バングラデシュは回教の国として知られています。しかし、この国は8割程度が回教徒で、残りはヒンズー教徒、仏教徒そしてキリスト教徒が占めています。また国全体では44の少数民族が同居している国です。大半はベンガル人で構成されているのですが、ミャンマー国境付近には、アラカン、マルマ、チャクマ、バルワ、モグなどの仏教徒系の住民が多く住んでいます。この地域の住民は長年の間、多数派(ベンガル系回教徒)からの差別迫害に悩まされているのが現状ですが、そうした情報は私達の目に止まる事は殆どないようです。今から10年ほど前にバングラデッシュの東部丘陵地帯に住む住民達が、武装闘争を行なっていたという歴史があります。しかし、その後政府と平和協定を結んで現在は平穏な状況だと報じられているようですが、どうもそれは眉唾もので、バングラデッシュ政府自体が世界に対して体裁を整える常套手段であって、実際は、今は、以前よりも状況は悪化しているとも言われています。バングラデッシュ(ベンガル人)が国外への出稼ぎ、バングラデッシュの産業の増大に伴う所得の向上と同時に人口の増加が伴い、土地を求めてじわじわと東部丘陵地帯の占有が始まっているようです。占有といっても不法占拠に近い状態でしょう。それに対して現地の人々は抵抗する手段を持つことが出来ないでいる状況です。ここカルカッタの僧院には、様々な人々が集います。その中で印象的だったのが、日本で難民として認められ在住しているAさんです。機会があって、2日間に渡って話しをすることが出来ました。この地域については私達も無知に近いものがあります。しかし、彼からの話しで、様々な事柄が見え始めたわけです。日本には現在およそ60人程度の同じ難民(はバングラやインド東北部の州)が住んでいるそうで、とりわけフランスは最多で400人の受け入れがあるそうです。他に、北欧諸国やニュージランド、オーストラリアなどが受け入れ先になっているようです。数年前に、この地域でイスラム教徒が仏教系住民の家を焼き討ちしたという記事が浮かびました。しかし、こうして現実に、難民の方から直く話しを聞けば、生々しいものを感じます。今回の帰国は結婚という課題があって、バングラデッシュに3週間の間滞在されたようです。航空券は成田からバンコク経由でカルカッタへの往復です。そして、ここ私の滞在しているカルカッタ郊外の僧院へも最終日の二日間を過ごして、日本への帰国という日程でした。そんな中で偶然に私との出会いが生じたわけです。アジアの難民を考えると様々なケースがあります。ミャンマーの軍事政権下で圧迫を受ける人々(最近は軍事政権が柔軟な対応を始めたようで、今後は難民としての認定は難しくなって来ることでしょう)、今は解消したと思いますが、スリランカのタミル人難民、ブータンから逃れたネパール系住民、ミャンマー西部に住む回教徒(ロヒンニャ)、中国チベットの難民などいろいろな理由で、生活を追われる人々が後を立たないようです。そして、特定の難民の集団については、直接国連によって支援されるグループもあります。また、タミル人のように、世界的なネットワークを通じて支援を受ける場合もあります。チベット系の難民は政治的策略でインドに多数の難民が今でも多く居住しています。そんな中でバングラデシュに住む仏教系の人々(多くはモンゴロイド系)で我々日本人と姿、顔はほとんで変わりません。Aさんは横浜で会社につとめていらっしゃるようで、日本料理も好物になったそうです。彼の言葉の中からはいろいろな意味が含まれていました。今回は三年半ぶりの帰国ですが、「私はこれで、バングラデッシュに帰ることは無いでしょう」というのがすごく印象的でした。私の場合は帰ろうと思えば、いつでも帰る事ができます。ちょっとセンチメンタルかもしれませんが、彼の発する言葉の重みを感じてなりません。こうした難民との対話、特に今回は難民に認定された人との対面は私にとっては、何か新しい事実を知る事の始まりとも言えるでしょう。しかも、私の心境は複雑、微妙なものが残ります。単に貧しいからという事象ならば、解決への道筋は経済的な支援である程度解決することができます。しかし、彼らのケースに遭遇した場合はどのような対処ができるのでしょうか?我々と同じ顔つきですから、ものすごく親近感を感じます。ベンガリ語とミャンマー語そしてヒンズー語、英語、日本語を介しての対談でした。三年半の日本の滞在でかなり日本語ができるようになっています。しかし、拷問、逮捕、焼き討ちなどという多少高度な日本語になると英語を介してのやり取りになりました。簡単な言葉は彼の母国語のマルマ語(ビルマ語に似ている)を交えたり、日本語でのやりとりです。確かに、これも不思議な出会いです。もし、私がこの時期に、この僧院に滞在していなかったら、会う事はなかったでしょう。今回結婚した奥さんが日本に来れるのは二年ほど先になるとの事です。ここカルカッタの僧院に滞在中は片時も携帯電話を離すことなく、時間が過ぎていきました。奥さんからは頻繁に電話がつながるようです。この界隈は国際電話といえでも、日本のような高額ではありません。
以前バングラデッシュのコックスバザール(東部の街)に出かけた時みかけた朽ちかけた仏教寺院を思い出しています。もう、誰も人の住んでいる気配はなかったはずです。またこの地域を訪問した時、混雑したバスの車内で乗り込んだ僧侶には誰も席を譲ることなく、ずうーっと満員のバスの中で立ったままで乗車していました。ビルマやタイそしてスリランカでは、出入り口の近くには僧侶席が設けられているのが常で、僧侶が乗り込むと誰もがスーと席を譲るという習慣が今でも続いています。また、バングラデッシュの東部を旅行していた時に、二人の若い見習い僧侶が私を日本人と見てなのか、仏教徒の祭礼で賑わう寺院へ同行させられた事があります。これは、別段、悪いことが起きたのではありません。二人の若僧は真摯で人懐っこく私の世話というか、案内をかってでてくれたわけです。それに対して報酬を要求するわけでもありません。しかし、彼らの目には何かを訴えたかったように思えてなりません。確かこの頃はベンガル語で意思疎通をしたはずだと記憶しています。
国境線というのは、私達の感覚では、それを超えると全く別な人種が住んでいると錯覚しがちですが、島国育ちという環境がそういった概念の持つ契機になっています。しかし、陸続きの国に於いては大きく事情が異なります。いわゆるグレーゾーンとでも表記しましょうか?国境を超えても文化、習慣が殆ど変わらない地域があるという事です。特にインド東北部やバングラデッシュの東部、そしてビルマの西部は、多くの民族がモザイク上に交差しながら居住しています。例えばバングラデッシュの東部に住むチャクマ族は比較的広範囲にバングラデッシュの国境を超えて分布しています。バングラデッシュ国内に住む仏教系の住民は100万人程度とも言われています。かと言って、この地域の人々(仏教系住民)で新しく国家を作る力も資力もありません。益々顕在化する弱肉強食の世界では、少数派が次第に淘汰されつつある状況です。一時この地域に強大な勢力を誇ったアラカン王国は衰退の一途を辿っていきました。16世紀は、今のバングラデッシュの東部は仏教圏内だったようですが、今はその土地の多くをベンガル系イスラム教徒の進出で益々やせ細っているようです。しかし、その流れを変える事はだれにもできなのでしょう。
お久しぶりです!
返信削除現実は厳しい。
とは思っておりましたが、やはり…。
リアルな情報はかけがえのないものです。
ありがとうございます。