2016年11月2日水曜日

湿潤・軟弱



湿潤・軟弱

パキスタンから直接スリランカに入ると、文化の異質さがをはっきり感じることが出来ます。パキスタンの男系社会の親切さに慣れると、結構快適なる国で、何となく純粋な気分になります。酒は飲めない、女性は街をウロウロしない等と制約が多く日常生活は回教の規則に律されていますが、これがスリランカにくると、
「ああ、乱れている。だらしない」という印象になります。パキスタン的観点で見ると
乗物の臨席におばちゃん・姉ちゃんがでっかいお尻で割り込んでくる。
新聞にお酒の宣伝が満載。
女性が一人で街に出かける。
等と彼らにとっては、恐怖とも思える信じ難いことが沢山あるのです。

 
こうなると、善し悪しの判断はできません。どちらが進んでいるのか、遅れているのかと感がるのも次元がことなり、禁物のように思います。西洋的尺度で見ると、スリランカははるかに近代的と言えますが、それを善と決めることはできますまい。パキスタンが回教共和国と名称を変えイスラム法にのっとった政策に変更したことは、時代の逆行だと言えるのでしょうか?彼らには彼らの道があるようです。
ここスリランカでは、自動車会社のプラント工場(組み立て)が稼働を始めました。スリランカの財閥ウパリとイタリアのフィアットでできたウパリ・フィアット社という合弁会社です。何となく似たような国同志の合併で大丈夫なのかなぁ。
湿気の多い国だなぁと感じています。パキスタンのカラチで風邪気味が2週間続いていたのですが、ここに来たら2日で治りました。インドの雨季ほどの不快さはありません。しかし、パキスタンは日中の寒暖差は大きく、ここスリランカでは、今文章を書いているペラペラの航空便箋は適当な湿気を吸い込み書きやすいく、紙の中央を手にするとしなってくるのです。しかしパキスタンではカラカラ天気で、こんな薄い用紙すらもパリパリしちゃいます。お蔭様で、私の肌に潤いが出てみずみずしくなってきました。

古都カンディ

カンディには沢山の私塾があります。ムナシンハ家の次男は今ホテル・スクール(ホテル業務を勉強する専門学校)に通学中です。一週間に一度朝8時から午後3時半の間に三科目(House Keeping, Food and Beverage, Reception=清掃、レストラン、受付)を学ぶそうです。これは半年(延べ25日)のコースで設定され、授業料は1200ルピーです。この講座は金曜日組、土曜日組そして日曜日組の三シフト制で毎回200人の受講生を抱えるという大人気のコースです。114日に国家試験があるそうです。周辺諸国(パキスタンやインド)からも、受講の希望があるそうですが、現在断っているそうです。
当家の娘は、製図を学んでいるようです。他に彼女は料理学校も終了し、お菓子づくりの学校にも通っているのです。最も多いのが日本同様に見かける受験用の学習塾です。
カンディ湖畔にアメリカ人経営の、少々洒落た感じのカフェが閉店しました。他に貸自転車、クリーニング業、土産物なども扱っていたのですが・・・。

シンハリ人とタミール人の対立

今年夏の暴動の話を聞くと、今回の事件はまだ小規模なもので1971年の時は市民戦争にまで発展し、23カ月の長期にわたって外出禁止令が敷かれたそうです。今回は数週間外出禁止となっただけで、比較的穏やかだったといいます。しかし、シンハラ系の人々は現在の大統領が徹底抗戦・ゲリラ一掃をしなかったのに対して不満を抱えているそうです。
多くの街が焼き討ちにあって被害を受けました。タミル系の住民二割近くがインドへ引き上げたとも言われています。今でもまだくすぶり続けています。その影響でヒッカドワ等の観光地は客の入りが極めて少ないそうで、幾つも店を閉めています。まあこれで折角上昇気味の国民生活や工業、商業等は再び振り出しに戻ることになるようです。
1982年のスリランカの外貨獲得の順位は次の通りです。
1.紅茶輸出       6.3億ルピー
2.海外よりの送金 5.5億ルピー
3.既製服輸出     3.5億ルピー
4.石油関連製品輸出 3.3億ルピー
5.観光収入      3.1億ルピー
6.ゴム          2.3億ルピー
7.ココナツ      1.5億ルピー
8.宝石          0.7億ルピー
一ドルは25ルピー 1ルピーは10円(当時)の計算です。
観光客の推移
1982年(112月) 407,000
1983年(16月) 227,592
1983年(112月) 337,500人(推定)
1984        410,000人を期待
198312月は30,000人で198212月は40,500人となっています。しかし実際はこれよりはるかに少ないように感じます。というのは、滞在日数の多少にも左右され、長期滞在が増えれば観光客の数も目に入りやすくなります。地元の多くは昨年の半分にしか満たないと言っています。延べ滞在日数を掛け算すると、実際に街角で目にする外人の数値はうんと下がるでしょう。
ぺラヘラ(Perahera)祭りの時は外人客がわずか2000人程だったと言われています。さて、今回のぺラヘラ祭は経済不安、暴動などスリランカ前代未聞の状況のなか、銃を構えた兵士が固く警護する中で開催されたそうです。

0 件のコメント:

コメントを投稿