2013年6月25日火曜日

夢農場(5) まとめ

まとめ
夢農場の事業
多角的農業経営:果樹栽培、野菜栽培、畜産業、養鶏場、薬草園、林業などを有機農法で行う。
ホステルの設置:ホステルを建設し、苦学生の寄宿場とすると共に、寮生を労働力として参加。
各種啓蒙活動:併設した建物で、夜学を開校。
宴会場及びレストラン併設:収益を得るため。
ゲストハウス:農村滞在型のツーリズムの振興
海外研修及び留学(農業関連)
環境問題への取り組み:バイオガス発電、リサイクル運動、プラスチック利用の制限


さて、このような動きは従来の支援とは全く異なった新しい模索となっています。新しい時代に向けてITを活用することによって、その可能性は大きく前進させることができます。例えば、日本の農業専門家とは、ネットを通して情報を交換することも容易になりつつあります。スカイプやライブカメラなどの活用で、世界各地、どこにいても現場の状況を把握することができ、適切の提供をすることが可能になりました。しかも、大きな予算は必要ありません。

2013年6月24日月曜日

夢農場(4) ガイガート市

ガイガートは標高270メートルの低地ですが、すぐ側に山林が控えています。平地の農場だけではなく、併せて山林開発も含めていけばどうでしょう。キノコの栽培や各種果物の栽培、いわゆる商業作物を徐々に含めていけば、更なる可能性が高まってきます。

前述したように、様々な要素がごっちゃまぜになっているかのように見えますが、実現出来る分野から徐々に活動を開始していけば良いでしょう。また、参加型の農場ですからそれそれが新しい発想で地域に見合った農法を自分たちで開発していくことでしょう。しかし急務とされるのは、現場を知っている農業の専門家の必要性です。

こうした機関の設立には、もし、利益が見込まれるとすれば概して政治家の介入や、政府の規制などに縛られることがあるかもしれません。しかし内部のメンバーは政治、政党活動から距離をおいた立場でなければなりません。しかし、必要に応じて行政と緊密な関係を保てる人材も必要になってきます。また事業が肥大化すると必然的い大きな金が動くことになり、不透明な金の動きが発生しがちです。これを把握するには、自分達で会計システムを作り上げ、通称複式簿記としてしられる、資産、資本、負債などの公表をしなければなりません。単純な収支報告のみだと、それは賄賂の世界への入り口につながってしみます。また主要なメンバーが実務的にその会計報告の意味を知らなければなりません。

2013年6月23日日曜日

夢農場(3)企業内教育機関の併設

こうした意見が彼ら自信から派生していることに私は大拍手を送りたいと思います。まさしく私が考えていた結果と同様です。こうした疑問を抱えている学生も多数いるはずです。あまりにもカトマンズの教育機関が商業化し、彼らの能力が生かされていない結果と言えるでしょう。また良い教育機関とは、日本同様、大学合格者を何人だしたかによって優劣がきまり、その教育の内容について深く吟味されていないのが常です。その結果大学を卒業しても、英字新聞が理解できない。コンピューターのヘルプフィアルが読めないというチグハグが生じます。学校で習うのは英語のテキストで英会話で授業を受けていますが、家に帰ったり友達と話すのは現地語になってしまいます。

そう言った教育を見直す研究会そして、今度どうして行けば良いかその方法を見出して特別授業を行う機関が必要になるわけです。ネパール人に多く見られる演説を得意とする理詰め論法などで議論が持ち上がってはいけません。実務的な方面に、独創力を高めることに目を向けなければなりません。

2013年6月22日土曜日

夢農場(2)農業で自立を!

そんな中先日ホムさんは故郷で友人の結婚式に出席するために村に出かけてきました。彼の友人や同志が既に小規模ながら農場を始めたそうで、その写真や動画を見せてもらいました。これをもう少し大きくして農場にし、様々な経営(有機栽培、養魚、養鶏そして会議場とレストラン)でもやれたらなぁ)何かアイデアはありませんかと相談を受けました。そう言った中で彼が最も関心を持っているのはゴミの問題です。田舎の町でもゴミが大量に発生しているそうで、このゴミから利益が得れないものだろうかという悩みも抱えています。

さて、さて、これは面白いことになりました。私が今まで各地を訪問して知りあわせた知識を披露する羽目になったのです。関連した記事として、当ブログのヒマラヤの村にも記載してありますが、村から多くの人々が海外へ出稼ぎに行き、村は過疎化していっている。故国を遠く離れて家族が数年も会えずにくらさなければならないという状況から脱するにはどうすれば良いものか!村そのものを豊かにする方法はないものかという模索とも関連しています。
さて、ここから私の提案になります。


