2017年2月24日金曜日

7.3イギリスの統治と政策



この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです



7.3イギリスの統治と政策

カラオに残る植民地時代の建物
英国がミャンマーを支配したのは1855年という革になっています。この事は英国のインドへの進出や香港-の支配等に比べると10 年間程遅れて居るのです。従ってその影響はインドにおける支配よりも少
ないように見受けます。其の中で大きな位置を占めたのがヤンゴンではないでしょうか?市内には数多くの旧植民地時代の建物が残っています。しかしこの規模はインドのカルカッタやボンベイそしてマドラスのような規模までは発展しなかったようです。勿論当初は僅かに点として主要なる都市を押さえた事から始まると思います。英国の植民地化はミャンマーの土地と水(イラワヂ川)を押さえたのでしょうが、
人々の心までは統治する事ができなかったようです。
現在も仏教が根強く信仰されています。古来から続いたこの文化を捨て切る事は出来る訳がありません。一つには統治した期間が約100年間程しかなかったという事もあります。また農村部に散在する敬虚なる仏教徒にとっては植民地化されたといっても生活が変るわけではありません。農村部の隅々まで英国の統治が及ぶ事が不可能です。最終目的として英国はこの国からの経済的利益を生み出す事が出

来ればそれでよかったのかも知れません。
ここミャンマーでも英国は避暑地として高原地帯に通称ヒルステーションなる基地を幾つか設定しました.マンダレーより北に位置するメイミョウもその.一つです。またインレーとタージの中間にあるカラオもその一つです。この二つの避暑地をインド各地に点在する高原都市、すなわちダージリンやシムラ、南インドのウーティ等と比べるとその規模は極めて小さく映ります。人口の規模もインドに比べて小さかったでしょう。ミャンマー全体を考えるとその国の大きさ及び人口の規模はインドの一つの州に該当する程度とも言えます。
またこの国では石材建築を見かける事が殆どありません。たいていは木造の住居が一般的です。かろうじてヤンゴンのみが英国風の天井の高い石造建築を幾つか残しているのにしか過ぎません。当時の英国にとってはこの国も不思議な魔法の国だったかも知れません。
大英帝国の知恵は、インドに於いての古来からのカースト制度を廃止する事なく、それを促進する事に依って統治をより一層強固なものとする事ができました。所がミャンマーにはそのような制度はありません。あまりにも従順な人々にさぞかし驚いたのではないでしょうか? 従って多くのインド系の移民を伴って統治に一役買ったという事がうなづけます。この事は英国がスリランカを植民地化した時やマレーシアを支配下に収めた時も同様に数多くの移民を伴って支配の道を歩んだ事と共通しています。遠くはケニヤに鉄道を敷設したのもポンペイからモンパサへ船で渡ったインド人と言われています。英国にとって、あまりにもそのカルチャーショックが大きくてコントロールする事が難しかったのかも知れません。
ミャンマーの場合は支配されていた期間が短かったのも要因の一つではないでしょうか? 外来語としての英語の定着は大変少ないように感じます。例えばインドに於いてはポリス、ホスピタル、レール、ステーション等インド的な発音で完全に外来語として定着しています。またスリランカでも外来語として英語が数多く取り入れています。この事は我々が現地語を学ぶ際に単語力を増やすのに大きな助けとなっています。しかし外国との接触の少なかったタイやビルマの言葉は語源が現地語から構成されていますから多くは新語ばかりで面倒な言葉です。例えばインドネシア語はオランダ語とサンスクリット(インド語に関連)等が国語として混ざり合っていますから比較的容易にその詩集を増やす事が出来ました。どうも仏教国はその国の文化を揺るぎないものとして庶民の心を支えてきたのではないでしょうか?
それでもミャンマーは英国の影響を受けて独立後、近代国家として英国の行政方式や制度を導入してきたようです。一説には当時の英国政府はミャンマー人には高等教育の機会を与えなかったともいわれています。ミャンマー同様に当時鎖国政策をとっていたネパールの場合は英国の影響を数多く受けています。それはインドを経由しての文化の移入があります。
また世界各地に傭兵として散らばったグルカ兵が外部から新しい文化や思想を持ち帰った影響も大きいのではないでしょうか?1940年代に発したラナ家の専制の終結に端を発した民主主義の要求は英国で教育を受けた元グルカ兵達といわれています。ネパール国民会議派の結成は元グルカ兵から始まったとされています。ミャンマーからも多くの人々が英国にて教育を受・けた筈ですが、歴史の長さから言うと英国の支配が短期間であった事からその影響は低かったとも言えましょう。また多くのミャンマー人が英国へ出かけた形跡もありません。あくまでもインドを経由した英国との関係とみるのが妥当ではないでしょうか?
