久しぶりにミャンマーを訪問しました。前回のミャンマー訪問が12年前の2003年でした。それより前はほぼ毎年ミャンマーを訪問していたのですが、長い間ご無沙汰していました。巷では、近年ミャンマーは、目覚ましい経済発展を遂げて物価が上昇して宿の確保が難しい等とニュースが流れている日々でした。そんな中で、今回機会があって、いつもの友人3名と共に、憧れの国、微笑みの国ミャンマーに足を踏み入れることになりました。
ミャンマーに最初訪問したのは、1985年頃でした。最初の訪問から30年ほど過ぎました。当時、ネパールへ足を運んだ帰りに、バングラデッシュのダッカ、そしてビルマのヤンゴンそれから、タイのバンコクへと途中下車をしながら立ち寄ったものです。当時の格安航空券はバングラデッシュの飛行機でした。確かカトマンズからバンコクまでは、片道200ドルの料金で二か所の途中降機が可能でした。
最初に訪問したミャンマーは滞在許可が一週間しかなく、洋酒一本とタバコ一カートンを抱えて入国すれば、現地の宿代金と生活費がカバーできるという不思議な時代でした。勿論、この時期は、インドでも、同様にお酒(ジョニーウォーカー赤ラベル)を持ち込むと倍の価格で引き取り手があまたで、30ドルの出資でリターンが30ドル(利益倍層)になった時代です。当時30ドルといえば、インドでは一週間の生活費に充当できる時代でした。インド西北部とパキスタンの国境にある、アムリッツアーという町で宿泊した時は、宿のボーイにせがまれて、私の着ている柄模様のYシャツがお気に召したようで、しつこくせがまれて、販売することになりました。その値段と宿の一泊の料金が同じだったことを記憶しています。又、日本製のライターが人気ある時代で、地元の人々へのお土産として、喜ばれた時代でした。当時流行したソニーのウォークマンやYASHICAのカメラなども、5割ぐらいプレミアムがついて販売できました。まるで、現在では想像できない時代です。このことは、深夜特急にも記載されていないようですが・・・。
私のミャンマー歴の中で、友人と共に訪問したのは、今回で5回目になるかと思います。今は高齢で98歳の杉田三江子さんと一緒に訪問した記憶があります。八王子にお住まいの中嶋さんとは、二度出かけています。そしていつもの悪友中原さんとも足を運んだのは、2003年だったかと思います。そして、今回が岡グループとの同行です。どの旅を振り返っても、楽しい日々の記憶が甦ってきます。
こうして、私がミャンマーに深入りし始めて1985年に、南インド系のミャンマー人と知り合うようになりました。ヤンゴン市内にはインド街があり、昔から深く関わりがあります。旧名ビルマは、近代史では、英国の植民地時代が長く続きました。英国の直接統治というよりも、実際には英国領東インド会社の植民地支配といえるでしょう。そうした状況を背景として、多くの移民がインドから押し寄せることになりました。
さて、私がミャンマーに魅せられるのは何故でしょうか?
第一に記憶に残るのが、人の優しさそして穏やかさを挙げることができます。仏教国としての穏やかさはタイでも観察することができますが、タイでの日常生活はかなり西欧化の傾向を見受けます。しかし、ここミャンマーでは外部からの影響が少なく、仏教の精神が純粋に保たれているようです。なるほど経済的には、物質的には、日本とははるかに桁違いの水準ですが、彼らの日常を見ていると、何かしらほっとするものを見出すことができます。
そして、何かと親切な人々です。相互扶助の精神がもろに日常生活にしっくりと浸透していました。以前ミャンマーに西方に位置するラカイン州を訪問した時です。州都シトウェからミャウーに向かう船が浅瀬に乗り上げて座礁しました。男女問わず、川に飛び込んで、みんな力合わせて、人力で浅瀬から引き戻して無事到着した記憶があります。勿論、下半身は皆ずぶぬれでしたけど、難所を潜り抜けた後は、何事もなかったように、人々は談笑していました。この地域では時々、こうした座礁が起きるのでしょうが、それは、誰のせいでもありません。日本のように、責任を追及したり、非難したり、原因究明の分析をするよりも、まず、行動を起こし、現状打開のアクションが先という現実を思い知らされました。
また、ミャンマーが好きになった理由のもう一つは、インドカルカッタ郊外の僧院の件にもつながっています。ある時ヤンゴンからカルカッタに向かう飛行機の中で、ヤンゴン在住の僧侶が、インドの佛教大学へ入学するのに、搭乗しました。機内でこの僧侶で話を聞くと、何しろ初めての国外旅行、英語はほとんど話せません。インドの言葉も話すことができません。しかし、カルカッタ郊外の僧院に行けば、問題がないと知りました。しかし、そこへ到達するまでが大変です。それで、空港での税関や、入国などの手続きを一緒に行い、空港の外で、迎えが来るまで、一緒に待つことになったわけです。この件があってから、私のカルカッタ僧院通いも始まりました。ちなみに、この僧院はインド国内でも、東部に住む仏教系の住民を対象にして、学校も経営しています。僧院内の雰囲気はミャンマーそのものです。しかし、本家本元のミャンマーほど躾は厳しくはないようですが・・・。
