2013年6月10日月曜日

ヒマラヤの村 第5日目(1)さようならスルケ村

こうして3日間スルケ村のジャガットさんの家にお世話になりました。インターネットや新聞そしてテレビなど俗世間の情報なしでも過ごせるのは過ごせるものです。1日四食昼寝付きの超豪華な空間を味わったわけです。もう、ここまで来ると日本に地震が起ころうと、日々の為替相場に大きな変動があろうと関係のない世界です。でもやぱり、為替相場は気になるなああ!
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スルケ村さようなら
さて、これから、どちらに向かおうか?当初の予定通りこのトレッキングのルートに沿って続行するか、それとも無念ながら中断して早目にカトマンズに帰るかの選択に迫られました。天候は日増しに雨の回数が多くなってきました。わずか3日間の村での滞在でしたが、来年の再訪も可能です。今度は雨季に入る前に訪問したいものです。でも今回は村の実態を深く知ることが出来ました。10年後には、この村はどう変わっているでしょうか?して、結論は今回はここから出来るだけ早くカトマンズに帰るという決定を下すことになりました。



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GPSデータ
帰り際に宿泊費の精算をしなければなりません。ラジューさんに聞くと「あなたは、家族みたいなものだから何もいりません」と冷たくあしらわれる!!!始末。止む無く中学二年生の娘に「これはわずかだけど、お勉強の為に使ってください」と志を渡して一見落着です。
帰路の道は、現場でラムさんやラジューさんに聞きました。幸いに到達した場所は、ここ自宅付近から目視も可能です。あそこの峠まで出たら自動車道にでるから、あとは、まっすぐ車道を歩けばよいからと確認を取りました。



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GPS データ
と言われても、現場はやはり集落内の通路を通るので所々枝分かれし、どんづまりになったりすることもしばしばです。ちょっと怪しいと感じたら即通報ならず、人に聞かなければなりません。こうして1時間後には、大きな道(車道)に到着することができました。







空はどんよりとして、今にも泣きそうな曇り空です。次に向かうドランバという村は10年ほど前に政府軍とマオイストと呼ばれる反政府が対立し激しく戦闘を繰り返していました。両方の勢力に挟まれた庶民13名が処刑された土地としてネパール全土で有名になった場所です。もしかして土地柄がわるいのでは?一人で歩いて盗賊にでもあってみこそぎはぐられるんじゃなかろうか?まさに迷える子羊と似た状況に陥るわけです。

始めや安易に考えていたこのトレッキングコース。一応地図は手元にあるのですが、通常のトレッキングコールとは大違いです。道が新道、旧道と複雑に分岐しています。人影も極めてすくなく、外人に会うことは皆無です。しかしそんな中で私を勇気づけてくれるのは、携帯電話に記録されているネパールの息子ダマイ・サルキ・シェルパからのショートメッセージです。

ダマイと始めて出会ったのは今から15年前で彼が15歳の頃です。私がエベレスト方面にトレッキングに出かけた時にお父さんと一緒にポーターの役割を担っていました。寺小屋で勉強するのに4000ルピーの費用がかかるので、その資金調達を兼ねてやってきたとの事でした。この時は日本人のおばさんグループ4人と共に私が通訳係りとして参加していました。そんな中で少年サルキは皆からの注目の的でしたが、他の人々はネパール語が出来ません。当然の事ながら、私に色々な事を話かけてきました。

それが、始めての出会いです。そしてその三年後私はエベレスト方面へ再び出かけました。これは行きは友人のグループと、そして帰りは単独で一人でナムチェからジリへと歩くコースを取りました。三年前にであったサルキの住所と名前のメモを手がかりに15キロの荷物を背負いながら、ふうふう言いながらジリ方面に向かいました。

人に道を聞きながら次第にサルキの住んでいるブプサ村へと進みます。さて、偶然にも、この辺りからブプサという村が始まるはずだから、誰かに聞かなくてはと思い、最初の民家兼雑貨屋で聞いたのがサルキの実家でした。本人は不在でしたが、父親が懐かしそうに私の事を覚えていてくれました。30分後に近くに用事があって出かけていたサルキも戻ってきました。

三年後の再会は見事に達成です。サルキは今は村でお小さな食堂を営んでいます。再会をきっかけに、私がジリへ行くにはまだ5日間ほど荷物を背負って歩かなければなりません。ここで早速ポーターの出番です。バスが走っているジリという町へ出かけるのはサルキにとっても始めての体験です。本人は満面笑を浮かべてうなずいています。

これがきっかけとなり、その後毎年サルキを伴ってどこかへトレッキングに行くことになったのです。ランタン谷へ11回、ジョムソン街道も一緒に歩きました。ロールワリンも出かけました。エベレスト方面には二度出かけました。マナンも出かけました。こうして、様々な形での支援が続いたのです。しかし、今回は一人での単独トレッキングです。実は今回サルキは二ヶ月の間に渡ってエベレスト遠征隊のシェルパとして参加することになったのです。

そんなネパールの息子から時々送られるメッセージには「今ベースキャンプついたよ!パパ」、「今日はキャンプ2まで行ったよ!パパ」、「明日はC3からC2へ行くんだよ、朝2時の出発だよ!パパ」、「ものすごく疲れたよ!パパ」

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遠征隊で仕事しているサルキ
そんな記録を読み返しながら勇気をもらってまっしぐらに私も前進です。後で知ったことですが、このエベレスト遠征の裏方となる登山ガイドの役割は、登頂する外人の華やかさに対比してあまりにも悲壮というか厳しい現実を知ることになったのです。これは、このブログの続編として今後紹介することになるでしょう。






誰も通らない道路を歩いていると貨物トラックが道端に停車し、即席の百貨店を開いています。数人の村人が集まって買い物、値切り交渉に念がありません。ひとの声を聞くことはこんなに嬉しいものとは、無言で通り過ぎるわけには行きません。軽く挨拶をそして道を確認しさようならを告げてその場を通過しました。

道路沿いに小さなおひと店が数軒ならんだ集落を過ぎると目前には、またまた急坂が待ち受けています。そんな中、前方にククリ刀を手にした人がゆっくりと歩いています。どうもこの人を追い抜くのはやばいと思いながらも、追い抜かざるを得ません。さて、追い抜いて道を訪ねると、以外と優しそうな人でした。丁寧に行き方とポイントを教えてもらったわけです。

30分ほど歩くと、今度は体格の立派な青年がさっさと向かってきます。相手も私に興味を持ったのでしょう。スレ違い際に立ち話です。彼は近くの兵舎から用事があって先ほど通過した村への往復の途中です。たどたどしいながらも正確な英語を話、私が日本人だと知ると「フクオカ知っている?」など親しげに話が弾みました。こうして様々な人に会いながらドランバという村に到着したのは午後1時過ぎでした。

さて、これからどうしよう!

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