2025年2月3日月曜日

パレンバン紀行2023年

 

パレンバン紀行2023

6-Jan 2025

Satoru Hoshiba

概要

元実習生のサブジュ・ギオを尋ねてから一年が過ぎてしまいました。記憶が薄れない間に記録として残したい一心で綴ってみました。一年以上経過していますが、Google Photoに保存した写真を見ると幾つもの思い出が昨日の如く湧いてきます。記憶をたどっていくと、訪問した場所がありありと浮かぶと同時に深追いへと導いてくれます。単なる訪問を読み返すことで新たな事実を見出す作業が始まります。現在はネット社会で情報の入手がたやすくなりました。食べたものを良く消化すれば健康そのものです。同様に旅の経験を消化すれば、心身爽快になります。これも旅の醍醐味にひとつなのです。人生とは生涯学び続けることかもしれません。

 

Maps1 ブキッテンギからパレンバンのバス路線 783Km

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1CKqvEFVyKsLYiasQg2PNTE7Na8C071k&usp=sharing

 

Map2 パレンバン周辺の移動    合計450Km

Palembang からMuara Enim          185Km

Muara Enim からBukit Asam          往復 28Km

Muara Enim からGunung Menang  83Km

Gunung MenangからPalembang   154Km

https://www.google.com/maps/d/edit?mid=16tGqnTA2NZyDcLE5KNCAIy6msn5gZjI&usp=sharing

 

日程

Day01 Hotel in Palembang

Day02 to Day04 Gio Home at Palembang

Day05 to Day07  Uncle home at Muara Enim

Day08 to Day11 Gio home town at Gunung Menang

EP01ギオとの出会い

ギオが初めて私の所に来たのは、実習生として二年目の春でした。山好きなワワンの友人がギオと同じ職場に働くヨギと一緒にやってきたのです。初対面の印象は、こんなか細い体格で現場の仕事は出来るのだろうかと心配になりました。しかし、それは外見だけでは分からない部分が多くあります。日本中の山を駆け回っているワワン・ヌーチョも小柄な体格です。24年の夏に二度立山を訪問したロム・ドンも小柄な体型なれども、25キロの荷物を背負って行動しています。いわゆる底力があると言えば相応しいのかもしれません。


初回は誰もが緊張するものです。友人の紹介で遠慮しなくてもいいと話を聞いていても現実は、恥ずかしさが付きまとってしまいます。小柄ながら、目が活き活きとし聡明な印象を受けました。一泊して帰る時には、「また訪問してもいいですか?」と小声でつぶやいていました。「どうぞ遠慮なく、皆の家だから」こうして、ギオは頻繁に訪問することになったのです。


ある時は友人を連れて、やってきます。その時は大概最後の電車で到着します。と同時に大量の食材持参で訪問してくれました。そんなに気を使わなくても良いと何度も声を掛けましたが、ギオは決まって何等かの食材持参で訪問する習慣になってしまいました。

ある時は一人で訪問し、終日二階の部屋で読書(多分イスラム教の教本コーラン)を読んだり、日本語を勉強したりしています。時間を挟んで近くへ散歩にも出かけます。なるほど、立山駅前の春、夏、秋の景観は彼らが生まれ育った環境に近いものがあります。それが気にいったのでしょう。そして私が発信する様々な情報にも興味があります。食事は豚肉厳禁の準イスラム教徒向けの料理が並びます。同時にインドネシアの音楽を聴きながらの食事は、彼らの胸に心地よく響いたに違いありません。

数度訪問した後、彼はインドネシア特産のサロン(男性用腰巻)を持参してくれました。現地では有名なブランド品です。私の所への訪問が彼の日本での人生を一変させたのかもしれません。家族に連絡を取って早急に富山に送ってもらう手配をしたようです。今でも夏になると私は、そのサロンを愛用しています。

丁度、それはコロナ流行期でしたから、思うように動けません。彼らは日本語が堪能とは限りませんから、正確な情報を得るのは難問の一つです。結局私が、インドネシア語と日本語を混在させながら説明役に回ったものです。マイナンバーカード取得によるポイント獲得の支援も続けました。この支援は殆どがスマホで代用可能でした。必要な画像を手早く編集して送付したり、関連するサイトはSNSを通じて送るなど多方面に渡り情報提供です。こうして、次第にギオとの付き合いが深まっていったのです。

彼自身明るい性格で、誰からも好かれるタイプで、私の送った情報を元にリーダー役を務め、数人の友人達を引き連れて黒部渓谷への旅を企画したようです。

彼らがお互いに知り合うきっかけとなるのが、富山市内にある回教寺院です。金曜日の礼拝や、イスラム教徒の大祭の日には多くの信者が集います。そうした時にお互いに情報を交換して友人関係を築きあげているのです。そんな中で、ジャワ島のバンドンから来た4人組(リコ、アレン、クルニアワン、アンドレ)はそれぞれ職場が異なりますが、出身地が同郷なので、頻繁にSNSで繋がっています。そこへギオも仲間入りしたそうです。

そして、私の所でも、知らないインドネシア人同士が初めて出会っても、億劫にならず、即知己の仲間として成り立っていくのを見ると、私も当然の事ながら嬉しくなってきます。

EP02立山登山(バンドングループ)



