この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです
6.2インド人の憂鬱
これでも動く! |
ミャンマーに住むインド系の人々は近郊の町へ行くにも警察の許可書がいるそうです。掃ったときには地元の警察に報告する義務があるとの事です。いわゆる外人登録扱いで正式などルマ人にはなれないと言う事を開きました。毎年2000チャット払って書き換えをしているそうです。何人かはビルマ国籍すなわちピンク色のカードを取得できる事になったのは最近の話です。現在はミャンマーで生まれた子供達はミャンマーの市民権を持つことになるそうですが、詳しい事は次回の報告までお待ち下さい。
タージとインレーの間にカラオという小さな町があります。今でも英国風の建物が並び植民地当時の面影を覗かせています。ここでシーク教徒のホテル経営者が向こう側から自転車でやってきました。少し立ち話をしたのですが-彼はきれいな英語を話します。何処で習ったのですか?と聞いたらお父さんが必要だから勉強するように進められたそうで
す。勿論学校でも勉強したそうです。そのお父さんは、7年前に亡くなったとの事です。昔日本軍が駐留したころは自動車のメカニックをしていたそうで、彼は父が「日本人はよい人だった」と言って事を繰り返しました。以前は8台トラックを持っていたのですが、
それを売り払って今はホテル集を始めたそうです。ここ2、3年前から観光客が増えたそうで、彼の英語力が今後発揮される事となりましょう。
彼の妹もゲストハウスの経営に参加しています。妹はインドのアムリッツアーのゴールデンテンプルへいったことがあるという私の話を聞いてあそこは私たちの巡礼の聖なる場所ですよ!と自慢していました。心の中に両親の祖国であるインドに対して憧れが沸くのでしょうか? 私がヒンデー語を少し話す事を知ると周囲の人々はびっくりです。ネパール喫茶店のラクチュミのおばちゃんがしきりにネパール語で話し掛けてきはじめました。何しろこの近辺には、およそ200家族のネパール人が住んでいるそうです。いわゆる彼らはグルカと呼ばれています。英国の植民地化には数多くの移民が伴いました。英国の傭兵として勇敢な彼らはミャンマーだけではありません。近隣諸国のマレーシアや香港そして遠く東アフリカ諸国やフィジーに迄その影響が点在しました。この店の看板には気を付けて見なければ良く分からないのですが小さくヒンデー語でオームと記されていました。それが眼に入って私も吸い込まれるようにこの茶店を利用するきっかけとなったのです。最近のネパール事情を得々と語ったらママさんは大変ご機嫌でした。
そういえばマンダレーのエヴェレストレストランのおかみさんも両親はネパールから移民して来た子孫です。昔はマンダレーの郊外に住んでいましたが、10年前からここ市内に引越しをしネパール寺院の近くで食堂を経営し始めました。最近は外国人旅行者の間でも有名な場所となってきました。商売は順調に進んでいるようです。何処から入手出来たものかネパールのカレンダーも飾ってありました。彼女もカトマンズに対して同様な思いをもって居るのかも知れません。この国の人々にとっては我々のように簡単に国外へ出かける事は出来ません。先祖から語り続けられた先祖の母国に対しての夢が今も残って居るのでしょう。
パゴーのサンフランシスコゲストハウスの回りには外国人観光客専門のガイド兼サイドカーの運転手が待ち構えています.その中でインド系のマニさんがどうも人気があるようです。私がタミル語で話したら
本当にうれしそうでした。彼の身の上話によると、彼が子供の頃、今から30年程前にミャンマーでおきた事業の国有化政策の時に、お父さんに置いてきぼりにされたそうです。当時ヤンゴンからマドラスへ向けて何万人もの帰還者が出たことは有名です。ある人々は母国へ帰り、ある人々はミャンマーに残りました。マニさんの父はインド-帰ってしまったそうです。さて一体どちらが幸せになれるのでしょうか?インド社会と違ってここにはカースト制度と言う束縛がありません。それによる圧迫観を感じる事なく素直にのびのびと暮らせる一面を持っています。また気候的にもホット、ホッタ-、ホッテストと表現され
るマドラス近辺に比べると天国です。どうもこの国には暗さを感じさせない何かがあるようです。自称44歳のマニさんは、比較的穏やかな感じであります。明日は親戚の結婚式があって半日ヤンゴンへ出かけるとの事でした。
現在でもミャンマーにおけるタミル人の数は50万人以上いるとされています。英国がインドを利用して
この国を植民地化した時にはインド系の住民はミャンマーの人口が1600万人の中で100万人を越えたとされています。
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