こうした、さまざまな経験が、ミャンマーを身近なものにしてくれました。
(続く)
ミャンマーに最初訪問したのは、1985年頃でした。最初の訪問から30年ほど過ぎました。当時、ネパールへ足を運んだ帰りに、バングラデッシュのダッカ、そしてビルマのヤンゴンそれから、タイのバンコクへと途中下車をしながら立ち寄ったものです。当時の格安航空券はバングラデッシュの飛行機でした。確かカトマンズからバンコクまでは、片道200ドルの料金で二か所の途中降機が可能でした。
最初に訪問したミャンマーは滞在許可が一週間しかなく、洋酒一本とタバコ一カートンを抱えて入国すれば、現地の宿代金と生活費がカバーできるという不思議な時代でした。勿論、この時期は、インドでも、同様にお酒(ジョニーウォーカー赤ラベル)を持ち込むと倍の価格で引き取り手があまたで、30ドルの出資でリターンが30ドル(利益倍層)になった時代です。当時30ドルといえば、インドでは一週間の生活費に充当できる時代でした。インド西北部とパキスタンの国境にある、アムリッツアーという町で宿泊した時は、宿のボーイにせがまれて、私の着ている柄模様のYシャツがお気に召したようで、しつこくせがまれて、販売することになりました。その値段と宿の一泊の料金が同じだったことを記憶しています。又、日本製のライターが人気ある時代で、地元の人々へのお土産として、喜ばれた時代でした。当時流行したソニーのウォークマンやYASHICAのカメラなども、5割ぐらいプレミアムがついて販売できました。まるで、現在では想像できない時代です。このことは、深夜特急にも記載されていないようですが・・・。
私のミャンマー歴の中で、友人と共に訪問したのは、今回で5回目になるかと思います。今は高齢で98歳の杉田三江子さんと一緒に訪問した記憶があります。八王子にお住まいの中嶋さんとは、二度出かけています。そしていつもの悪友中原さんとも足を運んだのは、2003年だったかと思います。そして、今回が岡グループとの同行です。どの旅を振り返っても、楽しい日々の記憶が甦ってきます。
こうして、私がミャンマーに深入りし始めて1985年に、南インド系のミャンマー人と知り合うようになりました。ヤンゴン市内にはインド街があり、昔から深く関わりがあります。旧名ビルマは、近代史では、英国の植民地時代が長く続きました。英国の直接統治というよりも、実際には英国領東インド会社の植民地支配といえるでしょう。そうした状況を背景として、多くの移民がインドから押し寄せることになりました。
さて、私がミャンマーに魅せられるのは何故でしょうか?
第一に記憶に残るのが、人の優しさそして穏やかさを挙げることができます。仏教国としての穏やかさはタイでも観察することができますが、タイでの日常生活はかなり西欧化の傾向を見受けます。しかし、ここミャンマーでは外部からの影響が少なく、仏教の精神が純粋に保たれているようです。なるほど経済的には、物質的には、日本とははるかに桁違いの水準ですが、彼らの日常を見ていると、何かしらほっとするものを見出すことができます。
そして、何かと親切な人々です。相互扶助の精神がもろに日常生活にしっくりと浸透していました。以前ミャンマーに西方に位置するラカイン州を訪問した時です。州都シトウェからミャウーに向かう船が浅瀬に乗り上げて座礁しました。男女問わず、川に飛び込んで、みんな力合わせて、人力で浅瀬から引き戻して無事到着した記憶があります。勿論、下半身は皆ずぶぬれでしたけど、難所を潜り抜けた後は、何事もなかったように、人々は談笑していました。この地域では時々、こうした座礁が起きるのでしょうが、それは、誰のせいでもありません。日本のように、責任を追及したり、非難したり、原因究明の分析をするよりも、まず、行動を起こし、現状打開のアクションが先という現実を思い知らされました。
また、ミャンマーが好きになった理由のもう一つは、インドカルカッタ郊外の僧院の件にもつながっています。ある時ヤンゴンからカルカッタに向かう飛行機の中で、ヤンゴン在住の僧侶が、インドの佛教大学へ入学するのに、搭乗しました。機内でこの僧侶で話を聞くと、何しろ初めての国外旅行、英語はほとんど話せません。インドの言葉も話すことができません。しかし、カルカッタ郊外の僧院に行けば、問題がないと知りました。しかし、そこへ到達するまでが大変です。それで、空港での税関や、入国などの手続きを一緒に行い、空港の外で、迎えが来るまで、一緒に待つことになったわけです。この件があってから、私のカルカッタ僧院通いも始まりました。ちなみに、この僧院はインド国内でも、東部に住む仏教系の住民を対象にして、学校も経営しています。僧院内の雰囲気はミャンマーそのものです。しかし、本家本元のミャンマーほど躾は厳しくはないようですが・・・。
こうした、さまざまな経験が、ミャンマーを身近なものにしてくれました。
(続く)
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