夢農場(1)

最近風の旅行社に勤務しているホムさんと話をする機会が増えました。彼と知り合って12年過ぎています。私がエベレスト方面のトレッキングしていた時にデンボジェという村で出会ったのがきっかけです。食堂のストーブを囲んでガイド兼ポーターのサルキと話込んでいた所へホムさんが日本人のお客さんを連れて入ってきました。勿論私は現地語でサルキと話をしていたわけです。後日談ですが、それで、ホムさんはてっきり私をネパール人と思ったそうです。カトマンズによったら是非会社の方へも遊びに来て下さいとの言葉を受け、交際が始まりました。

交際と云っても、私は単なる貧乏旅行者の部類です。風トラベルというと、日本に本社があり、精選された手作りのパッケージ旅行を販売している会社で、私にとっては縁遠い存在です。そうした事はさて置いといて、風の旅行社を訪問してみました。何と珍しいオープンカウンター方式でスタッフ全員が一望出来る仕組みになっています。この類の事務所というと、何かしらスタッフそれぞれに部屋が割り当てられ担当の人に合うにはいくつかの門をググって辿り着くのが一般的です。これとは、違いまさしく日本式で、カウンターも低く設置され和やかな雰囲気が漂っていました。しかも頻繁にお茶をどうぞと勧められます。

2013年6月21日金曜日

シェルパから見たエベレスト遠征(6)さようならネパール

登山ガイドとしての見習い生なるサルキ・シェルパの努力そして、多くの困難を乗り越え、積み重ねた経験は今後の彼の人生に大きな影響を与えることでしょう。
Total
ベースキャンプから南峰へのルート
0415BCtoC2
44月15日エベレストベースキャンプからキャンプ2へのログ

2013年6月19日水曜日

シェルパから見たエベレスト遠征(5)体力の限界!

Everest South Summit


EveryTrail - Find the best hikes in California and beyond
昨日サルキからGPSのデータが送られてきました。実は、任務を終えてカトマンズに帰るにも、本人の装備だけでもかなりの重量になります。登山靴や防寒具などは一括して会社を通じて航空貨物で運んでもらう事になりました。本人は、小さなリュック一つでカトマンズに戻ってきたわけです。荷物の到着を心待ちにしているのですが、それは、3週間後にようやく、本人の手元に届きました。
ここでも、雇われる側の弱味が潜んでいます。外人の荷物はお客様ですから、数日中に必着となるのですが、裏方を働くネパール人には、そう言った配慮は届かないのかもしれません。登山靴の中にGPSを隠しておいたようで、無事そのデータを入手することが出来ました。
一部のデータは欠落していますが、このデータを解析すると、シェルパ達がどのような行動をしていたものか、良くわかります。いやすごいものです。人間ワザとは思えない程の行動パターンに驚いてしまいます。

さて、このGPSの記録をよく見ると、多くの発見が出来るでしょう。特に最後のアタックがあったと想定される5月10日は朝8時にサウス・コルを出発し、南峰に到着したのが16時です。それで、酸素不足が予想されるので、引き返したわけですが、16時過ぎから一気にキャンプ2まで降りています。深夜22時にキャンプ2に到着したようです。7900mから8700mまで800m登り、今度は6500mのキャンプ2までの標高差2200mを一気に降りたわけです。しかも20キロの荷物を背負って!
いやはや、怪物みたいなものかもしれません。彼らのパワーには圧倒されてしまいます。