立山登山は彼らにとっては深く心に残るイベントだったかもしれません。当時はコロナ流行の真最中で、政府の補助金を利用した数多くのイベントが開催されていました。その一つが立山黒部アルペンルートの特別割引制度でした。通常立山駅から大観峰往復が13,000円ほどかかりますが、補助金漬けで特別クーポンなどを利用すれば、実質1500円で往復できました。しかし、これはクレジットカードの支払いでホームページからの申し込みに限られていました。勿論彼らは国際クレジットカードを持ち合わせていません。状況を判断して私が代行して、7人分を申し込むことにしました。私は地域住民ということで特別乗車証がありますから、不要です。109日夜には全員集合ということで約束が成立しました。ウェブで申し込む際はケーブルカーの時刻指定も併せてできますから当日早朝に列に並ぶ必要はありません。7人の仲良しグループの一人クルニアワンは仕事が終わってから立山駅に向かう予定でしたが、最後の電車に間に合うかどうか定かではありません。戸出在住の彼は最後の普通列車での乗り継ぎを逃して、高岡駅から新幹線で富山駅に向かい、無事私達と合流出来ました。




当日は全員張り切っていました。運よく天候にも恵まれ絶好のハイキング日和で、どこで、時間を取ればよいかなどをしっかりと把握しながら彼らを誘導しました。大勢の人数になると、各々行動パターンが異なるので以外と多くの時間がかかるものです。紅葉にも恵まれ最高な一日となったのです。

彼らと共に行動するのも私にとっては新鮮な経験です。お昼過ぎに地獄谷方面に向かっている最中に、お祈りをしたいから、ちょっとこの辺りで休憩しましょう」ということになりました。彼らの様子を見ていると立山噴火時の仮設シェルターの陰でしっかりとお祈りをしているではありませんか。彼らにとっては、日常生活の一貫です。私達の生活では毎日の睡眠と食事そして休憩が必要なのはじゅうじゅう承知です。彼らには、もう一つお祈りというのが加わるのです。お祈りを終えるとみんなはつらつとした表情で行動開始となったのです。

当時はコロナが流行していたのですが、とある日本人のおばさんからヘイト・スピーチを受けたこともありました。私達がはしゃいでいたからでしょうか?そんな大声で話をしていたわけではありません。「マスクをしてください。近寄らないでください。コロナがうつるから」と叫んでいた記憶があります。私達のグループがアジア系という事での発言だったかと思いますが、今になっても私の記憶に残っています。朝9時に出発して立山駅前の自宅に到着したのは夕方5時前ですから、ほぼ終日ゆっくりと観光したわけです。室堂で写真屋さんが待ち構えていました。小さいサイズは無料なのですが、大きなサイズになると1000円と有料です。ギオはすかさず、1000円を懐から出して私達全員のグループ写真の大判を買い取り、私にプレゼントしてくれました。どこまで、彼は優しく気が利く人物なのかと改めて知ることになったのです。家に帰ってから皆で夕食を囲み、6時半の電車で各自が自分達のアパートに向かうこととなりました。

EP03ギオの帰国

ギオは予定通り3年の実習期間を終えて帰国することになりました。一般的に実習生の多くは有給休暇などが与えられないケースも散見します。実習という名目ですから、任期が終わると早急に帰国しなければなりません。日本にやってきてぎりぎりまで仕事に追われる日々です。任期の最後はゆっくりと国内の観光を楽しんだりできないものか疑問に感じるケースが殆どです。荷物の整理や、国外撤去に必要な書類の届け出など多くの案件が待ち構えていますが、所属している監理団体によっても手筈が異なるようです。時間に余裕がなく、費用の捻出が付かないという二点が主たる原因でしょう。また監理団体は、そういった個人的な件については、ガイダンスも何もしてくれません。ギオの場合は最後の3日ほど自由時間が取れたようです。話によると、荷物は国際宅急便を手配したそうです。帰国は2月でしたが、正月休みを利用して、富山市内の回転寿司のお店に招待しました。その後お土産を買うのを手伝ってほしいといことで、ブックオフで取り扱っている古着を見に行きました。彼にとっては、非常に興味のあるお土産だったようで、試着しながらお気に入りを二点購入していました。

日本を出発し、日本の上司付き添いの下で、ジャカルタ空港で撮影した写真が届きました。しかし、その後彼には難関が待ち受けていたのです。当時はコロナの接種証明が必要で到着時にも検査を受けるほど厳重な管理下にありました。不幸なことに、ここで彼は陽性と判定を受けたのです。一週間ごとに検査を受け異常がなければ解放される仕組みでした。結局彼の検疫がおわったのは2週間後でした。後で話を聞くと、この費用は全て自己負担だったそうで、想定外の出費を伴ったことは間違いありません。

EP04ブキッテンギからパレンバンへ

ブキッテンギからパレンバンは783キロほどの距離ですから、東京から広島が約800キロですから、ほぼ同じ距離になります。この距離を走行するバスは2社運航されています。今回は新しくて評判の良いEPS社を利用しました。所要時間は22時間で道中一回分の食事クーポンが付きます。ほぼ1日かかることを覚悟しなければなりません。朝9時の出発で現地には翌日朝9時到着予定です。距離が長く道路の混雑状況によって時間ははっきりと定まりません。概して途中のドライブインは食事代が通常のお店よりも割高になりますから、事前にパンなどの食料を持ち込んでの出発となりました。北スマトラ、西スマトラそしてアチェ州は山岳地帯が多く、高速道路の整備も遅れています。パレンバンのある南スマトラ州は平地が多いので一部高速道路が開通しています。なるほど、スマトラは辺地という印象はまぬかれません。始発からは10人ほどしか乗客はいません。バスは30分ほど走りパダン・パンジャンで州都パダンからパレンバンへ直行するバスに乗り換えとなりました。ここから乗り込む乗客も数人いました。30分ほどバス停で待機し出発です。二車線の細い道、曲がりくねって坂道の多い道が続きます。バスは途中でトイレ休憩やお祈り休憩、食事休憩を挟んで何度も停車しながら進みます。座席は広いのですが、天井のランプの傍にあるUSBの充電コンセントが作動したりしなかったりの状態が続きました。実は当方の使っているスマホは購入後2年以上経過しているので、バッテリーが劣化し持続時間が極めて短くなっています。予備のパワーバンクもフル充電していますが、パレンバンまで持つかどうか定かではありません。一抹の不安を抱えながら出発です。車内の設備としてはトイレもついていますから安心そのものです。トイレと言っても日本のような水洗トイレではなく、トイレ室には便器があり、すぐそばには四角くタイルで作られた水槽が設置され、手柄杓があるという構造です。いわゆるバッチ式トイレなのでしょう。バスが停車中に後部に回ってみると何となく匂いました。

