2017年2月26日日曜日

8.1第二次世界大戦


この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです


8.日本との関係

8.1第二次世界大戦

マンダレーからパガンへの船
戦時中の日本人兵士は諸外国へ足を踏み入れる前に文化の相違については全く知る事なく放り出されたのが現実でした。多くの兵士にとっては始めての国外の体験です。自国の文化にたっぷりと浸った人々が大量に派遣されたのは事実です。すなわち他国の文化を知る事なく踏み入ってきた日本人の集団はさぞかしビルマにとっては迷惑だったかも知れません。
当時の様子は私にとっては詳しく解りませんが、確か日本軍はインドのインパールへ向けてトの進行作戦を打ち立て、それは余りの無謀さで有名になりました。当時のミャンマーの指導者でもあるアウンサン氏との約束であったビルマの独立を保証する事すら実行せずに単に占領の形を継続したようです。同様な事はインドネシアのスマトラ島の北先端部に位置するアチェ王国の関係にも似ていました。アチエ王国は当初は日本軍に対して好意的でしたが最終的には反日感情が高まり日本軍は終戦を迎える前に撤退を余儀なくされたという記述があります。

さてビルマは戦後の賠償を日本から殆ど受け取ろうとしませんでした。日本は韓国や中国そしてインドネシア等へは巨額の賠償を支払った筈です。勿論このビルマに於いての日本軍の侵攻は時間的に極めて短いものであったと思います。1942年から僅か数年間統治にした過ぎません。それに比べると韓国や中国に対しては長期間に及ぶ占領期がありました。勿論これは占有期間が短かったから補償は少なくて良い等と言う意味は全くありません。他人の畑へ無断で足を踏み入れた事に変わりはない筈です。ビルマ人の感覚からするとそれは、戦争だったから仕方がないという表現で終わってしまうようです。ここに仏教国としての寛大さが現れているのではないでしょうか? 同様にアジアの仏教国であったスリランカも直接の利害関係は持たなかったのですが、サンフランシスコ講和条約の会議の席で元大統領のジヤヤワルデネ氏が率先して日本の立場を理解した発言をした事で有名です。

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