Everest South Date Analyze by Satoru Hoshiba

2013年6月18日火曜日

シェルパから見たエベレスト遠征 (4)任務を終えて

さて、こうしてサルキは初めてのエベレスト遠征隊に加わって貴重な体験を積む事になりました。あまりにも厳しい現実に多くの登山ガイドは「もう来ない!」と心に決めて帰るわけすが、シーズンが始まると、その言葉と裏腹に、やはり参加してしますそうです。彼らにとっては、矢張り大切な収入源です。他に生活の手段を選ぶことはできません。
IMGP6592そんな中でサルキの今回の働きは会社にとっても好人物と映ったのでしょう。「来年も仕事を回すから貴方さえ良ければ是非来なさい」とお声がかかったそうです。しかし、この過酷な職務は若い時が勝負です。ましてや、通常のトレッキングと異なり生死が一体となった危険な職業とも言えるでしょう。本人もあと数回出かける覚悟はしていますが、それ以降はトレッキングを主体として生活を支えて行きたいと希望しています。
さて、ベースキャンプの撤収も終わり、皆がそれぞれに家庭に帰ることになりました。外人の多くは飛行機のり用でいとも簡単にカトマンズに到着することができます。中には一人500ドル以上払ってヘリコプターをチャーターして帰る人々もいます。元来この路線は外国人が130ドル(20分)という料金が設定されています。通常の時期はネパール人はその半分程度の金額で利用出来るのですが、こうして、短期間に外人客が集中すると航空会社も強気でネパール人単独への座席割り当てはしてくれません。登山ガイドにとっては、勿論交通費も支給されるのですが、席がとれないことにはどうしようもありません。この時期にあるシェルパは200ドルを払ってカトマンズへ帰着したそうです。

シェルパから見たエベレスト遠征(3)シェルパの実態

IMGP6181さて、エベレスト遠征という華やかな裏方を務めるシェルパ達には、それぞれ重要な役割があります。一見何事もなく平穏なエベレストベースキャンプでの日々が続きます。しかし、彼らの多くは、自分たちの力を過信し、またそれを意識して他のシェルパより優位にあるという存在感を示さなくてはなりません。しかし、我が息子なるシェルパは淡々とした日々を過ごしていました。

概してネパール人やインド人の社会では自己主張を強くしないと生活していくことが難しいという背景があります。日本の社会のような控えめな態度は極めて不利に働く場合がおうおうにしてあります。よく見かける光景ですが、「私は、これこれが出来る。英語も話せる、コンピュータも出来る」と自慢する人ほど、実務においては全く役立たないケースを数多く見て来ました。私の生き方は、己を知ることから始まります。何が出来て、何が出来ないかという判断を着実に見つめなければなりません。結果として控えめな表現になってしまいます。しかし、実際に現場にたって実務に携わる

2013年6月17日月曜日

シェルパから見るエベレスト遠征(2)彼らの体力

IMGP6424標高2000メートルから3000メートル付近で生まれ育った人々は、まさしく高山に強い体質を持ちあわせています。一般的に登山ガイドとなれば、ネパール人は標高7900メートルまでは酸素マスクを使用しないで行動するのが当然の事とされています。通常我々も標高5500メートル付近までは酸素マスクなしでゴーキョや日数をエベレストBCなどへのトレッキングを行うのは特別な事ではありません。勿論十分な時間をかけて高度順応をすることが前提となります。



10年ほど前にサルキと一緒にゴーキョピークへ出かけたことがあります。高度は5000メートルを超えています。彼にとっては、始めての5000メートルを超える場所でした。それで、彼は軽い高山病の症状に陥いり、私よりも歩行速度が遅くなった事がありました。今はもう、ベテラン中のベテランです。アマダブラムへの登頂は勿論酸素マスクなしでの登頂でした。

2013年6月15日土曜日

シェルパから見たエベレスト遠征(1)

IMGP6205さて、このブログのシリーズに時々私が10数年に渡って世話をしているシェルパ(ダマイ・サルキ・シェルパ)がいます。田舎の出身で素朴な青年です。本人に出会ったのは14歳の時でした。本人が18歳になった時からほぼ毎年のようにトレッキングのガイド兼ポーターをしてくれました。田舎の出身で寺小屋(僧院)での勉強をした青年には、他に生きて行く道は限られています。ガイドの資格試験や、登山関係の資格取得などの費用を捻出し、本人を励ましてきました。そうした甲斐があって、昨年は技術的に難しいとされるアマダブラムの登頂に成功し、そのGPSのデータを整理して届けてくれました。

一介の田舎の青年が、年を追う毎に成長していく姿を見るのは楽しいものがあります。彼には近年になって、一つの希望がありました。それは、エベレスト遠征隊の登山ガイドとして仕事する事でした。ガイド仲間から様々な情報を入手し、その方法を色々と探っていたようです。

2013年6月14日金曜日

ヒマラヤの村 第6日目 旅を終えて

こうして、徒歩、ジープ、渡し、バスの旅を重ねて数時間の移動で全く別の社会に足を踏み込むことが出来るわけです。それは、村から町への変遷を見つめると共に、時代の流れをも凝縮してしまいます。前日は太陽発電の弱々しい電気の下で暮らしていたのが、翌日は灯りが眩しいくらいに輝く世界へ引越しをしたことになります。こうした旅は景観の変化を楽しむだけではなく、改めて時代の変遷を捉える目を育ててくれるものです。