こうして一路南へ南へとバスは進んでいくのです。450キロを過ぎたころから、バスの速度は少し早くなりました。実はパレンバンとジャンビの区間は高速道路が一部開通しているのです。道中まで未完成で工事中の場所もありますが、通過するには意外と時間がかかるものです。大型トラックの往来や、交通規制などにひっかかることもしばしばです。しかし夜間はほぼ工事が中断しているので比較的スムーズに走行しているようです。

 

EP05パレンバン

バスは朝9時半ごろターミナルに到着しました。インドネシアの長距離バスは会社が、独自のターミナルを抱えているケースが多く、会社によって到着する場所が異なります。今回はEPS社を利用しましたが、市内中心部から7キロほど北に位置しています。しかし、この町はアジア競技大会が2018年に開催され、公共インフラが整備されています。空港を起点として南北に走る高架高速鉄道が敷設されているので、便利になりました。主要なショッピングモールや観光地などへは、交通渋滞もなく15分毎の出発ですから、利用しやすく、料金も一律30円(空港発着の場合は別途30円追加)でした。

車内は驚くほどに綺麗なのにびっくりします。しかも、朝9時頃は通勤ラッシュも終わり駅構内閑散としています。駅構内の入場はかなり厳重で購入した切符に表示してあるQRコードをかざすことでゲートが開く仕組みです。更に驚くのは、多彩なスタッフの存在です。切符販売窓口の職員、駅構内の案内係り、そして警備員という組み合わせで乗客よりおスタッフが多いのではと感じざるを得ません。さらに、電車が駅構内を出発する際は、警備員が敬礼をして州発を見送っています。日本では、けたたましい発車のベルが鳴るか、最近はメロディが流れたりしますが、国によって事情は大きく異なります。

スマホで連絡を取り合いながら、指定された場所に向かうのですが、なかなか辿り着くことが出来ません。ギオは自家用車で迎えにきていたのです。その事をしらず、駅構内の改札口と思い込んでいたので思うようにいかなかったのです。再度確認すると、高架の下に黒い車が停車しているではないですか。友人と一緒に私を迎えに来てくれたのです。こうして二年ぶりの再会を果たすことが出来たのです。

ギオの住むパレンバン市内の住まいは、お姉さんの所有なるもので、彼女の息子が今大学に通っているので此処からバイクで通学しています。今日はギオの友達が来ているので、

初日は宿をとってくれました。早速車を走らせて宿に向かいますが、その前にインドマート(インドネシアのコンビニ)で水や食料の調達をしてくれました。宿は彼の住処かからは、4キロほど離れた郊外の住宅地にあります。ネットで調べると一泊700円ほどの価格となっています。事前に電話で交渉していたようで、宿で暫く待っているとスタッフが登場しチェックインとなりました。私のパスポートなど提示も不要で謎に包まれた雰囲気です。一応シャワートイレ付の部屋で大きなダブルベッドが一つ配置してありました。一応エアコンも正常に作動しています。昨夜は夜行バスだったので、少し休憩が必要です。「宿で暫く休憩してください。午後迎えに来ますから」。こうしてしばし仮眠をすることになりました。

午後3時頃になって、ギオが迎えに来ました。早速市内の名所アンペラ橋に向かいます。この橋はパレンバンの南北の地域を結ぶ橋として、1966年に開通したそうです。当時は垂直リフト式で船舶の通過時には、橋桁が持ち上がるシステムになっていました。その後老巧化し、日本の援助で修復されたとのことで、市内の観光名所ともなっています。市民の憩いの場でもあり、遊歩道が整備され川からの心地よい風が優しくなびいてきます。橋のふもとには、小舟が係留され船上レストランになっています。早速ギオはその中の1軒に入り遅い昼食となりました。この船上レストランの名物は川魚料理だそうで、魚フライなど数品を注文して4人(私とギオそれから友人とギオの義弟)で会食が始まりました。川の泥まじりの水で茶色に濁っています。スマトラ南部の平地を悠々と流れる川ですから、日本の急流の川、せせらぎの響く川、清流の川とはイメージが全く異なります。濁流に住む魚って大丈夫かなと心配になって来ます。しかし、この食事が当たったのでしょうか?まもなく緩やかな下痢症状が始まり、3日間ほど現地お勧めの下痢止めを服用しながら食事をする羽目になったのです。

市内を軽く散策して、宿まで送ってもらいました。「明日お昼前には迎えに来ますから」ということで、無事パレンバンの初日は終了しました。

 

