2015年12月18日金曜日

ミャンマー事情2015 (14) まとめ

12年ぶりに訪れたミャンマーは変化したようでもあり、まだまだ変わっていない部分も多く見受けました。高速道路はマンダレーとヤンゴンを結ぶ一本しか開通していませんが、これからが期待されます。通信網もスマホと格安SIMの普及で大きく変わろうとしています。タイとミャンマーの国境が解放されて、両国民にとっては、ビザなして2週間の滞在が許可されるようになって4か月経過しました。これは外国人も陸路での入国が可能になりました。ヤンゴン環状線も日本製の中古車両が頻繁に運行されるようになりました。レストランも旧態依然とした屋台からモダンなマックドナルトやKFCも加わるようになりました。何でもありの社会です。

2015年12月17日木曜日

ミャンマー事情2015 (13) 友人

ヤンゴンの街並み(2002年)

1980年代後半からミャンマーを何度も訪問しました。今でもその頃知り合った友人との交流が続いています。南インド系のミャンマー人と知り合ったのは1987年の事でした。今回13年ぶりに友を訪問した時に、友人はしっかりと覚えていたのです。「私が結婚したのは1985年です。その二年後にあなたにお会いしましたよ」となれば、今は2015年ですから28年もの歳月がたちました。
出会いの契機は、私がカトマンズからダッカを経由してヤンゴンに向かうバングラデッシュのダッカ空港でした。当時はミャンマーへ行く旅行者はそんなに多くはありません。しかし、ダッカからヤンゴンへの唯一の足としてバングラデッシュ国営空港が週3便ダッカとヤンゴンを結んでいたのです。搭乗券を手にして待合室で出発を待っていたのですが、時間を持て余してしまいます。隣の席に座っている人に何気なく声をかけてみると、これからヤンゴンに行くとタミル系インド人でした。当時、私も覚えたてのタミル語で、いろいろな雑談をしている間にあっという間に時間が過ぎました。別れ際に住所を交換し、ヤンゴン市内で落ち合ったのはゆうまでもありません。この方がカシムさんでした。このカシムさんを通じて知り合ったのが今もお付き合いをしているラーマンさんです。

2015年12月16日水曜日

ミャンマー事情2015 (12) パゴー


今日はヤンゴンから70キロ北に位置するパゴーにやってきました。ヤンゴンから列車で2時間の距離が何と450チャット(45円)で移動できます。13ー16世紀にはパゴー王朝とかがあって、当時は繁栄していたようですが、今はヤンゴンに人口が集中し、人口22万の一介の小都市にしかすぎません。しかし、ここはミニヤンゴンとも呼ばれる様相を呈した町です。市内には教会、回教寺院そして仏教寺院が混在しています。インド系や中国系の人々も多く見かけます。パガンの場合は殆どがビルマ人なのですが、ヤンゴン中心部やここパゴーの中心部は人種が入り交ざっています。
駅は市内の中心部にあり、宿へは10分程度の距離です。昔に比べると交通量がぐっと増加したようです。道路を横断するのが一苦労です。陸橋はあるのですが、そこへ行くまで10分ほどかかります。すぐ向かいに到着したいのですから、ものすごく遠回りになり、せっかく設置された横断歩道は殆ど利用する人はいません。皆で渡れば怖くないという方式でお互いに、横断する人待ち構えて、連れ立って道を横切るのがこの国ではマナーなるようです。何しろ、町を縦断するかのごとく、国道一号線が走っています。朝晩問わず、うなりをあげて大型トラックや、バスそして、様々な車両が行き交っています。

2015年12月15日火曜日

ミャンマー事情2015 (11) 高速バスで


パガンからヤンゴンのルート
 (上記のデータは一部欠落しています。パガンから途中までGPSの信号が抜けています)

