新調できなくても、古い(数年前)をめくりながら一生懸命勉強しています。以前彼は

2012年2月10日金曜日

僧院の子供たち その4



前回はココナツの剪定に携わる動画を掲載しました。今日はその続編です。彼らの伸び伸びとした日常生活に直接触れ合いながら楽しい日々が過ぎていきます。編集していく間に10分ほどの長編になってしまいました。単に椰子の葉や実を剪定するだけでなく、その後の始末をどうするかも記録しました。本当に彼らの村での生活は自然と共存していたと言えるでしょう。日本の林間学校では、こうしたコースは取り入れて貰えないでしょうね。まずは、動画をお楽しみください。学校の勉強は苦手でも、運動会や、こうした催し事には俄然張り切っています。伸び伸びとした環境と言えるかもしれません。夜になると、難解な数学に悩まされる日々が続いています。

2012年2月9日木曜日

インドの運動会

今回も私がここ、僧院に滞在している間に運動会が開催されました。昨年と違い、生徒数が64人と少なくなり、ちょっと寂しい運動会でした。それでも、子供たちはいきいきと一時を過ごしていました。今年の運動会の様子をご覧ください。
インドの運動会の特徴は!
  • リハーサルがなしでぶっつけ本番で行う。
  • ユニフォームはなしで自由な服装で参加可能。
  • 父兄の参加が少ない。
  • 競技種目は多彩。
  • 記録は大雑把に測定。
  • 運動会となると、皆真剣になる。
  • 賞品が沢山ある。(予算にもよりますが)

2012年2月8日水曜日

インドのパソコン教室


ここボデスカ・スクールは小学校一年生から中学校三年までの一貫教育を英語で行なっています。科目の一つとしてコンピュータークラスがあります。しかし、この学校で動いているパソコンは一台のみです。しかも、とてつもなく、古いものを用いています。日本だと、もうとっくに廃棄処分になっているでしょう。写真をご覧になると一目瞭然です。しかし、子供たちは歓声を上げながらパソコンの回りを取り囲んでいます。こうした部分にも著しい貧富の較差を見ることができるのは、インドならではかと思います。上流家庭の子供たちは家庭でも自室で高性能のパソコンが与えられる子供たちもいます。しかし、この学校では、そんなわけにはいかないようです。授業料が一ヶ月400円、500円の世界です。何か特別な行事がある場合には100円ほど別途徴収となります。そんなわけで、コンピューター用の教科書もあるのですが、その内容は未だにフロッピーディスク云々が記載されている状況です。こうして眺めてみると、子供たちが、それぞれ直接パソコンに触れて体感するには程遠い世界だなあと感じます。目を丸くして眺めている姿は微笑ましいのですが、実際の教育効果という点からみると程遠いものがあります。

2012年2月7日火曜日

僧院の子供たち その3

いやはや、今日はすごいものを見学しました。昼過ぎに学校に勤務するシブと共に、お茶と散策を兼ねて出かけるのが最近の日課です。さて、僧院に帰りついた途端に総院内が活気づき始めました。あれこれしている間に、院内の椰子の木に見習い僧が登り始めました。早速ビデオ撮影を始めたわけです。今から椰子の木の剪定作業が始まるようです。いやはや、その姿には圧巻されました。彼らは木登りの名人です。何の苦労もなく、スイスイと登っっていきます。勿論安全ネットなどあるわけもなく、落っこちたら大怪我をするのは目に見えています。

僧院の子供たち その2


ここ僧院にはインド北東部からの出身が多くいます。インドでは携帯電話が普及し大活躍をしています。中には一ヶ月の給与の大半を電話代に使う人々もいるようです。僧院の子供たちの何人かは、携帯電話を手に入れて故郷の家族と連絡を取り合う事もしばしばです。しかし、何と言っても魅力なのは、電話料金が安くなった事です。はるか数千キロ離れた両親と話しをするのに、15円もあれば、20分ぐらい話しをすることができます。幼い子供たちは同郷出身の先輩の電話を借りて通話をしています。一ヶ月に二度ほと故郷の家族と連絡を取っています。その姿は微笑みに満ちていました。

2012年2月5日日曜日

僧院の子供たち


2008年10月
2012年2月
さて、ここ僧院には10名ほどの子供たちがいます。多くはインド東北部の州からの子供たちです。幼い頃からこの学校で寄宿生活を送っています。年を追うごとに成長していく姿を見るのも一つの楽しみです。2002年と言えば10年ほど前になります。この当時小学1年生だった子供は今は高校に通学する歳ごろになっています。こうした変化を見つめていると、いつまでも飽きる事がありません。

インドのパソコン 舞踏発表会

背景のバックグラウンドの動画は処女作!!合作!!