EP06ギオの住処Palembang

翌日お昼前にギオが迎えにきました。日本で同じ会社に勤務していたヨギも一緒です。ヨギはパレンバンから車で2時間ほどの距離の街に住み自分で印刷場を始めたそうです。

さて、ギオの住んでいる家は長屋風の建物が並ぶ地域にあります。似たような路地が多くしっかりと通り名を覚えないと一人では間違えそうな場所なのです。建物はかなり古いのですが、3LDKという広さがあります。台所はありますが、自炊した気配は全くありません。ギオは、ここで毎日暮らしているわけではなく、仕事の性質上1か月の半分が仕事で半分は休暇という特殊な勤務です。休みの時は、必要に応じて州都パレンバンに来たり、実家(パレンバンから200キロ)に帰ったり、まとめて旅行に出かけたりの暮らしです。炊飯器や冷蔵庫は所持していますが、調味料や食材はゼロに近い実態です。結局自炊するよりも、外食するか屋台やレストランのお持ち帰りで暮らしいます。義理の弟も同様で、大学に行っている時は学食を利用しているのでしょう。

洗濯は、常に近所のランドリーの利用で済ませています。早速私にも洗濯ものがあれば、出してくださいと申し出がありました。翌日には綺麗に仕上がり香水の香りがついた衣服が仕上がっていました。駐車場は住まいから5分ほどの距離にあり、4台ほどのスペースがあります。ここにも車両誘導係りが時々留守番をしていて、その都度2000ルピア(20円)ほどのチップを支払っています。インドネシアの場合、車の利用は以外な出費が伴います。まずは駐車場ですが、一度入場すると3000ルピアから5000ルピア(30円から50円)、案内係りのチップなどです。日本でも状況次第で駐車料金がかかりますが、スーパーやデパート、コンビニなどでは無料の所が多く、車両誘導係りという職業は存在しません。ガソリンの価格はリッターあたり、140円ほどですから、日本より少し低い金額です。しかし所得の比率から行くと、高価格となってしまいます。車を所有する人々はそれなりに裕福なので、あまり気にしていないようです。裕福な人は貧しい人に施しをしなくてはならないというイスラムの教義も作用しているのでしょう。日本では見かけない案内係が存在するのです。しかしこの案内係りの1日の収入は通常の仕事よりも実入りが大きいのではないでしょうか?難点としては、終日排気ガスに囲まれて仕事をする。悪天候でも仕事する。交通量の多い場所では危険と隣り合わせ。しかし見逃せないのは、彼らは税金を納めなくても良いという利点があります。もらった謝礼は即ポケットにねじ込んでおしまいですから、所得がどれだけあったものか把握することは不可能です。

午後からは、ヨギも一緒にパレンバンで有名な中国寺院クマロに出かけました。雨季が始まっているので時々小雨に見舞われる日々です。ボートを貸し切って島へ観光に出かけることにしました。茶色に濁った川を6キロほど下流に進んだ小島にあります。パレンバンはシンガポールからも近く他の街に比べると中国系住民の数が多いのが特色です。島全体に幾つもの建物が散在しイスラム世界とは空気が完全に異なっています。ここでおよそ1時間船を待ってもらっての見学です。ギオは、ここで私へのお土産として小さなキーホルダーを2つ準備してくれたのです。

EP07吉野家で食事

寺院の見学を終えて夕食の時間になりました。今回は市内の大手ショッピングモールに出かけます。ターゲットは吉野家です。インドネシアは吉野家のチェーン店が拡大中で多くの街のショッピングセンターで見かけることが出来ます。お値段も日本と相違はありません。屋台での一食が100円から200円に比べると所得比からすると高額になりますが、ギオにとっては、左程負担にはならないようで、友人の分や私の分を含めてさっさと支払いを済ませてしまいました。ああ又お世話になってしまいました。所でお味はまずまずで日本で食べるのとは多少の違いはあるものの、見慣れた雰囲気で気軽に入れるファーストフードのお店です。インドネシア風と和風のデザインを混ぜ合わせたオシャレな雰囲気の一言に尽きるインテリアです。一般的にインドネシアやマレーシアでは食事の時には、別途飲み物を注文するのが習慣となっています。日本ではお水やお茶の無料提供があるのが常ですから、ちょっとばかし違和感を覚えます。私も最近はこの習慣になれ、国内でも食事の時はジュースやコーラを共に食事をする場合が増えました。これに慣れると以外な発見があり、ごはんと甘い飲み物の組み合わせが不思議に絶妙な雰囲気に包まれることもしばしばです。

 

EP08有名なイスラム教寺院へBayt Al-Qur'an Palembang

パレンバン市内には数多くのモスクがありますが、それぞれのモスクは由緒があります。そんな中で超有名な回教寺院に案内してもらいました。ここはアラブの国からの支援で建立された建物で一部は博物館として公開されています。大きな建物は勿論イスラム色で充満しています。その中で超見どころは、イスラム教のバイブルなるコーランを記載した大きなパネルです。多くのインドネシアのイスラム教徒はアラビア文字を読むことが出来ますから、彼も指でなぞりながらすらすらと読んでいるではないですか。幼い頃から近郊のモスクへ礼拝に行く彼らですが、そこでは礼拝だけではなく、コーランの読み書きも学んでいます。こうした習慣が蓄積されて読みが可能になっていくのです。解読力があるからと言っても、彼らがアラビア語を話せるとは限りません。私の場合はアラビア文字を利用しているウルドゥ語(パキスタンの言語)はある程度話すことが出来ますが、読む力(表音文字の解読)はまだまだ不足しています。インドで使われているひげ文字(デパーナガリ)は、正しく読めても個々の単語の意味がわからないと会話が成り立ちません。

寺院内に入るには、まずは下足を預けることから始まります。ここは博物館を兼ねていますから、休憩所や土産物店やレストランなども併設されています。

 

https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g608501-d6732444-Reviews-Al_Qur_an_Al_Akbar-Palembang_South_Sumatra_Sumatra.html

