ヤンゴンの街並み(2002年) |
1980年代後半からミャンマーを何度も訪問しました。今でもその頃知り合った友人との交流が続いています。南インド系のミャンマー人と知り合ったのは1987年の事でした。今回13年ぶりに友を訪問した時に、友人はしっかりと覚えていたのです。「私が結婚したのは1985年です。その二年後にあなたにお会いしましたよ」となれば、今は2015年ですから28年もの歳月がたちました。
出会いの契機は、私がカトマンズからダッカを経由してヤンゴンに向かうバングラデッシュのダッカ空港でした。当時はミャンマーへ行く旅行者はそんなに多くはありません。しかし、ダッカからヤンゴンへの唯一の足としてバングラデッシュ国営空港が週3便ダッカとヤンゴンを結んでいたのです。搭乗券を手にして待合室で出発を待っていたのですが、時間を持て余してしまいます。隣の席に座っている人に何気なく声をかけてみると、これからヤンゴンに行くとタミル系インド人でした。当時、私も覚えたてのタミル語で、いろいろな雑談をしている間にあっという間に時間が過ぎました。別れ際に住所を交換し、ヤンゴン市内で落ち合ったのはゆうまでもありません。この方がカシムさんでした。このカシムさんを通じて知り合ったのが今もお付き合いをしているラーマンさんです。
当時ラーマン氏は、ヤンゴンの庶民の台所である市場で穀物商を営んでいました。恰幅の良く、浅黒い典型的なタミル人の容姿です。仕事は夕方6時頃に終わるので、閉店と共に外食に招かれたり、住居を訪問をしたり、別の友人を紹介されたりして楽しいヤンゴンの日々を過ごしていました。数年に渡って訪問している間に、友人5人と共同でインドへの穀物の輸出を中心とした事業を展開し、市内の中心部に事務所を構えるようになりました。郊外には、穀物の加工所と倉庫を設置し、絶頂期にあったようです。
郊外にある倉庫へは、当時は珍しく、ぴかぴかといっても中古ですが、その会社にはランドクルーザーがあり、あちこち連れて行ってもらいました。一度は軍の幹部の接待とかで食事に同行したこともあります。当時どこから入手したものか、SONYのビデオカメラが世界的に人気を誇っていた時代です。そんな時期にしっかりとビデオカメラも入手していらっしゃったわけです。
といっても、私はただの一介の貧乏旅行者で、空港と市内へはいつも51番の市内バスを利用し20円程度しか払わない人間です。しかし、ラーマン氏はそういった事は十分承知で付き合ってくれました。「困った事があれば、何でも相談してください」といつも好意を示してくれます。ある年に訪問した時は急に腰痛が始まり、一緒に薬屋さんで特効薬を用意してもらった事もありました。市内にある政府のアユルベーデック病院での治療にも手を貸してもらいました。薬草の音湿布療法でしたが、治療費は一回200円でした。数キロ離れたその病院へは、印刷業を営む友人の車(印刷屋の息子さんが運転)まで手配してもらうなど、多くの便宜を図ってもらいました。
さて、彼は一体そんな私に何故惹かれたのでしょうか?どうも、それは私がたどたどしいながらもタミル語を操ることができるのを知り好感を持ったようです。彼のお父さんは南インドからの移民でラーマン氏はヤンゴンで生まれた2世にあたります。お父さんからいろいろと話しを聞かされていたのでしょう。南インドは彼にとってあこがれの地だったのです。当時私は南インド各地の放浪をしていました。南インドの有名な寺院の名前や地名がスラスラと口に出てきます。当時の名前ではマドラス、今はチェンナイと名前を変更していますが、州都のチェンナイの会話にはやけに英語交じりで会話がなされます。余談ですが、純粋なタミル語はスリランカの北部、北東部にしか残っていないといわれるぐらいに、言葉はどんどん変化するものです。そんなマドラス調の会話が、友人には一層新鮮なものに映ったのかもしれません。
当時のミャンマーは半鎖国状態で、検閲や見張りなどが厳しく、自由な雰囲気はどこか隅っこに追いやれていた時代です。ある時は、乗り合いピックアップトラックを貸し切って空港まで見送りに来てくれました。しかし、私が車を降りるとそそくさと帰ってしまいました。何か見張られているような空気を感じました。本人もそのような事を簡単に述べて別れとなった事もあります。その時のラーマン氏の表情はどことなく、寂しそうだったのを今でも覚えています。「両替したけど使い残ったんですよ。再両替はできないみたいだしと感謝の意を込めて外貨をそっと手渡しをしました。当時の外貨両替は不思議な時代でした。宿代や鉄道料金などはドル払い、現地の食事は現地通貨のチャット払いと定められていました。公の両替レートは一ドル7チャットに対して闇両替は500チャットの時代でした。だれも公のレートで交換する人はいません。道端の両替商や、宿そして市場でこっそりと現地通貨チャットを入手した時代があったのです。別れ際の彼の表情は寂しそうで、「私も外国に出かけたいなぁ」と顔に描いてあったように感じてなりません。
数年もの間ミャンマー通いが続き、友人と共に訪問したのが1997年でした。今でも彼のアルバムには、友人の写真が鎮座してアルバムに収められていました。「お母さんは今元気ですか?」と尋ねられることもあります。今は98歳で、私にとって実の母ではないのですが、それに近い方と一緒にラーマン氏の自宅を訪問したこともあります。
さて、ラーマン氏は大きく事業を展開したのですが、5年前に赤字が続き、会社の株ががた落ちになって破産になりました。しかし、今はインドからの農業プラントを引き合わせる個人商社のビジネスを始めています。既に7件が成立し、順調に稼働しているそうです。今回私がラーマン氏の自宅を訪問した時も、インドからのプラント設計氏が彼の自宅に居を構え、二か月ほどヤンゴン郊外の現場へ行ったり来たりしているそうです。
