2017年1月7日土曜日

1.4宗教あれこれ




 
この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです。
ピーの寺院

1.4宗教あれこれ

ミャンマーではお坊さんの事をポンジーと呼ばれています。まだあどけない顔つきをしているやんちゃ小坊主が沢山います。彼らの多くは田舎育ちです。政府の学校へ通うに不便な場合や家庭が貧しくて学校へ行く事の出来ない子供たちは、僧院で読み書きの訓練や仏教の勉強の機会を持つ事が出来ます。この事はチベット仏教でも似たようなシステムがあります。師となる僧侶から色々な事を学ぶと同時に寺院内での雑用を引き受けます。托鉢にも廻る事もあるようです。・最近マンダレ一等の観光地のゲストハウス前に陣取り観光客専門で喜捨をせがむませた小坊主も登場しました。僧院での生活を通じて人はどのように生きるべきなのかを学ぶ事が出来ます。少しばかりうらやましいと思いませんか?現在の日本では算数や理科や英語等を教えてくれる所は沢山あるのですが、人はどうやって生きるべきかについて誰も教えてくれないのが現実ではないでしょうか?

ある友人との話ですが、この国での仏教界の影響はすごく大きいとの事です。人々は自分たちの食べる物を削ってもポンジー(僧侶)には、捧げ物をする習慣が強いそうです。その見返りとして、僧侶は人生如何に生きるべきかを説教する義務があるそうです。自分たちの家では、おかずは1品しかないけども、お寺には必ず2品あるそうです。とにかくお寺の財産は莫大な物があるように見受けられます。この事を考えて見るとまさしく宗教は麻薬にも似た性格を持つのではないでしょうか?
多くの乗り物は僧侶には、使先的に席を与えられています。超満員の乗り合いトラックにしろ市内バスの混雑ですら僧侶に取っては何ら不自由なく移動出来るのがこの国の光景です。先日乗船したマンダレーからパガンへ行く船では庶民は下部デッキでごった返していましたが、僧侶のグループは上部デッキの一角を利用し混雑に巻き込まれる事なく悠々と船の旅をしていました。そういえば同じ仏教国のスリランカのバスでは前部の2席は僧侶席と明記してありました。・
庶民の家は木造で極めて簡素ですが、お寺は立派です。仏教遺跡は石造りでしっかりしたものとなっています。一体どこからあのような材料を用意したものでしょう?最近日本のお寺も立派になりましたが、一時期は荒れ寺とか古寺などという存在があってまるでスラム地区の建物と何ら変わらない寺もあったのではないでしょうか?ここミャンマーでは、何処の町や村でも一番目立つ建物はパゴダか寺院です。これがその町のシンボルであり、道に迷っても仏塔を目印に歩けばわかり易いのです。日本だと一時期は生命保険会社のビルか銀行が立派な建物でした。最近バブルの崩壊で何かと影の薄い存在となりつつあります。今はNTTの中経塔が町の目印となる場合が多いようです。この国での仏教優先主義は何かしら徹底したものを感じてしまいます。
寄進の熱心な国です。私も今回カラオという所で小さな寺院を参拝しました。高額ではないのですが、比較的まとまったお金を寄進したら何かしら台帳に氏名を書き込まれ「貴方の資金で当寺院はタイルを一枚買う事になりました。」という領収書をもらいました。そういえば寺院のあちこちに誰がいつ・だれが・どれだけ寄付したかをべたべたと書いてあるのを見かけます。
20年程前の話ですが、これはお隣りのタイランドでの出来事です。日本の農業指導が奏をなして収穫が伸びたのはよかったのですが、その農民は所得のあがった部分を全ていつも世話になっている寺院へ寄進をしたという事です。我々の考えでは過剰所得の部分を次の生産性をあげる為に投資するのが当然と考えがちです。タイの農民の思考が不可解に思えます。
しかし立場を変えて眺めるとこれでも良い気もします。常に我々は生産性の向上とか効率等を考えがちですが、これらの行動が次第にエスカレートして際限がありません。我々は益々その深みにはまって抜け出す事が出来なくなるのではないでしょうか?果たして生産性の向上を追い求めた結果として人類は幸福になれるのでしょうか?最新の高性能の機器を利用した高品質、高水準なる社会に住む人々にとって、心の悩みを解きほぐしてくれる装置や薬は見当たらないようです。ここに仏教の定義の奥深さがあるのではないかと思います。

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