EP09トウモロコシの屋台

毎回レストランの食事で、ギオはかなり散財したと思います。このような厚遇を受けて大丈夫なのかと気になります。今宵はアジアン・オリンピック会場近くのラウンド・アバウト付近には屋台が並びます。ここで、休憩することになりました。車を一時停車させて焼トウモロコシのお店に入ることにしました。注文すると即炭火焼を始めてくれます。焼きたてのトウモロコシに現地独特のタレをたっぷり付けて頂きました。その美味しかったこと、今でも忘れません。しかも、このロータリー周辺にはLRTが頻繁に往復する姿を眺めることが出来ます。確か、トウモロコシは一本百円だったかと思います。アジアン・ゲームの会場は市内の南部にあります。ギオの住む家も同じ方向で車だと10分の距離です。雨の降る気配もなく爽やかな夜を過ごすことが出来ました。

聞くところによると、このトウモロコシは近くにある生鮮食料市場から仕入れてくるそうです。市場の規則では、交通渋滞を避けるために産地からの搬送は深夜に限られているそうです。買い付けが始まる時間帯には全て準備が整っていることになります。

さてさて、このアジアン・ゲームの会場は開催に合わせて整備されたそうで、広大な敷地に多くのスポーツ施設が配置されていました。とてもじゃないが、歩いて回るのは不可能です。地元の人々や観光客はポーズをとりながらスマートに写真撮影をしていたのが印象的です。

EP10ギオの友人達

ギオには、高校時代からの同級生など多くの友人がこの町に住んでいます。その中の一人はインドネシアの代表的な企業プルタミナに勤務しています。インドネシア国内では、どこに出かけてもこの会社が目に入ります。国営企業で好待遇の会社で、給与も高く、福利厚生施設も充実、医療保障も手厚く保護され老後は年金も手に入ります。皆がうらやましがる国有会社の一つです。パレンバンから100キロほど離れた所にも、その会社があります。広大な敷地に従業員宿舎が並び、レクリエーション施設も目に入ります。

しかし、ここへ入社するには、それ相応の学力とコネが必要とされています。ギオと同年代の青年は単身赴任でパレンバン市内の建売住宅に住んでいます。まだ出来て間もないようで、最新の設備を誇った一軒家です。勿論敷地内に入るには検問所があり、ガードマンが終日張り付いて不審者の侵入を防いでいます。彼の家で夕食をご馳走になってギオの住処に帰りました。

もう一人紹介されたのは、彼も高校時代の友人だそうで、学校の教師をしている傍ら著作業をしている人物です。多方面に知識を持ち合わせているようで、日本の事情をしきりに質問していました。「広島、長崎は今どうなっていますか?」数多くの書物を読んでいるのでしょう。彼のような人物には最近なかなか出会うことはありません。若い人々と話をしても、話題に上がるのは時事的な事柄や、アニメ、ファッション、トレンド、食べ物。経済状況などに限られています。若い人々は歴史などには殆ど興味がないのは世界共通かもしれません。彼は著作業だけあって、ものすごく落ち着いた風情を醸し出しています。彼らインドネシア人にとって英語が出来ることは、一つのステータスシンボルになっているようで、こうした場面に時々遭遇することがありました。インドネシアは元オランダの植民地でしたから、英国の植民地で英語が広範囲に通じるインドやマレーシア、香港などとは、事情が違います。オランダわがインドネシアの統治が始まったのが1604年とされていますから、江戸時代が始まったころと重なります。当初は植民地といえども、特定の場所(主として港湾都市)を把握していたにしか過ぎません。また住民の数も極めて少なく、現在のような交通機関の整備もなかったことでしょう。特定の港湾地域を除けば、庶民にとっては、植民地という意味は持たなかったと推測されます。人と人の往来が一定の水準に達した段階になれば、コミュニケーションが必要となり、共通となる言語が必要になってきます。それは、オランダが統治を始めてから更に数百年を要した事でしょう。また地理的に考えると、インドの場合は以前からそれぞれの地域で王国が発達し社会が熟成していました。社会が複雑になるほど、文書の必要性が生じてきます。最近は手書きの文書が次第に姿を消してきましたが、その反面デジタル化したデータの蓄積は膨大に残り続けています。インドネシアの歴史を考えてみると、広範にイスラム教が浸透し、多くの部族や言語が混合された社会です。オランダがインドネシア全体を把握するには至らなかったのでしょう。そうした背景があり、宗主国であるオランダ語が広まらなかったのでしょう。そして、近代社会に突入するとオランダ語は汎用性が少ないことから英語が重要な言語に置き換わりました。インドネシアでは、小学校4年生から英語を学び始めます。高校生になると第三外国語の習得は選択制になり、日本語もその中に含まれています。ギオの自慢は、「私の友達は英語を話せるんだよね」という結論でした。

EP11ヨギの印刷所訪問Prambulih

パレンバンから車で2時間ほど東に向かうと日本で同じ会社に勤務していたヨギの住んでいる町があります。今日は、この町を経由してギオの仕事場近くの叔父さんの家まで行く予定です。ヨギはギオに比べると身長は同じですが、体重が多いのでがっしりした体格です。それで、以外と童顔を持ち合わせているのです。昨日は用件があって一足先にギオの家を出発していますから、多分自宅にいるはずです。日本から離れてすぐに結婚し、印刷業を始めています。日本で働いた収入で大型のプリンターを購入し自営しています。取り扱うのは、各商品のステッカーや街角に大きくたなびくビニール製のバンナーの作成などが主要な業務です。従業員を4人抱え商売は順調に回っているようです。従業員の一人がパソコンでデザイン作成をしていました。彼らにとっては、毎月の手取りが思ったよりも低くても、無事3年間勤務を終えるとご褒美が出ます。というのは、厚生年金脱退一時金等制度が彼らに希望を与えているのです。その金額は50万から80万円程度となり、帰国後の彼らにとっては朗報です。ヨギはこうして印刷機を購入し起業しました。ギオは母親をメッカ巡礼の旅の資金として活用したことを聞いています。