さて、パガンへは夜行列車で到着しました。帰りはどのような手段で帰ることになるのでしょうか?パガンからヤンゴンへは飛行機が数社運行していますが、いずれも一人100ドル超えてしまいます。所がバスだと⒑ドルで帰ることができます。しかも情報によると、朝8時半に出発して夕方4時半か5時半に到着するという話です。ええぇそんなに早く到着ですかね。一瞬耳を疑ってしまいます。最近、ミャンマーは、第二の都市マンダレーとヤンゴンを結ぶ高速道路が開通し、大幅な時間短縮になったそうです。友人と1997年に友人とミャンマーを訪問した時はバスでヤンゴンに戻りました。切符を買うときのふれこみは、エアコンバスということで、快適さに胸を高ぶらせながら乗車したものの、2時間ほどするとエアコンバスは他のバスに乗り換えとなりました。私達のバスが故障したからでもありません。乗り換えたバスは、エアコンは装備しているのですが、スイッチは入っていません。夕方4時半にパガン出発でしたから、ちょうど夕暮れの時間です。暑さも少しばかり和らいできました。どうも、これは罠にはまったようです。こうして、延々と曲がりくねった道を走り、翌朝8時頃にヤンゴン郊外で、パゴー方面に向かう交差点にたどりついた記憶があります。また2002年には、パガンからピィーという、ヤンゴンとパガンの中間にある地点まで、タクシーを借り切った事もありました。

2015年12月14日月曜日

ミャンマー事情2015 (10) 選挙前後



アウンサン・スー・チー女史の住居

アウンサン・スー・チー女史の住居

NLDの事務所兼土産もの販売所
11月8日はミャンマー選挙の投票日に当たりました。ミャンマーといえば軍事政権で前回の選挙結果は、民主主義を訴えるアウン・サン・スーチーさん側が勝ったにも関わらず、強権で軍事政権を維持し続けていることで内外の批判を浴びました。その後も暴動の抑圧などを続けている政府です。旅行に行く前からも、この時期のミャンマー旅行は止めたほうが良いという声も聞かれました。選挙が近づくにつれ、内外の報道は、何が起きるかわからないから、危険だという論調を流していたようです。まるで投票日は暴動が起きて、危機が迫ったような感じでした。

2015年12月13日日曜日

ミャンマー事情2015 (9)ポパ山


パガンから東へおよそ60キロの距離に土着信仰ナッツの神様を祭ったポパ山があります。ここへ行くには乗り合いタクシーが最も便利です。ここ、パガンのピンサ・ルパゲストハウスは一部屋20ドルで快適に過ごすことができます。日本語堪能な世話係、自称門前小僧という日本語が達者なミャンマー人が常駐しているので、何かと便利です。彼が言うには、「他で申し込むと10,000チャット要求されますよ。私は9,000チャット(900円)で手配しますよ。他の人に言わないでくださいね。」ということで明日の朝8時半出発の手配を依頼しました。

2015年12月12日土曜日

ミャンマー事情2015 (8) パガンの電動バイク


電動バイク
新旧織り交ざるミャンマー社会には驚きがあちこちに散乱しています。その一つが仏教遺跡として有名なパガンにある電動バイクレンタルショップです。最近ヒットした商売なるようで、中国製の真新しいバイクが並んでいるではないですか!過当競争のあおりを受けてレンタル料金は下降しているようで、一日借りると6000チャット、半日ならば3000チャットという料金になっていました。昔は貸自転車が主流だったのですが、今は7割ほど、この電動バイクの利用に切り替わったようです。しかも、免許証不要で利用できるのもうれしい条件の一つです。

パガンの遺跡は東西、南北それぞれ7キロ程度に広がった地域に寺院群が並んでいます。そんな中を移動するには、最適な交通機関といえるでしょう。何しろ工業地帯があるわけでもなく、市場周辺を除いて町はひっそりしているので、安心して走行することが可能です。ミャンマーの自由奔放な空気が、ここにも見えてきます。バイクを借用するときも、ややこしい契約書にサインするなど必要ありません。記載するのはどこの宿に宿泊しているかのみで十分です。ミャンマーの宿で宿泊する場合は、必ずパスポートのコピーの控えをとる規則になっています。なるほど、これなら肝心の要件に当てはまっています。宿もすぐ隣で、事故が起きた場合の対応にも問題はなさそうです。簡便な方法で効率の良いやり方かもしれません。
昔は長距離バスに乗る時は、事前に予約をして、当日名簿が作成してありました。係が氏名を呼び上げてから、順次みんなが席に着くという方法が採用されていました。何の混乱もなく、人々はこの方式に従っていました。最近は、この方法がかなり省略され、座席は指定してあるのですが、適当に客は乗り込むようになりました。

