この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです
6.4インドの数回にわたる文化侵攻
パガンの仏教遺跡 |
仏陀はネパールのルンビニに生まれ、インドのブッダガヤで悟りを開き次第にそれが近隣諸国に広まって言うたといわれています。東は日本、北はモンゴル、南はスリランカにまで広まりました。西を見るとパキスタンのガンダーラやアフガニスタンの中央部にまで一時広まったのは事実です。何世紀もかけてそこには文化の交流が為されていたのです。
パガンの遺跡を眺めていると何処となくインドの遺跡に共通した空気を感じる事があります。寺院建築のデザインも何処とはなくインドのそれと似通っています。幾つかはインドの寺院建築を模倣したものもあるようです。この影響はミャンマーだけではなくカンボジアのクメール文化もインドの影響を受けています。8世紀から12世紀といえばインドの王国は遥かインドネシア方面にまで足を延ばし、スマトラのスリヴィジヤヤ王国や中部ジャワのマジャバヒト王国等を作り上げお互いに影響し合った場所ともいえましょう。ミャンマー語の文字は南インドのパッラパン王国の文字の影響を受けているといわれます。そういえば私の知る限t)でもタミル語と幾つかはその表記法が一致する文字もあり
ます。今から数百年も前に季節風を利用しインド洋を渡って数々の文化の交流があった事を思うと不思議な感じをうけます。一般的に我々は歴史の一駒してシルクロードなる東西の文化交流のことにのみ捕らわれがちでその他の文明の交流については以外と知られていないのが実状です。環インド洋の文化の伝播にも注目してもよいのではないでしょうか?
英国がインドを利用しての植民地化政策でミャンマーは又新しく大きくインド文化の影響を受ける事となりました。近代国家としての体制は英国のシステムをインド人の手によってここミャンマーに持ち込まれました。この事は数多くの移民を伴う一種の民族大移動にも似た形跡もあったのではないでしょうか?これだと影響を受けない筈はありません。このようにして文化の伝達は時には時間をかけて時には急速に進むものではないでしょうか?ミャンマーが近年になって半鎖国政策を取り続けているのが問題という意見もありますが、歴史の大局にたつならば現在の政府の政策は僅か致年間もしくは数十年の事にしか過ぎません。過去に振り返って眺めると何処の国に於いても永遠に鎖国状態を続ける国家は存在しません。国際関係を見るにあたり現状の分析も大切でしょうが、ここに歴史観を加える事に依って一層の深みを知る事が出来るのではないでしょうか?
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