 

EP12道道道

スマトラ島南部は北部と違い急峻な山岳地帯も少なく、大河がゆっくりと流れる平原地帯となだらかな丘陵地帯の連続です。昔は水運の利用もあったそうで、ギオのお父さんの時代は船を利用して州都のパレンバンに出かけたそうです。今は車社会と化しどんな田舎道でも舗装され延々と続いています。パレンバンの市内を流れるムシ川は蛇行の連続です。水運の発達は当然の事ながら、交易地が展開され村から町へと発展していきます。その名残なのでしょう。パレンバンから200キロ以上離れた町へもほぼ川沿いに村々を道路で結ばれています。所々ゴムのプランテーションがあったり、油椰子の林があったりします。集落と集落の距離は10キロいや20キロ離れているケースもありました。大きな町の近くには、必ずバイパスが整備され、市内の混雑を避けるシステムに発展しています。

ごく一部ですが、高速道路が開通し、ギオは、時々利用してくれます。この辺りの高速道路はまだまだ閑散としています。対向車に出会うことは殆どなく何の理由で作ったのか良くわかりません。一つには、料金が結構高いことと、従来の道路がそれほど混雑していないからでしょう。高速道路の通行料はちょっと走ってもすぐ200円、300円の料金が課されます。快適なのは、快適であっと言う間に目的地に着くという利点はありますが、そこまでして急ぐ理由がないのかもしれません。

 

EP13叔父さんの家も大家族Muara Enim

こうして、夕方には叔父さんの家に到着しました。近くにはインドネシア国鉄の駅もありますが、この路線は乗客用が一日2往復ですが、貨物専用列車がひんぱんに通過しています。自宅は二階建てで玄関には車が二台置けるように大きな駐車場もついています。この地域の人々は多くが近くにある炭鉱で仕事をしています。炭鉱といっても露天掘りですから、地下豪に入って掘り出す日本の炭鉱とは大きな違いがあります。ここでも親戚が多く暮らしています。

叔父さんの家は、お母さんもまだ健在で同居しています。中学生と小学生の男の子が三人元気良くはしゃいでいます。始めて出会う日本人にどきどきした表情を見せていました。こうして一般家庭に入り込むと、それぞれの家庭の事情が分かります。また共通した部分も発見できます。今まで訪問した家庭は、多くがイスラム教徒ですから、小さい頃から正装をして、父親と一緒にお祈りに出かける習慣があります。始めは父と一緒に行き、作法を学びますが、その後は、単独でも行くことがあります。いわゆる心の拠り所として重要な意味を持っています。インドネシアの風潮を観察していると、厳しい父親と優しい母親の組み合わせが、そういった形式で映画やドラマが構成されています。それはインドネシア音楽にも現れ、母親の優しさを題材にした曲がヒットしています。ちょっとばかし、日本に似た雰囲気があります。

夕方になって、バイクで市内を回る事になりました。車で出かけるほどの距離ではありません。後ろに座る私もヘルメットを冠りいざ出発です。暖かい土地は夜になっても賑わいが消えません。日本では不夜城と化す大都会を除いて8時を過ぎると暗くなってしまいます。それに比べると南国では、10時ごろまで賑わっています。ギオは以前この町のホテルで仕事をしていたそうです。常に穏やかな表情を持ち、優しい心を持ち合わせているので、打って付けの仕事だったかと思います。どの様な経緯があって日本で仕事をすることになったものか疑問が残ります。

 

EP14石炭採掘場と博物館Museum Batubara Bukit Asam

クアラエニムの街から一時間ほど車を走らせると露天掘りの炭鉱がありました。いやはや、だだっ広いのに驚きます。これなら、石炭運搬専用貨物路線の役割が重要になって来ます。膨大な従業員を抱えているのでしょうか、屋根も何にもない駐車場には何百台ものバイクが停まっています。遅刻すると現場に向かう時は歩く時間が長くなるのも当然です。勿論警備も厳重で出入りには検問所を通過しなくてはなりません。現場の従業員の仕事内容は、トラックや重機の運転や操作が主体と見受けます。現在掘り出している場所が枯渇すると、移動して新しい場所を開拓するそうです。始めて見る露天の炭鉱には驚愕してしまいました。

続いて炭鉱から一番近い町にある博物館を訪問しました。最新のデジタル機器を採用してモダンな展示が催されていました。特に印象に残ったのは、運搬用のミニトロッコに乗って構内見学です。これらは、全てイミテーションで本物ではありませんが、それなりに臨場感を伴う仕組みが随所になされています。10分ほどの乗車で一周が終わりますが、童心に帰った気分になりました。

 