パガンには、様々な乗り物を見つけることができます。大型観光バスはお金持ちの外国人観光客を目的としているのでしょう。地元の人々は昔と変わらず、乗り合いトラックのチャーター便で名所を回っています。馬車で乗り付けるサンセットビューのツアーも人気があります。そして、日本でいえば平安時代の絵巻物にでてくるような牛車も見かけました。角は極彩色に塗られ大きな車輪を装備した二台はクッション付きの座席が準備されています。観光バスの乗客に田舎の雰囲気を味わってもらおうという魂胆でしょう。ある地点で客を下して、次の地点で待ち受ける仕組みになっているようです。川に目を向けると、手漕ぎ船から一見豪華なクルーズ船まで雑多です。

2015年12月11日金曜日

ミャンマー事情2015(7)旅の費用

会計報告

ミャンマーチャットの収支は

さて、今回のミャンマー⒑日間の費用はどのくらいになったでしょうか?資料をSCRIBEDに掲載しました。
ミャンマーの旅2015年は想定外の過小出費で無事終えました。噂では、ヤンゴン市内の宿代は高騰しているとの情報が数多くあり、アゴダやブッキング・コムなどのホテル予約サイトでも二人一室30ドル前後の宿を見つけるのは大変です。しかし、実際のところ明細にもあるように、ヤンゴン市内でも一室20ドル前後で快適な部屋を確保することができました。快適さについては、それぞれ個人の主観によって異なるでしょうが・・・・。
そして、食事代も結構安く済みました。何しろアルコール飲料はマレーシアに比べるとおよそ三分の一という低価格でした。ビール大瓶一本が180円程度の価格です。日中歩き回って汗を掻いた後のビールは食欲をそそることでしょう。
列車代金は以前は、外国人料金の設定があり、ヤンゴンからパガンの寝台列車は50ドルと表記されていました。今回は12ドル程度のチャット払いで、簡単に入手することになりました。ミャンマー国鉄の環状線も30円程度の価格です。しかし残念なのは川を挟んで対岸へ行く船は現地の人は20円なのですが、外国人は往復5000チャット(500円)を超える高い設定になっていました。わずか15分ほどの乗船なんですが・・・・
ヤンゴン滞在の基地ガーデンゲストハウス

採光もあり、まずまずの設備

トイレも清潔!ホットシャワーはなしでした。

5階(食堂)からの眺め

最初に泊まったホワイトハウス

ホワイトハウスはツィン32ドル

スーレー近くのしゃれた喫茶店

謎のオブジェクトがたくさん並んでいます。

食事はこんな感じ!

路上の喫茶店(椅子の高さに注目)

ビールが安い!70円(缶ビール)

パガン入域料金は20ドルに値上がりしていました。支払いはチャットでもOKなのですが、チャット払いの場合両替のレートは悪いようです。主要な寺院(シュウェダゴンなども料金がかかります)まあ、いずれの国も観光地では外国人料金が設定され、地元の人々の数倍の料金になっているのは仕方がありません。宿代金は今でもドル払いですが、政府は今後、これを撤廃して現地通貨での支払いに対応するそうです。
タクシーも結構利用しましたが、空港やバスセンターなどでは、交渉次第で半額に近くなります。地元の人々に相場をしっかりと確かめておくのが無難です。昔は闇両替が当然の事で、銀行での両替などは想像もつかない国でした。今はもう、国際水準そのもので、銀行の窓口で簡単に両替そして再両替ができるようになりました。よく見るとWESTERN UNIONやIMEなど、外国送金委託会社の看板を合わせて掲げています。外国への出稼ぎも旺盛になり、海外からの送金を待つ人々にとっては朗報です。ヤンゴンの街角にはATMのボックスが並び、その数は日本のコンビニの数にも似ているではないですか!その反面市中では、ボロボロのお札も流通しています。インドネシア同様で、1ドルが1000チャット以上の数字となっていますから、コインが存在しない国です。こうしたアンバランスに、庶民は不審さも感じることなく、日々の生活を送っています。