さて、ここビルマ寺に居候していると、珍妙な出来事が発生します。先日は、地元で舞踏学校を運営している人々から依頼が舞い込みました。この僧院が併設しているボデスカ・スクールの技術スタッフなるMr.シブとは、以前から親しくしています。暇があると、彼の事務所に浸りきりの事もあります。ここで、彼は事務局長!的な存在で、朝9時半から午後2時半までのパートタイムとして過ごしています。彼の兄の友達が舞踏学校の職員と知己だそうで、近々地元の公会堂で発表会があるので協力して欲しいと話しが持ち込まれました。さて、その案件とは、与えられた写真を組み込んでスライドショーを作って欲しい。それを発表会場で使いたいからという内容でした。ともかく、そのスライドショーを動画に変換したものをプロジェクターで映し出したいとの話しでした。
動画編集は、以前から少しは経験があります。シブ氏を通じて私に協力依頼が舞い込んだわけです。発表会の前日にタイトルとなる舞踏の名前そして時間などのメモとそれらに用いる画像60枚ほどが目の前に積まれました。舞踏の種類によって、タイトルの変更、画像の変更などが伴います。全部で16本の動画を編集しなければなりません。それぞれの動画の時間も異なっています。この作業はシブさんにとっても初めての経験です。どうも、私がこうした動画作成のノウハウがあるのを見込んで、彼は私に投げ売ったわけです。ともかく、翌日の午前までに16本を完成させなければなりません。

2012年2月4日土曜日

インドのパソコン

カルカッタの僧院に着いて3週間になろうとしています。冬季ですから、朝晩の冷え込みは我が身にこたえます。日中はかなり暖かいのですが・・・。 今回は様々なイベントが開催され、昨年新調したビデオカメラで映像をとりまくり、その編集作業に専念です。恒例の運動会や、インド共和国記念日、そして学問の神様への祭礼などがあり、退屈することはありません。しかし、ビデオカメラの性能はぐっとあがり、比較的廉価で購入することができるのですが、これらを編集しようとすると、それに似合うパソコンがないと、大変な苦労を強いられてしまいます。5分の動画を作成するにしても、30秒程度の小さなクリップに分割し、後で結合するという方法を採用しています。最近のビデオ編集ソフトは本当に便利になりました。しかし、アイコンが数多くあり、それらの機能を活用するには、やはり色々な経験が必要になります。ああ、もっと高性能のパソコンが欲しい所です。メモリも増設し4メガのRMを搭載しました。別途4GBのSDカードを利用してメモリの代用となるレディブーストの機能も加えました。目下の所、我がパソコンの性能は3.2(最低値)と採点されました。この僧院の坊主のパソコンをチェックし

2012年1月29日日曜日

インド共和国記念日


1月26日はインド共和国記念日です。この日はインド各地で盛大に儀式が行われます。ここカルカッタ郊外のボデスカ・スクールでも例年同様、祭典が開催されました。今回の旗揚げ儀式には私も名誉ゲストとして参加することになり、旗揚げの役割を担うことになりました。

サラスバティープジャ


今日はサラスバティープジャの日です。ここ西ベンガル州では祭日となり、学校では学問の神様サラスバティーを祭って式典を行います。ヒンズー教の儀式にのっとり盛大にお祭りが進行しました。このお祭りはヒンズー教のカレンダーによって決められるので年によっては、1月の下旬になったり、2月上旬になったり変更することがあります。それにしても、インドの1月、ここカルカッタでは祭日の多いこと。1月1日は新年、1月26日は共和国記念日。1月28日はサラスバティープジャと休日が多く重なり、子供たちははしゃいでいます。
さて、この日は授業もなく、教室の一角で、女神の神体を備え付けて祭礼が始まりました。御神体も大きさによって異なるのですが、この学校では400ルピー(700円)の予算で女神像を購入しました。祭壇には、果物やお花など様々なものを備えて儀式は盛大に開催されました。勿論教師も参加しての大行事です。祭礼となると、子供達も先生達も張り切って、熱心になるのですが・・・・。これだけの熱意が学業にも目が向けば良いのですが、現実は思う通りにならないようです。

