2016年11月5日土曜日

衝突は政治的対立(ムールティ君より)

衝突は政治的対立(ムールティ君より)

中央がムールティ君、右は妹
インド政府は、インド押しかけたタミール人難民に、一人当たり3000インドルピーのローンを与えたそうである。
インドより色々な救援物資が届いたけれど、スリランカ政府からの品物は・・・。すなわちスリランカ各地の難民キャンプに送られる予定のユニセフ・赤十字の物資はスリランカ政府の手を経ているので、僅か20%相当しか出回りません。残りは政府高官の手に入ったのであろう。
大工場や商店などタミル系のものは破壊されたけど、政府はこれらの保険金の支払いに頭を悩ます結果となりました。生命保険も同様で、保険会社及び政府は大赤字。こんな状況だと、発展はさらに10年遅れることでしょう。
大きな暴動は、1956年のシンハリ語公用語法制定の時に、北方の街ジャフナ(Jafna)で、タミル人(ヒンズー教徒)対シンハラ人(仏教徒)の大きな衝突があったそうです。その後はずっと小競り合いが続いていたものの、1971年には、シンハラ人対シンハラ人の対立。その後1977、1979、1981年と連続して騒動が生じていた中で、今回が最大の闘争になっているそうです。
例えばスリランカ中央部に位置するバドゥラの街は3-4万人の規模ですが、8割がタミル人。その街は今、タミル人がいなくなってしまいました。そんな中で或る店主は従業員3人を殺したうえで自分も自殺を図ったそうです。何千人と押し寄せる群衆と軍及び警察の武器に対抗できないと悟ったそうです。

ココナツが0.75ルピーから5ルピーに値上がりしました。天候不順もあろうけど、作物を管理する人々の多くはタミル人で、その人達がいなくなったことも大きな原因なのです。
シンハラ系の財閥で大企業でもあるウパリ・ダーサは全く被害がなかったけれども、シンガポール、インド・英国に工場をもつ大手繊維産業の(シンテックス=タミル系)は完全にアウトになり、社長は英国に引き上げたそうで、10年後でないと再開しないと宣言したそうです。
対立の影響さまざま(ムールティ君より)
それで、「シンハリ人が代わりに商売をやって儲けるだろう。シンハラ人が得をするのではないか?」と問うと「いいや、あの人達はあんまり頭がよくないのさ。お金があったらすぐ酒飲んで、博打やる。商売の方法あまりよく知らないからなぁ。輸出入なんてのは、我々のほうがはるかに上手にやってのけるさ。教育も高いし、我々はサインすること知っているけど、ランカ(シンハリ人)人は指紋を押すことを知っているだけだもん」
この話が出た時に、ふっと日本の実情とも似ているなぁと思ったものです。だって我が国だって武器輸出をしないけれども、経済戦争の真只中。スケープゴートになっているのだから。実際は叩かれた。出る杭は打たれるに似た感じがしないでもありません。「こんな大きな暴動は1977年まで殆どなかったけど、貿易自由化等の政策転換で、それまで両者ともに貧しかったのが近年グングン水を開けて差が開いた。これが不孝の原因なのさ」
ここで少々変わっているのは、1978年の回教徒と仏教徒の対立が起きた時、中近東諸国のアラブ中枢のサダト氏は「スリランカの回教徒を我が国に受け入れて、スリランカへは石油の供給を行わない」と発言したそうです。今の大統領はタミル人が有能であることを充分認識してくれたけど、首相はダメなんだ。あの人は洗濯屋あがりの人で、教育はあまり受けていないんだもん。回教徒は今回は混乱しているよ。あっちの家、こっちの家で話をする内容が違うんだもん。カンディではタミル人を支持し、難民キャンプへの差し入れもやってくれるんだけど、コロンボではシンハリ人を支持しているんだもん」
当時のムールティ氏はカンディの難民キャンプに約一カ月半。「キャンプと言っても、学校の教室に200人だよ。水なし、トイレなしで飯は少々。それで学校も二カ月の間休校していたよ。推定では2000人から3000人が死んだろう。よく聞き取れなかったけれども、仏教界もタミル人追い出しに参加したようです。
カンディは全島で被害が最も少ない地区だったんですよ。ヌワラエリア(Nuwara Eliya)、ナワラピティヤ (Nawalapitiya)、」バドッラ(Badulla)等が大変だったんだよ。スムドラ(Sumdra)ではヒンズー寺院が壊されて、インドからの贈り物(数ラーク・ルピー:ラークは10万)もダメになったよ」
女性が額にポド(赤い丸印)をつけていると、何されるかわからない。多分犯されるのさ。今は我々には自由がないのさ」と語ってくれました。
彼の家にはガンパハ(Ganpaha)から逃れてきた親戚の叔母さんも居ました。ムールティ君の話によると「現在マドラスでタミル人が軍事訓練を受けているのさ」
電話はタミル人の家の回線のみ切られたというか、繋がらなかったそうです。これは電話局の仕事さ。病院へ行っても医師は全部シンハラ人で、我々の面倒はみないさ。どんなに大きなケガをしていても、追い出されますよ。ただシンハラ人の患者なら問題ないんだけど。タミル人の医者は大体お金持ちだからさぁ、すぐに外国に逃げちゃった。難民キャンプでも見かける医者もいるけどねぇ。結局市内にはタミル人の医者がなくなってさぁ。消防も動けず、働いたとしても、類焼を食い止める事しか考えないよ!


小さな事件ではない(ムールティ君より)

まだ色々と話しを聞きたかったけど、あまり長く此の家にいて話をすると、寄留先のムナシンハ家が心配するので、切り上げることにしました。帰り際に優しい目つきで、「帰るまでにもう一度家によってください。夕食をご馳走しますから」ということで別れました。一体彼らに何の罪があるのでしょうか?あったのでしょうか?平凡に平和に人生を送る機械をも失わんとしている彼ら、また新たにゼロからのスタートとなる家族。単一民族国家なる日本との違いは、あまりにも大きいものがあります。この事を少しでも知ってもらえればと思い記録しておきましょう。
昭和58年12月25日。皆様へのクリスマスプレゼントでもあります。Merry X’mas and A Happy New Year.
以下は私の主観が中心になります。親愛なるムールティ君の好意で、こうした事実を捉えることが出来るのは嬉しいことです。現在住んでいるムナシンハ家では、こうした話は殆ど出てきません。その意味で、今一度この問題に挑戦してみたいと思います。残りの日数で、コロンボの友人、ヒッカドワのMr,Sisil等から色々な話を聞いてみる予定です。
被害者側、加害者側と立場によって捉えかたは大きくことなってきますが、事実は事実として眺めることが大切だとおもうのです。英字新聞やラジオ等の報道はコントロールされているようで、事実とは異なる場合がしばしばあります。極端な例でいうと、亡くなった人々の数は公称400人と数千人の違いが生じています。
誰も知ろうとしないこの世界の中での小さな事件かもしれません。小さいというのは、イラン・イラク戦争、PLO(パレスチナ)の問題、北アイルランドの暴動などに比べると、ここスリランカの問題は小さな事件としか記されていないようです。しかし、その本質はいくつかの共通点を見出すことが出来るかと思います。20年、50年と経過しても果てしなく続くものなのか?時代が進むにつれてテロリストに関した事件はその手法も巧妙で精巧になり、パリやローマですら、先進国だろうが何だろうが発生する時代です。一刻も早く解決しますように!

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