2017年2月23日木曜日

7.2近代史への流れ(列国の植民地化)



この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです



7.2近代史への流れ(列国の植民地化)

インレー湖の運河
昔からの仏教の浸透に依ってこの国の特異性が保たれているのではないかと思います。中世に於いてビルマはパガンの遺跡が示すように強大な王国を形成していたようです。歴史の中で数度も隣りのタイ国と戦争をし何度も勝利を治めています。ミャンマーは1824年、1852年、そして1883年の3度に渡り英国と戦いました。英国がヤンゴンに進出したのは1855年とされています。この国が第二次世界大戦後に独立したのは1947年ですから実質英国領インドの支配下にあったのは僅か、100年にも満たない期間です。英国の植民地化はインドより約100年間程遅れて始まった事となります。この事はカルカッタやボンベイのような巨大なシステムを構築するにはあまりにも時間が短かったように思います。また人口や国の規模からすればインドの10分の1以下のサイズです。
この国の土地の豊かさは充分に英国も未知していた事でしょう。地下資源や水資源に恵まれ、また森林資源にも恵まれ、まさしく黄金の国を発見したのではないでしょうか?過去3回のビルマ戦争を通じてようやく英国はこの他を支配する事となりました。まもなくスエズ運河が開通し本国との行き来は一層容易となり、フランスがインドシナ半島を手中に収める等列強の進出が盛んとなった時代です。インドネシアはオランダによって支配され、マレー半島は英国の支配下に置かれアジア地区は外交手腕にたけたタイランドを除いてヨーロッパ列強国の手中に落ちました。

しかしミヤンマー民衆との開きがあまりにも大きく、インド人の手を借りる事でようやく統治にこぎつけたと言う側面もあるようです。すなわち仏教文化とキリスト教文化の差違も大きかったのではないでしょうか? 当時の英国の政策は多くの行政部門の実務はインド人に任せ、本人達は単なる監督の立場として君臨していたようです。カラオやメイミヨ等の元イギリスの所轄した都市()の規模や作りはインドのそれに比べて遥かに小さく映ります。タイと同様に非常に不可解な民族だったに違いありません。
インドの場合でも英国は全く異質の文化に遭遇したわけですが、この園に残るカースト制度の利点をフルに活用する事でインドの統治を容易にしたものと思われます。 新大陸の発見とかで英国から移民した人々の集団はアメリカの独立までの間は、言うなれば英国の植民地同様な状況におかれました。
独立したアメリカに対しては、自由平等を保証し、インドに於いては自由平等の思想を全く無視し逆に差別的な行政を助長した事実がしっかりと残っているのではないでしょうか? どうも支配者階級の御都合主義を感じてなりません。勿論同じ人種に属していますから、あまり強硬な政策は取れません。
ビルマという国を考えて見ると国民は常に誰が統治していても仏教があればそれで満足し得たのかも知れません。当時英国の支配下にあったとしてもそれは全く点を統治したのにしか過ぎません。広大などルマ全体を面として捕らえて統治出来る筈がありません。インドに於いてもあくまでも拠点を押さえたにしか過ぎず、インド全体を面として統治する迄にはかなりの長い時間が必要だったのではないでしょうか?
英国はビルマで大量に生産される米の利権をめぐってかなり暗躍した気配があります。まだまだ勉強不足なのですが、歴史の本をひも解いて見るとビルマは世界中へ米を輸出する事で当時の国際社会での地位を築きあげたようです。植民地政策は本国の利益のみを追求するのが常です。米以外の商品の生産や輸出への道は全く考えること無く支配を続けました。単一商品のみの輸出では現在の国家は成り立ちません。英国にとっては自分の領土の一部でしか過ぎません。そこに住む人々の為の政策を実行した列強国途いうのは聞いた事がないのが歴史の常でもありましょう。ここに現在の経済の行き詰まりの一因が残っているかとも思えます。
さて30年前にはタイの外交官がヤンゴンへ買物に足を運んだそうです。それほどに経済の較差があったのですが現在は逆転してしまいました。当時はビルマには物資が豊富にあったようです。 考えてみるとタイはやはりベトナムの特需により急激に米国の影響をうけ経済的に拡大し続ける事ができたのではないでしょうか?

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