EP15息子がバスケトーナメントで遠征

今日の朝は久々にゆっくりしようと思ったのですが、9時に叔父さんの息子の送別会があるという事で定時の7時過ぎに起床です。息子はバスケットボールをしています。今日から二泊の予定でパレンバンに試合があるそうで、家族全員で送り出すことになりました。朝8時過ぎになると、この町の運動公園に続々と子供連れの親子が集まってきました。日本で言えばママ友集団に近い存在です。10人ほどの生徒達はここでお別れです。確か中学三年生だったかと思います。小柄な体格で初めての遠征で親御さんも心配です。今回の遠征は有志が準備した自家用車3台に分乗しての出発です。皆思い思いに記念撮影をして見送っていました。そんな微笑ましい光景が心に残ります。叔父さんの家に3泊お世話になり、食事の心配も全くありません。息子さんが出発間際のどさくさに紛れ込んで心付けを渡すことが出来ました。所で、こうした心付けの習慣が拡大すると、賄賂に進展していくのかもしれませんね。黙って隠して渡すという行動は、日本でも状況によってありうる話です。お寺関係のお布施も、黙って分からないように渡します。ミャンマーの僧侶も日常生活は様々なお布施から成り立っています。その証として、どんな小さな村に行っても金色に輝くストゥーパを見かけるのは、こうした寄付から成り立つのでしょう。日本の寺院の寄付の場合は、誰それがどれだけ寄付したのか金額を示して講堂内に大きく張り出している光景を見かけます。神社の石柱には、金〇万円と刻みこまれています。いずれにしても、闇から闇への資金移動です。結果が性善説で収まれば評価されるのでしょうが、これが悪用されると賄賂という響きの悪い言葉に置き換わっています。状況しだいで、社会の潤滑剤としての役割を担う場合もありますから、単純に善悪の判断するのは危ぶまれます。

 

EP16村の光景Gunung Menang

更に車を走らせてギオの実家に到着したのは午後になりました。事前に連絡が届いていたのでしょう。家族一同が待ち構えていました。早速お茶や飲み物、果物をご馳走になり両親と再会です。ギオは日本にいる時から家族に私の事を色々と話をしていたのでしょう。瞬時にして、昔からの親戚ムードになりました。たとえ疑似家族であろうとも、こうして異国で家族同様のおもてなしを受けるのは嬉しい事です。その事は、ギオが日本で私の家を訪問した時も同様な気分を味わったのでしょう。お父さんは私と同じ年齢ですが、足腰が弱ってきたようで、遠出をすることもなく、近所の散策程度の日々を送っています。多分に私もいつかは、ギオのお父さんと同じように身動きに不自由を感じる時が来るのでしょう。

間口は狭いのですが、奥行きの深い建物です。早速彼の部屋が私の部屋になりました。壁には日本での思い出の写真が飾られています。彼としては、貴重な体験でした。特に私との出会いが重なって深い思い出を多く残すことが出来たのが嬉しかったのでしょう。本当に人と人との出会いは不思議なものがあります。

お父さんは玄関横の明るい部屋に住んでいます。建物自体は平屋で間口は狭いけど奥行きの深い構造になっています。田舎の村ですから、日中でも交通量が少なく閑散としています。大型のトラックが走行することもなく、騒音公害ゼロの村です。ギオの家の向かい側には茶店があり、お年寄りの溜まり場の役割を果たしています。私の事は周囲の人々に知れ渡っているので、皆笑顔で迎えてくれるのです。20分ほど歩けば村が一周できる広さです。村には幾つかの小さなお店や食堂などが点在しています。勿論モスク(回教寺院)も整備されています。のんびりとした日々を過ごすには最高の場所かもしれません。

勿論小学校もあります。テコンドウの練習風景が散歩中に目に入りました。小中学生の子供達が男女を問わず20名ほど練習に励んでいました。地域のスポーツ振興策の一つなのでしょう。日本では、こうした光景は見かける事が少なくなりました。その多くは室内で行われているからでしょう。一時は日本でも柔道教室や剣道などが流行したことがありましたが、今はスケボーなど新しいスポーツが広まり古典的な柔道などは人気がありません。柔道やテコンドウの場合は道具が不要ですから、最新のスポーツに比べると費用が多くかからないという理由もあるのでしょう。

もう一人の叔父さんは、自動車修理を営む傍ら、生ゴム樹脂の精製にも手を出しています。家内工業の一つでしょう。収集されたゴム樹脂が自宅近くにある池に浮かんでいます。ゴムの木からとれるラテックスの精製工程の一部なのでしょう。数日間水に漬けて不純物を除去するそうです。こうして数日後、バイクの後に積まれて工場に運ばれて行きます。この精製池は近寄ると、プーンとゴム独特の匂いが立ち込めています。しかし10分ほどすると鼻が慣れてしまうのでしょう。

散歩中にみかけたのがリサイクル工場です。工場と言ってもあくまでも、村での事業ですから、建物があり、その中に最新の設備を伴ったものではありません。広い敷地内にプラスチックのボトルが沢山積み上げられていますから、外からでも良く分かります。通りがかりに、声をかけたら施設内を案内してくれました。機械らしきものが一点、かなり年季の入ったモーターがうなりを立ててプラスチックを粉砕しています。粉砕したプラスチック断片は乾燥という工程を得て袋詰めにし、本格的な工場へと運ばれていくのです。日本製の粉砕機が欲しいけど、「値段が張るからちょっと無理ですね」とオーナーが話していました。今使っている機械はシンガポールから取り寄せた商品だそうで、3人の従業員を抱えての事業です。産業の発達は家内工業が出発地点なのですね。その中で事業を大きく伸ばしていくケースもあるでしょう。叔父さんのゴム精製の事業もしかりです。資本力の不足でも、それなりに地域の実情にあった形態で産業が展開されるものです。

ギオの村には大きなスーパーがありません。20キロほど離れた場所に比較的大きな町があり、特定の曜日に開催される市場があります。周囲の村人はそこで買い物に行のですが、ほぼ全員バイクで市場に向かいます。道中すれ違うバイクは荷物満載で自宅に帰っていきます。今日は市場の開催日ですから、様子を見に行くことになりました。バイクで15分ほどの距離ですからそんなに遠くはありません。ギオはまずは、ATMに入り資金の調達です。市場は典型的なインドネシアスタイルで、様々な商品が並んでいます。野菜市場、魚市場、肉市場、衣料品、雑貨品などカテゴリー別に分かれています。南国特有のカラフルな市場です。