私達の旅のスタイルは、日本の年金生活者の個人旅行版に近いものかもしれません。旅行代理店を通しての個人旅行はいろいろと手配してもらうだけで、その手数料だけでも莫大な出費になります。かといって世界を放浪する若者達のようにたくましく且つ経済的な旅をするには、年輪を重ねすぎてしまいました。そんなわけで、その中間を行くようなスタイルになりました。そんな中でも、スーレーパゴダのすぐそばにある高級アイスクリーム・パーラー(アイスコーヒーシェイクが3500チャット)へも入りました。なかなかインテリアに赴きがあってくつろぎの空間に浸ることができました。路上の茶店はお番茶付きで300チャットの世界です。高級ホテルの滞在は遠慮しましたが、ヤンゴン市内で利用したガーデンゲストハウスも我々のお気にいりの一つになりました。部屋代は20ドルでバストイレそして冷房付きです。窓もありまんざら悪くはありません。頼めばタオルも毎日取り換えてくれました。クリーニングサービスもやってくれます。この宿はずうっと昔、私も何度もお世話になったことがあります。宿の主人そして夜警のおじさんも、何とか私の事を思い出してくれたようです。こうして、高い、安いを取り混ぜた楽しい旅になりました。まさしく格安旅行ミャンマー版(LCC方式)だったようです。

ミャンマーは今、大きく変わろうとしています。ここ数年急速に出入りしやすくなったのではないでしょうか!これを機会に、お出かけなさってはいかがでしょう。予算も工夫すれば、一日30ドル以内で収まります。ましてや、18世紀と22世紀が混同したような社会見学はさらにみなさんの興味をそそることでしょう。

2015年12月10日木曜日

ミャンマー事情2015(6)ミャンマー郊外


ヤンゴン市内バス199番
今日は日曜日です。ヤンゴン市内の交通渋滞は、日曜日が休みなので交通量は激減し、渋滞はほとんどありません。それを見計らって郊外の友人宅を訪問することになりました。スーレー・パゴダの真正面にある定宿ガーデン・ゲストハウスは、さすが市内の中心部にあり、どこへ出かけるにも、この周辺を起点にして市内バスが発着しています。バス停といっても、一方通行が多いので行先によっては、乗り場が異なりますから、5分ほど歩く場合もあります。友人から聞いていた199番のバスの終点で降りればよいということで、スーレーパゴダの南にあるバス乗り場に向かいました。バス乗り場といっても、標識があるわけでもなく、人だまりのあるところがバス停です。ここでも、異なった番号のバスが頻繁にやってきます。客の乗降が終わると即発車しています。日本のバス停は、親切過剰ともいえる程に、行先、時刻そして、予定のバスは何分後に到着予定するのかまで表示されていることを考えると、天と地の差があります。どれだけ、厳重に管理してお客様の便宜を図っても、想定外が発生し、バスが来ない時は、どうしても来ない場合もあるでしょう。その場合は、設置された数々の機器や表示は無効になってしまいます。ここミャンマーはそうした心配もなく、ただじっと目的のバスが来るまで待てばよいということになります。いや、このほうが自然なのかもしれません。
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道はがらがら
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日曜は渋滞なし
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Shwe Pye Thar終点
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友人宅にて
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質素な家にも祭壇
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友人宅
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ここに20名が下宿
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のんびりとした郊外
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ヤンゴン・マハバンドーラ公園
きょう訪問する友人は2000年ごろから私がお世話になっているインドカルカッタ郊外の僧院で知り合いました。当時彼はミャンマー西部のラカイン州から勉学の為、僧院で見習い小僧として暮らしていました。当時