PIC_0699
今回の旅は久しぶりの一人旅でした。念願かなってネパールの普通の村を訪問することが出来ました。ネパールは農村人口が75%を占めていますが、次第に都市化への波が押し寄せています。若い人々は国外やカトマンズへの出稼ぎに向かい、彼らの故郷は過疎化の波を避けて通ることは出来ません。毎日およそ1000人ものネパール人がカトマンズの空港から中近東や東南アジアへ出稼ぎに向かいます。ネパールを取り巻く国際情勢は大きく変化をしています。

2013年6月13日木曜日

ヒマラヤの村 第6日目(1) カトマンズへまっしぐら

PIC_0713昨夜は色々な心配事があったわけですが、以外とぐっすりと休むことが出来ました。朝は6時半頃目が覚めました。気分はスッキリです。出発までまだ1時間ほどあります。ネパール式の朝は紅茶を飲むだけです。しかしここでは期待していたミルクティーはなく、ブラックティーを流し込む羽目になりちょっと失望です。まあ田舎ですから仕方ありません。都会では、ミルクティーを飲む習慣があります。そもそも、ストライキで車両が動かなくても、非常事態宣言がされていても、何故か朝は必ずプラスチックの袋にはいった500CCのパケットを手にすることが出来るわけです。すなわち国民的飲料とてもいいましょうか?しかし他方田舎では牛乳を手に入れる手段がありません。それで自ずからミルク無しティーとなってしまうのでしょう。

2013年6月12日水曜日

ヒマラヤの村 第5日目(3)ガルパ

PIC_0710さて、予定どおり二時間の行程でガルパに到着しました。ガルパには、これといって有名な寺院や僧院があるわけではなく、ドランバから次の観光地カラデビへの中継地です。カトマンズからムレを経由してドランバへ行く道路は最近の雨で途中不通でバスは運行していません。

地元の人から、「それなら、ガルパに向かえばよいですよ。そこから朝7時半に乗合ジープがあって、カトマンズへ行くバス道路まで運んでくれるよ」という事でした。これは朗報です。そういったわけで、ドランバの宿泊は次回に回してガルパまで一気に進みました。

ガルパへの近道をしたわけですが、村が近くなって建物が見え、嬉しい気分でした。どうも学校の庭に入り込んでしまいました。校内の敷地からでようにも、校門には鍵がかかり出ることが出来ません。何かしらぐるぐる学校の敷地内を一回りし、ようやく民家との境界をくぐり抜けて大通りに脱出です。


2013年6月11日火曜日

ヒマラヤの村 第5日目(2)ドランバからガルパへ

PIC_0697さて、丁度お腹も空きました。そろそろ昼食の時間です。村の中心部といっても両側に5.6軒の店が並んでいるだけです。周囲の人々がだんまりと、私の一挙一動をじぃ~と見つめているような錯覚を覚えます。茶店のような気配はありません。店の前にいる人に聞くと、こっちへ来いと教えられ、いわれるがままに、店と店の間の細い通路に入っていくと、なるほどお茶屋さんがありました。

このお茶屋は通りに面した部分は雑貨屋です。奥の方が食堂兼村の賭博屋という形態です。中に入ると、まずはジロジロ周囲の人々に観察されます。若い兄ちゃんが珍しそうに「どこから来たの?」なにしに来たの?」好奇心旺盛に色々と質問してきます。徐々に話をしていくと、他の人々もじんわりと話に加わってきました。打ち解けるまでにはかなりの時間が必要です。どうも、この辺りで外人を見かけるのは珍しいようです。外人と言えば英語での応対になるのですが、この辺地ではやはり英語よりもネパール語での応対の方が地元の人々も安心して気軽に話をすることができます。

早速、お茶とラーメンを注文し、空腹を満たし次の目的地への情報を仕入れました。食事代も不当に高額を請求されることもなく、あくまでも現地価格で合計45ルピーです。ここから2時間ほどで次の村ガルパに着くという情報を手にいれました。これなら4時前にはガルパに到着すると一安心です。

PIC_0698さて、道は車道沿いに進めば、目的地へいやおうなく辿りつくことが出来るとわかりました。車道と云ってもまだ工事中で、道路状況が良ければバイクが通れる程度のものです。所々がまだ工事中で轍の跡も見つかりません。