他に今展開している事業の見積もりが何と3000万円を超える金額です。籾を乾燥して出荷するためのプラントです。現地の給与が2万円の世界とすれば、⒑倍程度の開きがあります。この事を加味すると3億円のプロジェクトに該当するではありませんか!いやいやビックな取引をしていらっしゃる事です。その手数料だけでも膨大なものになるでしょう。又出費も数々あるようです。インドからの訪問団の受け入れは勿論インドからの技師のサポートや、ミャンマーの実業家をインドへ案内したりなどしなくてはなりません。そうしたノウハウは、彼の人生の経験の賜物でしょう。タミル語、ミャンマー語そしてヒンズー語に堪能なラーマン氏の人生そのものです。おそらく私達の想像を絶する様々な苦難に遭遇された事でしょう。
さて、12年の空白があったにも拘わらずヤンゴンに到着して意外と早く連絡を取ることができました。以前もらった名刺に記載してある会社は倒産し、連絡はつきません。しかし、自宅の電話番号が記載されていたのを手掛かりにガーデンゲストハウスから電話をしてもらうと、聞き覚えのある声がするではありませんか!喜び勇んで愛にいったのは勿論の事でした。会社が倒産してから、以前あった住居は売却したようですが、その地に新しいビルが建てられたのですが、その二階に今の会社の事務所があります。自宅は勿論引っ越しをして歩いて10分ほどのマンション住まいです。昔頂いた名刺にある住所を訪ねれば、建物こそ違っても、本人がいらっしゃる事にも驚きです。住所も電話番号も昔のままでした。
始めて出会った頃は確か長男が生まれたばかりのころでした、今は30歳近くになり、自動車部品の輸入をしているそうで、最近の車ブームで順調に業績を伸ばしているそうです。私が夕食に呼ばれたある日は、コンテナが今日入ったので検品作業があるので帰宅は夜の⒑時過ぎになるとの事でした。他に次男と三男は双子で、まだ学校に通っています。彼らも私の事を覚えていたようで、私がテーブルにつくと給仕の世話をしてくれます。こうして一家を挙げてのおもてなしは、私の旅の心をいやしてくれるものがあります。
ラーマン氏は朝8時から事務所に入り、夕方6時半からは近くの喫茶店で知人達と情報交換というか、世間話をして過ごすのが日課になっています。知人といっても、皆タミル系ミャンマー人です。彼らがそれぞれ持ち寄った様々な情報を分析する寄合所みたいな雰囲気です。私も時々顔を出すのですが、近所のゴシップをはじめ様々な情報が飛び交いましう。彼もスマホを三年前から使い始めたそうで、フェイスブックからも様々なアップデートな情報を入手しています。
そんな中で彼らの悩みは次世代に対する文化の継承です。日常生活では、家の中意外はミャンマー語で暮らしています。彼らのような少数派にとっては、タミル語は話すことができても、書いたり、読んだりすることは苦手です。ラーマン氏の居間には中くらいの黒板があって、そこには、タミル文字で単語が並んでいます。雨、雲、風など簡単な単語が並んでいます。「これなら私も読める」話によると、現在のところ家庭教師を探しているそうです。なるほど、外国との取引にはやはり多言語でないと対応ができません。また言語が話せるから、対応できるとも限りません。その国の文化をどのように理解しているかによって大きく左右されるものです。人と人とのアプローチの仕方は言葉ができるだけではどうにもならない部分があります。
ビルマは英国の植民地だった時代に南インドから多くの移民が流れこんだ歴史があります。インド系の人々の多くはデルタ地帯での農作業に従事したり、政府の役人として任用された人々がいます。伝統的な金貸し業も多くのインド系の人々が昨今でも両替などの業務を引き継いでいます。数字に強いインド人とでも言いましょうか!ヤンゴン市内は一時外国人の数が80%にも達し、経済活動はインド人や中国人の手に握られていた時代がありました。デルタ地帯の地主もインド系が多く、ネ・ウイン氏の率いる軍事政権は強硬な政策で企業を次々と国有化し、商売も軍事政権の管理下に置く政策を取りました。1963年には、⒑万人とも20万人とも言われる人々がインドへ帰還したそうです。10万人といえば、大きな数字です。当時は飛行機の時代ではなく、船での帰還です。一隻の船に1000人を運ぶとしても、⒑万人の輸送には100日間毎日運航しなければなりません。タミルナードの州都で港の近くには今でもビルマバザールという有名な闇市場があります。前述のビルマへ足を運ぶきっかけとなったカシムさんはその名前がイスラム教徒ですが、ミャンマーから帰還した家族の一員でした。二か国語が堪能で商売に才覚があるこの人々は、密輸品を対象としたマーケットを拡大してビルマからの帰還後の生活を維持した人々も数多くあります。近年は自由化の波がどこにでも吹き荒れて、密輸品の売買での生計は難しくなったと思いますが、次回チェンナイを訪問するときには、この目で確かめてみたいものです。
ミャンマーの友人の話が長くなりましたが、ラーマンさんには、本当にお世話になりました。そして、これからも、気軽に国内の友人を訪問するかのような感覚で気軽に出入りを続けていきたいと思います。ラーマン氏の末永い無事と幸運を祈って、この章を収めましょう。
ビルマ社会主義については、以下の記事を参照ください。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/asianstudies/35/3/35_69/_pdf
20~30年前のミャンマーの様子は、今回旅して見たミャンマーとは 想像できない社会だったんですね。外貨両替もスムーズで問題なし。日本の方が大変でしょう。
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