2015年12月9日水曜日

ミャンマー事情2015(5)環状線

先日ヤンゴン市内の環状線に乗車してみました。いやはや、驚きの連続です。日本の援助を受けながら、整備中との事ですが・・・・。日本から輸入された中古のジーゼル車両が走っています。まさしく、JRと記載された文字がしっかりと残っています。車内には、私達になじみ深い形跡が随所に残っています。6-7番島状ホームを西側に進むと切符販売所があります。スタッフはにこやかに対応してくれます。以前乗車した時は外国人料金が設定され、確かその金額は1ドルだったかと思います。現在の相場からすると1270チャットになります。これが、今は車両によって200から300チャットで乗車することができるようになりました。
さて、窓口では、日本製のエアコン車両を自慢しています。幸いに待つこと数分で列車がやってきました。なるほど日本のローカル線を走っていた車両がやってきました。しかし、冷房といっても、ほとんどその効果はありません。窓は開け放たれた状態で走行しています。辛うじて前の一両目と二両目が少し涼しいという感じです。



2015年12月8日火曜日

ミャンマー事情2015(4)鉄道(パガン行き)

さて、今回はヤンゴンからパガンへの鉄道の旅を経験しました。噂通り、縦横、斜めに激しく揺れまくりました。それはまるで、ジェットコースターに乗っているような気分だったのです。ヤンゴンの駅はいつも閑散としています。駅構内には、新旧織り交ぜて様々な車両を観察することができます。日本のジーゼル車両を各種見ることができ、まるで生きた博物館のようです。
ヤンゴン駅構内では、当日分の予約しかできません。数日前の予約は予約センターに行くことになります。列車の予約は確か3日前から可能との事で、翌日の予約を狙ったのですが、残念なことに2つしか席がありません。結局もう一日ヤンゴンに滞在することになりました。ヤンゴン発夕方16時で翌日9時半にパガン到着の予定です。料金は16500チャットすなわち日本円に換算すると1650円です。距離はおよそ600キロほどですから、東京から神戸の距離です。しかも寝台列車となっているので、心が踊るのも無理はありません。事前にネットで調べると、結構体裁の良い車両になっています。

2015年12月7日月曜日

ミャンマー事情2015(3)交通事情



ミャンマーの街を歩く時に一番問題になるのが、道路の横断です。ヤンゴン市内はいたるところ交通渋滞を引き起こしています。12年前は市内から空港への道路は混雑もなく18キロの距離は市内バスで40分ほどで結ばれていました。今はタクシーでも1時間半から2時間かかるということです。なるほど、市内の目抜き通りは交通渋滞で信号を抜けるのに10分以上待たなければなりません。そして、所々交差点の要所は、立体交差の工事中で、車線が一つしかありません。これが完成すると、渋滞も緩和され、スムーズに流れるのでしょうが、将来の交通量の増加に伴って、同じことかもしれません。しかし、完成した立体交差の部分はスムーズに車両が流れ快適です。そんな流れの中にも、きわめて中古なバスがあえぐように必死に緩い坂道を駆け上がっていくのが印象的なミャンマーです。
この国のもう一つの異常現象は、車両が右側通行なのに、右ハンドルと左ハンドルの車両が混在しています。日本製の中古バス(京都市営とか静岡鉄道など文字が残っている)は、乗降口を無理やり改造して運行しています。その改造後がお見事で、器用なものです。韓国からの市内バスは改造の必要もなく、そのままヤンゴン市内を走行することができます。市内いたるところ、車両は増加したのですが、立体横断歩道の整備に追いついていません。ヤンゴンでの道路横断は結構スリルがあります。私達にとっては、左側を注目しながら、横断するのが常となっていますが、この国では、どうも戸惑ってしまいます。結局両方をしっかりと見定めた上で行動しなくてはなりません。運動神経、視覚神経をきりきり舞いさせながら横断することになります。しかも、みんなで渡れば怖くないとでもいいますか!仲間を誘って横断するのが無難です。