幸いに道は平坦で歩くには無理がありません。道中車道と旧道が交錯し、どちらを行けば良いか迷っていると、遠くから呼声がかかりました。さっき通過した地点で爺さんと挨拶を交わしました。「この道をまっすぐ行けば良い」と言われたものの、分岐点でどっちへ進めばよいか決めかねていたところ、はるか遠方から私の行動を見守っていたようで、左へ曲がれとばかり合図をしてくれました。幸いに見通しの良い場所だったので、その指示に従って旧道を進むことが出来ました。他方車道のほうは大きく迂回して遠回りになっていたのです。

PIC_0702近道はちょっとした断崖絶壁に沿った道でスリル満点、トレッキングの雰囲気たっぷりのコースです。30分もあるかない間に車道と再び交差しましたが、絶景を眺めながらの歩行は大満足の行くものでした。途中で羊飼いの少年に道を尋ね再確認。

車道を更に進むと5-6人の地元の若い衆が大きな石の上にたむろしています。彼らにも道を尋ねました。終点のガルパはもう近いようです。ここでも、先ほど同様、彼らが私の行動をじっと観察していたようで、旧道まがいの松林の細い道をすすもうか、車道に沿って歩こうかと迷っていると、遠くからブーイングです。車道に沿って歩こうとすると、わぁ~わぁと奇声を発して合図をしてくれます。そんな目に見えない親切が私の心を慰めてくれました。

松林の中を20分ほど歩いていくと、建物が見えてきました。そろそろ目的地のガルパです。

2013年6月10日月曜日

ヒマラヤの村 第5日目(1)さようならスルケ村

こうして3日間スルケ村のジャガットさんの家にお世話になりました。インターネットや新聞そしてテレビなど俗世間の情報なしでも過ごせるのは過ごせるものです。1日四食昼寝付きの超豪華な空間を味わったわけです。もう、ここまで来ると日本に地震が起ころうと、日々の為替相場に大きな変動があろうと関係のない世界です。でもやぱり、為替相場は気になるなああ!
PIC_0695
スルケ村さようなら
さて、これから、どちらに向かおうか?当初の予定通りこのトレッキングのルートに沿って続行するか、それとも無念ながら中断して早目にカトマンズに帰るかの選択に迫られました。天候は日増しに雨の回数が多くなってきました。わずか3日間の村での滞在でしたが、来年の再訪も可能です。今度は雨季に入る前に訪問したいものです。でも今回は村の実態を深く知ることが出来ました。10年後には、この村はどう変わっているでしょうか?して、結論は今回はここから出来るだけ早くカトマンズに帰るという決定を下すことになりました。

2013年6月9日日曜日

ヒマラヤの村 第4日目(3)夜学

さて、燃料となる間伐材を運び終えた時はもう辺りが暗闇に包まれ始めました。少しばかり休憩をしました。ジャガットさんの新築された家の二階はお客さん用の部屋ですが、その一階は夜7時過ぎから地元の婦人達を対象にした識字教室が開かれます。
PIC_0687今晩はわずか二名の出席者でしたが、普段は20人以上が参加するそうです。今日の参加者の中にはジャガットさんのお母さん(60歳)も入っています。もうひとり近所のおばあちゃんも参加しています。皆わけあいあいと世間話をしながらの教室です。私もそんな中へちょっと仲間入りです。おばあちゃん達にとっては、私が日本人、外国人という意識もありません。ジャガットのお母さんは早速、自分の練習帳を見せてくれました。「ほら、これが私の名前、私も字がかけるようになったんだよ、よーく見てくだされ」と自慢げです。すかさず、隣にいる同年輩のばあちゃんもノートを見てくださいと強制です。そんな無邪気で素朴な人々の生活に触れる事が出来ました。

ヒマラヤの村 第4日目(2)長寿の秘訣

PIC_0679さて、マダンの家を訪問しての帰りは、ジャガットさんの弟ラムとその甥っ子は、帰路、自宅の山林にはいりました。中学生の甥っ子は、暗闇が迫っているのにもかかわらず、するすると木に登りグミのような山の果実をひょいひょいと摘んで私にくれました。もぎたての素朴な味がほんわりと口の中に広がります。今まで食した果物とは何かが違います。
二本のスーパーで見かける野菜を例にとると、トマトは色彩といい、見栄えといい味といいあまりにも管理された味を感じます。しかし時々田舎で見つける普通のトマトは香りがキツく素朴な味のするトマトを発見する事があります。これに似た野生の味でした。しかし何故か人気がないんですよねぇ。ここでは、そうした天然物に覆われています。