2012年1月23日月曜日

タイの洪水その後

昨年のタイの洪水は各地に甚大な被害をもたらしました。今は乾季で雨に見舞われることもなく、洪水の恐れは皆無です。しかし、数ヶ月たった今でも、その名残を見ることができます。タイの洪水というのは、我々がイメージする洪水とは全く異なったタイプの災害です。日本では、集中豪雨や台風などの被害で、水量がいっきに増加し河川が氾濫して洪水をもたらすというものです。これは、急激に襲ってきます。しかし、水の引くのも早く、掲載した動画が示しているような痕跡を見ることはまれです。アユタヤの宿の主人によると、二ヶ月ほど水に浸っていらっしゃったそうです。いわゆる水がじわじわと侵入し、時間をかけて引いていくというパターンです。河川の構造そのものが大きく異なっています。日本の川は下流から50キロ、100キロもいけば、河川の標高は数百メーターに位置します。それに比べるとインドのガンジス川などは、500キロ川をさかのぼっても、標高はまだ海面から50mだったりすることがよくあります。日本の川は急流となって一気に海に注ぐわけです。しかし、大陸を流れる川はゆっくりと時間をかけて海に流れこんでいきます。地元の人々にとって、こうした洪水は毎年起きて当たり前と感じているようで、特に大きく騒ぎ立てるわけではないようです。昨年の12月バンコクのタイ文化センターで洪水の写真展がありました。水没した列車の中をかき分けて進むタイ国鉄、高速道路が巨大駐車場に早変わりした様子、ボートで移動する人々、膝の高さまで浸水しても普段と変わりなく生活する人々。

2012年1月19日木曜日

バングラデッシュの少数民族

バングラデシュは回教の国として知られています。しかし、この国は8割程度が回教徒で、残りはヒンズー教徒、仏教徒そしてキリスト教徒が占めています。また国全体では44の少数民族が同居している国です。大半はベンガル人で構成されているのですが、ミャンマー国境付近には、アラカン、マルマ、チャクマ、バルワ、モグなどの仏教徒系の住民が多く住んでいます。この地域の住民は長年の間、多数派(ベンガル系回教徒)からの差別迫害に悩まされているのが現状ですが、そうした情報は私達の目に止まる事は殆どないようです。今から10年ほど前にバングラデッシュの東部丘陵地帯に住む住民達が、武装闘争を行なっていたという歴史があります。しかし、その後政府と平和協定を結んで現在は平穏な状況だと報じられているようですが、どうもそれは眉唾もので、バングラデッシュ政府自体が世界に対して体裁を整える常套手段であって、実際は、今は、以前よりも状況は悪化しているとも言われています。バングラデッシュ(ベンガル人)が国外への出稼ぎ、バングラデッシュの産業の増大に伴う所得の向上と同時に人口の増加が伴い、土地を求めてじわじわと東部丘陵地帯の占有が始まっているようです。占有といっても不法占拠に近い状態でしょう。それに対して現地の人々は抵抗する手段を持つことが出来ないでいる状況です。ここカルカッタの僧院には、様々な人々が集います。その中で印象的だったのが、日本で難民として認められ在住しているAさんです。機会があって、2日間に渡って話しをすることが出来ました。この地域については私達も無知に近いものがあります。しかし、彼からの話しで、様々な事柄が見え始めたわけです。日本には現在およそ60人程度の同じ難民(はバングラやインド東北部の州)が住んでいるそうで、とりわけフランスは最多で400人の受け入れがあるそうです。他に、北欧諸国やニュージランド、オーストラリアなどが受け入れ先になっているようです。数年前に、この地域でイスラム教徒が仏教系住民の家を焼き討ちしたという記事が浮かびました。しかし、こうして現実に、難民の方から直く話しを聞けば、生々しいものを感じます。今回の帰国は結婚という課題があって、バングラデッシュに3週間の間滞在されたようです。航空券は成田からバンコク経由でカルカッタへの往復です。そして、ここ私の滞在しているカルカッタ郊外の僧院へも最終日の二日間を過ごして、日本への帰国という日程でした。そんな中で偶然に私との出会いが生じたわけです。アジアの難民を考えると様々なケースがあります。ミャンマーの軍事政権下で圧迫を受ける人々(最近は軍事政権が柔軟な対応を始めたようで、今後は難民としての認定は難しくなって来ることでしょう)、今は解消したと思いますが、スリランカのタミル人難民、ブータンから逃れたネパール系住民、ミャンマー西部に住む回教徒(ロヒンニャ)、中国チベットの難民などいろいろな理由で、生活を追われる人々が後を立たないようです。そして、特定の難民の集団については、直接国連によって支援されるグループもあります。また、タミル人のように、世界的なネットワークを通じて支援を受ける場合もあります。チベット系の難民は政治的策略でインドに多数の難民が今でも多く居住しています。そんな中でバングラデシュに住む仏教系の人々(多くはモンゴロイド系)で我々日本人と姿、顔はほとんで変わりません。Aさんは横浜で会社につとめていらっしゃるようで、日本料理も好物になったそうです。彼の言葉の中からはいろいろな意味が含まれていました。今回は三年半ぶりの帰国ですが、「私はこれで、バングラデッシュに帰ることは無いでしょう」というのがすごく印象的でした。私の場合は帰ろうと思えば、いつでも帰る事ができます。ちょっとセンチメンタルかもしれませんが、彼の発する言葉の重みを感じてなりません。こうした難民との対話、特に今回は難民に認定された人との対面は私にとっては、何か新しい事実を知る事の始まりとも言えるでしょう。しかも、私の心境は複雑、微妙なものが残ります。単に貧しいからという事象ならば、解決への道筋は経済的な支援である程度解決することができます。しかし、彼らのケースに遭遇した場合はどのような対処ができるのでしょうか?我々と同じ顔つきですから、ものすごく親近感を感じます。ベンガリ語とミャンマー語そしてヒンズー語、英語、日本語を介しての対談でした。三年半の日本の滞在でかなり日本語ができるようになっています。しかし、拷問、逮捕、焼き討ちなどという多少高度な日本語になると英語を介してのやり取りになりました。簡単な言葉は彼の母国語のマルマ語(ビルマ語に似ている)を交えたり、日本語でのやりとりです。確かに、これも不思議な出会いです。もし、私がこの時期に、この僧院に滞在していなかったら、会う事はなかったでしょう。今回結婚した奥さんが日本に来れるのは二年ほど先になるとの事です。ここカルカッタの僧院に滞在中は片時も携帯電話を離すことなく、時間が過ぎていきました。奥さんからは頻繁に電話がつながるようです。この界隈は国際電話といえでも、日本のような高額ではありません。

