この記事は1998年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです。
1.3宗教は麻薬?
パゴーの寺院 |
オーム真理教の事件は数年前に話題にならない日がなかった程センセーションを巻き起こしました。この宗教団体は信者を完全にマインドコントロールしていた事も明るみに出ました。宗教は麻薬であるという言葉が証明されたようです。
これをミャンマーに置き換えて見ましょう。オーム教での上層部の指導者達が軍事政権だとすれば両者の共通性が見出されるのではないでしょうか。ミャンマーで、これ程迄に熱心に信仰心を持ち続ける事が出来るのは何故でしょうか?外部の社会の目からすれば人々は一種のマインドコントロールを受けているのではないかという印象を受けます。ミャンマーの軍事政権が日本のオーム真理教の幹部世界征服な
る野望を持って殺人等を唆しているわけではありません。逆にミャンマーは人間の欲望が去勢
されたが如く穏やかな道を歩んでいます。しかしミャンマー国民の全てを支配下に置く手段として宗教を利用したマインドコントロールが入り込んでいないでしょうか?
数十年間続いた半鎖国政策に依って外部の社会を知る事なく時間が経過し、人々の思考や価値観は我々のそれとは大きく開きを生じたようです。オーム真理教の信者達はコントロールを受けたとは感じていないでしょう。同様にミャンマーの仏教徒もそれは感じていないと思います。指導者層に依って国家の体制がこのように変化出来るのはどうも宗教を利用したマインドコントロールにあるのかもしれません。
仏教が浸透しその教義に従えば従うほど種、社会の近代化が阻害されている現象が沢山あります。回教の社会には一年に29日間の期間を設けて断食の月があります。この期間に入るとたちまちにして生産性がダウンするという話は良く耳にします。ネパールでは毎月お祭りがありますが、その多くは宗教に関連しています。ネパールの人々はお祭りが好きで仕事をしない怠け者の国民という評価も一部では在るぐらいです。産業の発展を優先として考えている社会に於いては宗教の浸透は産業拡大の障壁となっているようです。
しかし大きい視野に立って考えて見ると宗教というものは、人類が物質的にならない様にブレーキを架ける役目も担っているのではないでしょうか?宗教の浸透はすなわち精神性の発展とも読み替える事が出来ましょう。ですから現代の物質優先の価値観の中で育った我々が宗教に浸っている国に異様さを感じるのであって、それを信仰している社会にとっては何ら疑問も持たず健全な精神の発展が進行しているのかもしれません。
仏教の教えはそんな意味で全てを包み込んでしまうような何かを持っているのではないでしょうか?ここミャンマーの托鉢姿を見ていると僧侶はその家が仏教徒であろうと回教徒であろうとヒンズー教徒の家であろうと関係なしに立ち寄って行きます。そして異教徒の人々も何ら疑問を挟む事もなく寄進をしている光景が目に入ります。
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