現在のミャンマーと英国の関係は悪くもなく良くもないという状態でしょう。しかし統計によると英国からの投資が今でも総額で一番大きくなっています。この国での投資で一番金額の大きいのは石油資源の開発に関連した部分です。英国の狙いは、この当たりにあるのではないでしょうか?
最近インドネシアでは通貨の混乱を引き金として暴動が発生しています。こういった際にスケープゴートとなるのが中国系の商店が的となるのが常です。最近のタイムに載っていた記事を要約すると、現在のインドネシアでは二億の総人口の中で500万人の中国系移民が存在し彼らに経済は握られているのが実状のようです。中国人の入植は古くは13世紀から海を越えて流入して来た人々から始まったと言われています。それ以降オランダの植民地化が始まる迄は地元の人々との協調で何ら大きな問題もなく過ぎたようです。しかしオランダの植民地化政策の一環として、中国人が現地のインドネシア人との仲介役や、中間管理織的存在となり、またオランダ人に代わって税金の徴収役を引き受けたりした事から次第にインドネシア人との溝が深まったようです。1959年にインドネシアの軍事政権が村落部に於いての中国人の出入り禁止策を講じた結果都市部に於いての中国人の経済的力は逆に増大したそうです。続いて1966、年には共産主義の弾圧という名目で中国人が数千人死亡したのも歴史の中で記載されています。常にスケープゴートとして中国人は迫害を受ける立場に追い込まれています。今回もそれに類似したものでしょう。しかし今直の通貨不安で大量の資金すなわち400億ドルの資金の大半が中国人の手によってインドネシアから香港などの国外へ流出し過去三十年間の富みの蓄積がふっ飛んで行ったそうです。
すなわち国家に於いてはまさしく危機感が高まるばかりの悪循環となった訳です。単に庶民の不満のはけ口として中国系インドネシア人を叩いても結果的には国家の経済が破綻する事に人々は気が付いていないようです。インドネシア政府も今回の経済危機には為す策もなく今も混乱が続いています。この現象をミャンマーと比較するとかなり面白い発見ができるのではないでしょうか? 歴史の中でミャンマーの位置づけは英国鎖インドの属国として1855年から統治が始まりました。当時はインドから多くの技術者や医師、会計官や鉄道技術関係等の人々は流入し其の数は1943年の日本軍進出の前に最帯数に達し約当時の人口1600万人中100万人のインド系移民が居たそうです。現在でも50万人以上のインド系ミャンマー人が存在しています。外に中国系移民もそれ以上に数を増やしているようです。
かなり長期の間に渡ってインド系移民に依って主要なる行政部門が支配され続けてきたのがここミャンマーの近年の歴史かと思います。其の過程の中で1966年にミヤン寸一政府による産業の国有化政策で、当時15万人以上がインドへの帰還者した事は有名です。今でも南インドのマドラスにはビルマ・バザールと呼ばれている有名な密輸品専門の商店街が堂々と軒先を並べています。その店のオーナーの多くは元ビルマ在住者だった事から来ています。ミャンマーでは、現在でもある程度の圧迫や差別等があるようですが、前述のインドネシアのように険悪な状態には至らなかったようです。1960年代といえば東南アジア諸国は共産主義化の懸念から多くの国が軍事政権の元で反共主義を打ち出した時代です。また同時に民族主義の高まりで自国民による政治、経済の運営を担うべき必死に各国は動いたのではないでしょうか? 政治的権力を手にしても、経済の実権を握るには余りにもその道は程遠かったようです。 近年の
スリランカ等は、ようやくランカ人の実業家や経済人の登場で政治部門だけではなく経済部門に於いても頭角を表し始めました。マレーシアもブミプトラ政策をもって自国のマレー人優先策でマレー系の人々の力を押し上げるべき政策を続けようやくマーレ一人の経済界も力をつけたようです。しかしマレーシアに於いてはいまだに中国系のマレー人に経済は支配されているのが実状です。
こうして眺めるとミャンマーもこの先経済の発展には時間がたっぷりと必要な感じがします。 他国に習うべき点が数多く残されているのではないでしょうか? 移民を帰還させる事は国外への莫大な資産の逃避と頭脳流出が伴います。

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