EP17親戚訪問

今日は叔父さんの家を訪問です。この叔父さんの家には老夫婦しか住んでいません。膝を痛めた奥さんは殆ど横になったきりで、家の中をはいつくばっての移動を余儀なくされています。しかし、以外と明るい表情で暮らしています。子供達が9人いますが、実家を離れてジャカルタや遠方で暮らしています。唯一の楽しみは、家族一同が年に一度集うことなのです。建物は100年以上も経過している伝統的な建築です。昔は一階が家畜小屋だったのでしょう。今もがらんとしています。高床式の建物ですから、一階ですが1メートル程度の高さしかありません。周囲には親戚が多く住んでいますから、困ることはありません。昔からの相互扶助が機能し、家族同士の繋がりが深い農村、宗教からの影響などがあり、日本のような深刻な問題は抱えていません。翌日はパーティをするのでお集まりくださいと招待を受けました。

早速お昼ご飯をめがけて叔父さん宅に到着です。続々と親戚や友人達、近所の人々が集まって賑やかな会食が始まりました。バナナの葉を部屋の隅から隅まで敷き詰めた食卓が準備され、海の幸、里の幸をふんだんに使った料理が並んでいきます。勿論デザートや果物も準備され、豪華なランチタイムになったのです。食後は当然の事ながら、グループ写真の撮影です。ギオがどこから準備したものか、日本の和服を私用に準備していました。異国で和装に身を包むのは初めての体験です。周囲の雰囲気とのチグハグ感に戸惑いながらも、無事撮影が終わりました。

義理の妹は、まだ高校生ですが、日本に行きたいから勉強しているとの事です。インドネシア人にとって日本語は意外と簡単なのです。漢字やひらがな、カタカナがあり書くのは大変ですが、会話となれば、日本語もインドネシア語も声調もありません。簡単な会話は極めて速く上達可能なのです。それが。慣れてくると戸惑う場合があります。いわゆる日本語の助動詞の使い分けを意識し始めるステージになると、混乱してくるようです。これは我々がインドネシア語を学ぶ際にも、似たような事態に陥ります。インドネシア語は単語を基本に、動詞として働く場合と名詞として働く場合とで一定のパターンがあり接頭語や接尾語を加える状況が発生します。初期の会話では、こうした事は意識せずに進みますが、慣れてくると混乱するものです。今日も一日楽しい日を過ごすことが出来ました。

 

EP18村から一気にパレンバンのバス乗り場に高速道路経由で直行                  

今日がパレンバン最後の日なのです。パレンバンからのバスは朝9時に出発予定ですから、朝早く起床しなければなりません。ということで4時起床、4時半出発となりました。約束通り起きるとギオは既にお祈りを終えたばかりです。早速朝食を取りスタートです。周囲がまだ暗い中を車は疾走します。途中でガソリンを補給し、曲がりくねった細い田舎道を進んでいきました。ギオの運転は相当なもので、途中から高速道路に入り、予定よりも30分以上早く到着しそうです。しかしパレンバン市内に入ったのは朝7時頃ですから、渋滞の始まる時刻です。ギオは途中で、もう一人の叔父さんに村からの届け物を持参して立ち寄りました。実はこの叔父さんは元大学の教授をしていたそうで、立派な邸宅に住んでいます。今は引退し老夫婦二人で広い屋敷で暮らしているそうです。

そして、もう一か所立ち寄る場所がありました。それは、ギオが日本に実習生として出かける前に受けた研修施設です。日本語学校を兼ねています。丁度授業が始まろうとする時刻が近かったのか、続々と学生達がやってきました。ここで私を交えて記念撮影です。学生達ははきはきとした日本語で挨拶をしてくれました。昨今の日本の若者世代は夢と希望という言葉を持ち合わせていないのに比べると、彼らの目は活き活きとしています。同じ建物内にある簡易食堂のおばさんは、即朝飯をおごってくれました。ギオがここで学んだのは5年ほど前なのですが、彼の人柄によるのでしょう。誰もがギオの事を忘れることがありません。私もその一人なのでしょう。

こうして、バスターミナルに到着したのは815分ごろでした。余裕たっぷりの到着です。150キロの走行お疲れ様でした。ブキッテンギへのバスは帰路も同じ会社を利用しました。所要時間は行きとほぼ同じで24時間となりました。

 

EP19色々と有難う

長い間、色々とお世話になりました。本当に楽しい時間を過ごすことが出来たのは、ギオのお蔭です。休みが2週間と続いている間、ずっと一緒に案内したのですから。私が気になっていたことは、あなたが日本を離れる数日前に、私の家へ立ち寄ったんだよね。その時は、私は家にいなかった。後でギオは写真を送ってくれたね。家の前が雪でいっぱいなので除雪してくれたんだ。1月に富山市内を一緒に歩いたのが最後だったね。その後2月の連休の時にヨギと一緒に訪問したのが分かって私は申し訳ない気持ちで一杯になったよ。1月の休みの時に、二月に私は不在という事をはっきり言わなかったので、行き違いがあったのだと思う。雪が沢山降る中を最後の挨拶に来てくれたと思うと胸が一杯になってしまうんだよね。その時から、コロナが終息したら、真っ先にギオの家を訪問しようと心に決めていたんだよ。でも今回あうことが出来てとても、うれしかったよ。ギオの家族にも会う事ができたし、私は本当に幸せな日々だった。人生は楽しいことだけではなく、時々悲しいこと、辛いこともある。これからも、時々連絡を取って暮らそうね。だって私達は家族の一員なんだから。

 

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