2015年12月6日日曜日

ミャンマー事情2015(2)通信


ミャンマーも今はスマホやiPhoneが急速に普及し始めました。今回は、ヤンゴンの空港で、パスポートを提示し、即購入してみました。私の使っているASUS社のアンドロイドスマホは購入してから一年経過していますが、本体に異常もなく、正常に稼働しています。昨年の旅行には、マレーシアでHOTLINK社のSIMカードを挿入して使いまくっていました。今回はミャンマーバージョンです。空港内にはMPT(ミャンマーポストアンドテレコム社をはじめ、数社がSIMカード販売のカウンターを持っています。さすが、空港では多くの外人が利用するのでしょうか!お姉さんは、手早く作業を進めていきました。まず、受付にあるスマホでパスポートを撮影し、基本データを保存です。完全ペーパーレス化しています。日本でSIMカードや電話の契約、そしてネットの契約をする場合は、住所氏名なんじゃら、かんじゃらと書類を記載して、サインもしくは捺印しないと成立ません。これは、日本よりもはるかに進んだ方法かもしれませんね。書類をたくさん作って保存しても、その管理に費用がかかります。何か事件が起きた場合にチェックするにしても、大変です。勿論、手書きまたは、人の手での入力作業を伴っての文書作成には、誤りが発生する確率は高くなります。こうして考えるとミャンマー方式がはるかに合理的でしょう。SIMカードカードそのものは、150円ですが、いわゆる通信料として前金を払う必要があります。私のミャンマー滞在は残り10日間ですから、3000チャット(300円)分を購入することにしました。カウンターの彼女は、手慣れた手つきでAPN、ユーザー名そしてパスワードを手動で入力してくれて、使える状態になりました。

2015年12月5日土曜日

ミャンマー事情2015(1)電気事情


ミャンマーは最近電力事情がすごくよくなりました。今回はヤンゴンとパガンそしてパゴーを訪問したのですが、こうした都市部や観光地では、電力事情が大きく改善されました。12年前に訪問した時は、ヤンゴン市内は、一日毎に停電の日と通電の日が交互していました。そんなわけで、どこへ行っても、路上もしくは、ビルの一角に巨大な発電機が装備されて、うなりをあげていたものです。ホテルで部屋を選ぶ時には、できるだけ発電機から離れることが鉄則でした。東部のモールメインという町を訪問したことがあります。当時の状況は悲惨そのもので、電線がたこ足配線のごとく、電柱と電柱に絡まっていました。ここ長い間電気が通じたことのない電線そして電柱が立ち並んでいたのです。夜行バスで長距離を移動すると、町や村の明かりを見いだすことは、皆無に等しかったのです。中継する地方都市は、少しは電気があるのですが、薄暗く周囲を照らしているだけでした。ミャンマーは、こうした状況からようやく脱却を始めたようです。

2015年11月4日水曜日

ミャンマー紀行2015(1)始めに

久しぶりにミャンマーを訪問しました。前回のミャンマー訪問が12年前の2003年でした。それより前はほぼ毎年ミャンマーを訪問していたのですが、長い間ご無沙汰していました。巷では、近年ミャンマーは、目覚ましい経済発展を遂げて物価が上昇して宿の確保が難しい等とニュースが流れている日々でした。そんな中で、今回機会があって、いつもの友人3名と共に、憧れの国、微笑みの国ミャンマーに足を踏み入れることになりました。
ミャンマーに最初訪問したのは、1985年頃でした。最初の訪問から30年ほど過ぎました。当時、ネパールへ足を運んだ帰りに、バングラデッシュのダッカ、そしてビルマのヤンゴンそれから、タイのバンコクへと途中下車をしながら立ち寄ったものです。当時の格安航空券はバングラデッシュの飛行機でした。確かカトマンズからバンコクまでは、片道200ドルの料金で二か所の途中降機が可能でした。
最初に訪問したミャンマーは滞在許可が一週間しかなく、洋酒一本とタバコ一カートンを抱えて入国すれば、現地の宿代金と生活費がカバーできるという不思議な時代でした。勿論、この時期は、インドでも、同様にお酒(ジョニーウォーカー赤ラベル)を持ち込むと倍の価格で引き取り手があまたで、30ドルの出資でリターンが30ドル(利益倍層)になった時代です。当時30ドルといえば、インドでは一週間の生活費に充当できる時代でした。インド西北部とパキスタンの国境にある、アムリッツアーという町で宿泊した時は、宿のボーイにせがまれて、私の着ている柄模様のYシャツがお気に召したようで、しつこくせがまれて、販売することになりました。その値段と宿の一泊の料金が同じだったことを記憶しています。又、日本製のライターが人気ある時代で、地元の人々へのお土産として、喜ばれた時代でした。当時流行したソニーのウォークマンやYASHICAのカメラなども、5割ぐらいプレミアムがついて販売できました。まるで、現在では想像できない時代です。このことは、深夜特急にも記載されていないようですが・・・。