2013年6月7日金曜日

ヒマラヤの村 第4日目(1)マダンの家

杵で米つき作業をする妹
ジャガットさんの奥さんの家は、彼の生家より50mほど段々畑登った丘の上にあります。奥さんの弟マダンとはカトマンズのホテルハナで何度か会った事があり、以前から私の実家へ遊びに来て下さいと招待を受けていました。今日も親戚訪問のオンパレードです。午前中はホームスティをしている姉さんの家を訪問、夕方は、ここマダンの実家訪問と接待が続きます。マダンは兄弟姉妹9人兄弟だそうで、お姉さんはいるのですが、長男です。一番末の弟は地元の小学生に通っています。お父さんはどうも二人奥さんを持っているようで、農業を営んでいます。広い土地を持っているのですが、男の子が二人で残りの7人は女の子です。長女は既に結婚してカトマンズに住んでいます。人手が足りないと見えて荒地が多く目に入ります。

2013年6月4日火曜日

ヒマラヤの村 ルート解説

より大きな地図をご覧になるには、地図のタイトルにマウスを当ててクリックしてください。

ルート1カトマンズからムレを経由してコラカルカへのバスの軌跡です。途中でデータが欠落していますが、ご了承ください。

カトマンズからムレそしてデオラリ 


EveryTrail - Find hiking trails in California and beyond



ルート2 コラカルカからスルケを経由でドランバそしてガルパへ。 
     ガルパからは、ジープでクレカニへ

スルケ Surkhe


EveryTrail - Find trail maps for California and beyond


ルート3 クレカニからネパールトックへ徒歩1時間。その後ローカルバスを乗り継いでカトマンズへ

ネパールトックからカトマンズ Nepalthok to Kathmandu


EveryTrail - Find the best hikes in California and beyond

2013年6月3日月曜日

ヒマラヤの村 第3日目(2)学校訪問

PIC_0611
ネパール歴2018年創立(1942年)
さて、この村には、大きな学校があります。小学校から高校までの一貫した学校で、近郊の丘から子どもたちが通学しています。私が訪問した時は、学校が休みだったので、校内は写真のようにひっそりとしていました。全部で12学年、1クラス平均50人が在籍していますから、全部で600人程度の大規模な学校です。
この学校の歴史は古く50年以上も続いているので、新館や旧館併せて5棟の建物が広いグラントの周囲に造られていました。教室と言ってもものすごく簡素な設備です。目下の所、トイレを増設中でした。トイレ増設と云っても、地元の有志によるボランティアによって作業がなされています。学校の運営は、村のコミュニティが立ち上げたもので、政府からの支援は殆ど受けていないそうです。

2013年6月2日日曜日

ヒマラヤの村 第3日目(1) ホームスティ巡り



ホームスティではトイレは屋外の別棟
昨日はジャガットさんの家に午後到着したものの、その後は食べちゃ寝むりの繰り返しでした。田舎のペースで近所への訪問も明日に延期というのどかさでした。ぐっすりと眠りに入り朝8字過ぎに目が覚めました。

でも、もうお父さんやお兄さんは朝の一仕事を終えたようで、お兄さんの長女が私がめを覚ました気配を察して、早速お茶を持ってきました。まずは、今日の予定です。少し待って朝ごはんを食べてから近所のホームスティ宅を回ることになりました。一般的にネパールの家庭では、朝起きた時にお茶を飲んで、その後10時過ぎに朝食を取る事になっています。

2013年6月1日土曜日

ヒマラヤの村 第2日目(3) ネワールファミリー


コラカルカからダドゥワ
さて、ジャガットさんの家についてほっと一息です。まずは紅茶で接待を受けました。今日は標高約3000メートルから1800メートルまで下がりました。1日で1200メートルを降りた事になります。所要時間は4時間半ですから、平均的なコースタイムということになります。年齢の割にまだまだ体力に自信があるようです。4時間半と言っても、途中で道に迷った時間を差し引くと4時間切った事になります。
ジャガットさんの家は6年前に新築した石造りの新家屋と90年前に造られた土作りの家そして家畜小屋の三棟、ちょっと離れた所にトイレとシャワー室の別棟が広々と並んでいます。まさしく日本の都会のマンションとは大きな違いです。こうなると文化や習慣も異なってきます。以前カトマンズからそう遠くない田舎の友人宅で一夜を明かすことがありました。勿論ト