2017年1月17日火曜日

2.09アグリビジネスで栄えるラーマンさん



   この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです

2.09アグリビジネスで栄えるラーマンさん

移動レストラン!
今回も10年前に知り合ったインド系ミャンマー人なるラーマンさんのお世話になりました。当時は一週間しか滞在許可がなく、ひょんな事で知り合った友人とは今もしっかりと繋がっています。
以前は地元の市場で食料品屋を営んでいましたが、数年前から同じインド系の友人を募って合同で農産物の輸出事業に乗り出しました。最近はかなり景気も良いようです。何しろパジェロなる四輪駆動の豪華な車を事業の接待用として準備してあります。時々私もこれに便乗する事もがあるのです。会社の資金でマンダレ一には支店を開き2エーカーの土地を150万円で取得、ヤンゴン郊外には投機を兼ねて1500万円の別荘を買い込みました。が現在この評価額はバブルの崩壊で1000万円の値打ちしかなく500万円の損害をだしているとの事です。ヤンゴンの目抜き通りに新しく市内事務所を買い求めました。土地別で建物は会社名義で350万円したとの事です。

、時々夕食をご馳走になるのですが、今回はビルの屋上にある有名な中華料理屋で招待を受けました。3人でビールを2本、伊勢海老一皿、やきそば一皿、さらにうなぎのから揚げと地元のウイスキーを一本注文しての豪華版です。この会計はざっと6,00 チャットすなわち日本円にして3,000円の出費でした。最後に食べ放題の口直しとしてコーヒー紅茶そしてデザートもついての値段です。
ともかく人柄が良く気性の明るいラーマンさんです。10年前に会った時は一週間の滞在でしたが食事は大概彼のおごりで済ませた記憶があります。ある時は竹の掘っ建て小屋のような設備のレストランで極上の北京ダックをご馳走になりました。当時は現在の様にインテリアの整ったレストラン等ない時代でした。当時を振り替えると彼らはそれなりに収入があったのですが、品物を買うにも商品が無くお金の使う場所がなかったという現実があったと思います。
ラーマン氏とは南印度からの旅行者を通じて知り合いとなりました。バングラデッシュの空港で一緒になったハシムさんはラングーン生まれですが、家族一同引き揚げをしてマドラスへ移住しました。久しぶりに友人の訪問を兼ねてヤンゴンへ向う所でした。私が南印度のタミル語を話す事を知って急速に親しくなりました。これがきっかけで彼の友人であるラーマン氏を紹介されたわけです。ラーマンさんは当時私がタミル語を話すのを知り大変喜びました。或る時、何故そんなに親切なのかと聞いたら、貴方が私達の言葉を話すからと答えてくれました。
10年前に彼は空港まで見送りに来てくれましたが、すぐに空港から離れて掃って行きました。ここで余り長くいると秘密替察がいて後日厄介な事となり兼ねないので失礼しますという言葉を残して別れた記憶があります。その時の彼の顔は何かしら寂しそうな表情がにじんでいました。私の察する所、彼はいつの日になったら我々の様に自由に海外へ出かける事ができるのか祖先の母国の印度に細愁を感じていたのではないかと思います。
最近のミャンマーでは商人の地位も高くなりました。観光旅行にはまだ規制があるようですが、商用は推進しています。彼は同じ商売をしている仲間と共に昨年はシンガポールやインド等を商用目的で視察と観光してきました。今年の6月には友人の結婚式に参加する為に南インドに出かける予定だそうです。彼の家には5人の息子がいてそれぞれ小学校に通っています。お父さんも健在で家中、仲むつまじく暮らしていますが、家そのものは決して豪邸ではありません。
最近郊外に別途に家を購入したそうです。インドやマレーシア等から商用の客を迎えて取り引きをしている光景を見かけます。時々彼の事務所へ涼みにいくと外のスタッフも歓迎してくれます。ラーマンさんはミヤンマ-語の外にタミル語そしてヒンズー語にも堪能です。これが強い武器になっているようです。まさしく商人階級の典型のような気がします。
我々の目からすると奇妙な経済体制にあるミャンマーで迂しく活動を続けるラ-マンさん一家との関係は今後とも長く続けて行きたいと思います。彼の一家の繁栄と幸福を祈りましょう。

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