2015年5月21日木曜日

またまたスンダリジャル

今日もスンダリジャルに出かけました。4月25日の震災の後二回目の訪問です。郊外には、又あちこち仮設テントで暮らしている人々もいます。古い家屋の再建には時間がかかるようです。そんな中でビジャイの家は、自分たちで仮設住宅!らしきものを作り始めていました。確かに彼らの生活水準は、以前に比べると良くなっています。5年前にビジャイの家を訪問した時は、ガスがなく、薪で台所仕事をしていました。それが、ガス台そしてボンベがあります。テレビも旧型のようですが、安全な場所に避難しています。今回訪問した時は親戚も一緒に仮の住まいをつくろうと頑張っている姿が見えました。でも、この地域はどうも地すべり多発地帯のようで、それが少し気にかかります。そして、勿論の事、商売の為の地酒作り(ロキシ)の製造中とみえて、かまどに火がP_20150521_125553P_20150521_125620P_20150521_141658P_20150521_141906

こうこうとしています。私も今回はささやかながら、資金援助です。私の提供する額は、雀の涙ほどしかないのですが、こうした難局を共にわかちあう心を汲みとってもらい、共有することで、確かな希望も湧いてくるのが常です。「これは、ほんのわずかで、足りないのは当然でしょう。でも、こうして少しでも役にたってくれれば嬉しいですよ。後は自分たちでどうやって暮らしていくか考えてくださいね。」いわゆる励ましという事でしょうかね。

2015年5月19日火曜日

NGOの現場

中国からの支援


昨日は、お米や他の食料などを準備して、いよいよ出発の日です。朝8時半に出発ということで、その20分前に現場に駆けつけると連絡を受けた場所に到着すると既に手配されていたミニバス(32人乗り)が現場に待っていました。
早速既に到着していたスタッフの流れ作業でお米40袋を車内に積み込み完了です。予定を少し遅れて835分に出発となりました。我々のグループは5名です。今回ミニバスを利用したのは、検問逃れというか、一種の偽装工作です。トラックに混載すると、救援物資を積んでいることが丸見えとなり、届け先や責任者などの確認の書類が必要となり、道中で何度かの検問にひっかかります。今回は、我々日本人と、風のスタッフ3名の合計五名です。私達が乗客として乗っていれば、何ら怪しまれることはありません。座席に荷物を積み込むのは少し面倒ですが、30キロの米を40袋ということは、20人の乗客が乗り込んだと同じ重量になります。エンジン快調で、別のグループと合流する場所に向かいました。
さて、15分程走ったところで、このミニバスは軽油補給です。元来、車をレンタルする場合、燃料代はお客持ちが習慣となっています。カトマンズからの乗客の動きは地震の影響で、ミニバスの需要は激減していますから、比較的安い価格で提供をしてもらうことが可能です。さて、ガソリンスタンドに到着したのですが、停電とかで、メーターが作動しません。急遽非常電源に切り替えたものの、油が入っている気配はありますが、値段と給油量の数字は同じ数を保ったままです。まあ、そんな事は気にせずに満杯にしていよいよ出発となりました。

2015年5月5日火曜日

ネパール地震(3)

小分けしたお茶セット

まずは、これを配給

集落に到着

駆け寄る人々
さて、地震発生から一週間以上経過しました。しかし今度は支援にまつわる不具合が沢山出てきました。日本の場合はシステムが順調に作動し救援活動がスムーズに進みます。しかし、ここネパールの現場では、今までにない巨大な地震が発生し、経験のない状況での混乱が続出してい