以前バングラデッシュのコックスバザール(東部の街)に出かけた時みかけた朽ちかけた仏教寺院を思い出しています。もう、誰も人の住んでいる気配はなかったはずです。またこの地域を訪問した時、混雑したバスの車内で乗り込んだ僧侶には誰も席を譲ることなく、ずうーっと満員のバスの中で立ったままで乗車していました。ビルマやタイそしてスリランカでは、出入り口の近くには僧侶席が設けられているのが常で、僧侶が乗り込むと誰もがスーと席を譲るという習慣が今でも続いています。また、バングラデッシュの東部を旅行していた時に、二人の若い見習い僧侶が私を日本人と見てなのか、仏教徒の祭礼で賑わう寺院へ同行させられた事があります。これは、別段、悪いことが起きたのではありません。二人の若僧は真摯で人懐っこく私の世話というか、案内をかってでてくれたわけです。それに対して報酬を要求するわけでもありません。しかし、彼らの目には何かを訴えたかったように思えてなりません。確かこの頃はベンガル語で意思疎通をしたはずだと記憶しています。

国境線というのは、私達の感覚では、それを超えると全く別な人種が住んでいると錯覚しがちですが、島国育ちという環境がそういった概念の持つ契機になっています。しかし、陸続きの国に於いては大きく事情が異なります。いわゆるグレーゾーンとでも表記しましょうか?国境を超えても文化、習慣が殆ど変わらない地域があるという事です。特にインド東北部やバングラデッシュの東部、そしてビルマの西部は、多くの民族がモザイク上に交差しながら居住しています。例えばバングラデッシュの東部に住むチャクマ族は比較的広範囲にバングラデッシュの国境を超えて分布しています。バングラデッシュ国内に住む仏教系の住民は100万人程度とも言われています。かと言って、この地域の人々(仏教系住民)で新しく国家を作る力も資力もありません。益々顕在化する弱肉強食の世界では、少数派が次第に淘汰されつつある状況です。一時この地域に強大な勢力を誇ったアラカン王国は衰退の一途を辿っていきました。16世紀は、今のバングラデッシュの東部は仏教圏内だったようですが、今はその土地の多くをベンガル系イスラム教徒の進出で益々やせ細っているようです。しかし、その流れを変える事はだれにもできなのでしょう。