2017年4月14日金曜日

2001年シトウェ(ラカイン紀行)



この記事は2001年にミャンマーを訪問した際の日誌を再編集したものです

1.     ラカインの話(はじめに)

ンガパリ・ビーチの夕日 2003年撮影
2001年から2002年にかけて再びミャンマーを訪問しました。今回の旅はミャンマー国内でもバングラデッシュと国境を接する西方のラカイン州を中心としたものでした。ミャンマーという国は日本の倍程度の面積があり、東西南北でそれぞれ異なった民族が住んでいます。従来の主要観光コースを外れると異なったミャンマーの素顔を垣間見ることが出来ます。それでは、今回の紀行文をじっくりとお楽しみください。





2.     ヤンゴン到着

バングラデッシュの飛行機はバンコク発ヤンゴン経由でダッカに向かうのが週一便で毎日曜日の運行です。これを逃すと1週間待機しなくてはなりません。TGUBなどは毎日2便運行されていますから便利ですが、この便が他の航空会社に比べると一番安いので旅人の間には人気があります。バングラデッシュ航空の特徴は安いということ、よく遅れるという2点を誇りにしているかのようです。この路線は座席が供給過剰ですから、満員で席が取れないということは殆どありません。まあ年末年始ぐらいが満席になる程度でしょう。時刻表では所要1時間となっていますが、大概の所40分ぐらいで到着ですが、その間に飲み物とケーキが手早く配られますから、乗務員も客も大忙しとなります。
今回のフライトは1時間の遅れとなりました。96年の12月にバングラデッシュ航空を利用してヤンゴンに向かった時は24時間の遅れになりました。この時は偶然にヤンゴン市内で爆弾事件が発生し、市内が騒然としたそうです。バンコクの空港では、単に飛行機の故障としか発表されませんでしたが、翌日ヤンゴンの市庁舎前はバリケードが敷かれ、戦車が2台威容を誇っていたのを覚えています。この場合は飛行機会社の責任ではないのでバングラデッシュ航空を責めるわけには行きません。代替として、ホテル一泊と三食を提供してもらい、丁度24時間後に目的地に到着しました。BG便の多くの乗客は経済的に節約タイプの人々で占められています。この国には現在も強制両替と称して、入国の際には一人当たり200ドルを交換しなければなりません。そんな理由もあって、元来入国時のカウンターに皆が競い合って並ぶのですが、ここでは、躊躇する傾向にあります。最後のほうに並んでいると強制両替を免れるチャンスが多いなどという噂もひろまり、誰もがしり込みしているのです。
入国手続きを終えると直ぐ前に両替のカウンターが並び、係官が数人鋭い目を光らせていますから、よほどのことがない限りここを強行突破するのは無理があります。今回の銀行窓口では、お姉さんが「あなたは、本当に200ドル使うのですか?何ドル両替をしたいのですか?」といって電卓をこちらの目の前に押し付けて来ました。数ドルの手数料を払って強制両替の額を引き下げる方法が大っぴらにまかり通っているようです。こちらは全額両替する予定でしたから、係りのお姉さんはがっくりしたようです。両替が済むと、税関のカウンターがありますが、2000ドル以上現金を持っている人は申告の必要があります。その他に特殊な電気機器をもっている場合も該当しますが、ここでは、単に品物に一応目を通し何やら紙切れにメモらしきもの書きとめ、それをパスポートに貼り付けてお終りです。そこを通過すると次の難関が待っています。タクシーの運転手と結託した優しき美人集団の政府観光局のカウンターが激しい呼び込み合戦を展開しています。ミャンマーが始めての人はこのお姉さん達の親切さに大感激するのは間違いありません。大体タクシーは市内へは一台2ドルの料金なのですが、3ドルや4ドルという価格を提示して交渉が始まっています。そのうち3人から4人集まると一人1ドルで良いですよという結果になり、多くの人々がこのあたりで手を打つことになります。
今回はそんな事情を十分承知ですから、勇気がいりますが、この前は素通りです。懐には前回の使い残りの現地通貨が少し残っています。市内バスを利用すれば、5円もかかりません。空港建物から大通りにでると今度はフリーのタクシーが声をかけてきますが、ここでは料金はぐっと下がり1,000チャットで市内まで行くとの事です。それにもひるまず、どんどん歩いてバス停留所へ向かって突進です。どうやら、もう一人私と同じ考えをもった旅人が歩いています。旅は道連れとかで、共にバス停に向かいました。話をきくとミャンマーははじめてとのことで強制両替を200ドルしたものの、現地通貨は持ち合わせていません。結局私が立替払いをして同じ宿に泊まり後でその金額を受け取ることになりました。同行したのアメリカ人はビデオカメラを持ち歩き、それを編集しホームページに載せて楽しんでいるとの話です。最近は商売につながっているとも聞きました。何かしろこのミャンマーに興味を抱いている様子でした。さて、20分位歩くとバス通りに出ました。飛行機は1時間遅れていますから、今は夜の8時過ぎです。この時間帯になるとバスの本数はガクンと減り、どのバスも満員です。彼は荷物が多いので満員バスに乗り込むのは一寸一苦労かも知れません。そんなことを案じながら待っていると、がら空きのトラックバスが通りかかりました。料金は深夜割増が加わり、一人70チャットでしたが、最初から座っていけるのが利点です。今回も通常の出入りを避けて特殊な方法で定宿ホワイトハウスに到着したのです。
バングラデッシュ航空の便は、毎週日曜日ですから、翌日は月曜日となり、通称アンサンスーチー市場が休みとなります。ここは現地通貨を両替するのに一番手軽な場所なのです。宿でもFECを現地通貨に交換できるのですが、1割ほどレートが落ちてしまいますから、こだわるタイプの我々はどうしても有利な両替を求めさまよい歩く羽目になるのです。と同時にこの宿では2泊せざるを得なくなります。さて、両替を済ませると一騎にお金持ちになった気分がします。これはインドネシアなどでは特に意識します。この国は1ドルが700チャットで100ドル交換すると70,000チャットという膨大な数字になります。しかし、上には上があるもので同じASEAN諸国の中でインドネシアなどは1ドルで10,000ルピアという数字ですから、100ドル交換すると1,000,000ルピアという現地通貨が懐に入り財布はずっしりと嵩張りものすごく得をした感じを受けるのです。ちなみにこの国の物価は一回分の食事は定食(肉料理)が300400チャット、市内バスが20チャット、長距離バスを利用して600キロ走って2500チャットそして喫茶店でコーヒーが一杯40チャット~50チャットという価格です。さて、これからが今回の旅の始まりとなります。

3.     ンガパリの印象

ヤンゴンからンガパリに行くには2つのルートがあります。一つは平坦な舗装道路を北西に向かって300キロ程の距離にあるピーという町から西に向かってアラカン山脈を越えタンゴックという町に至り、さらに南に進路を取り未舗装の狭い道を3時間ほど揺られてタンドウェを経由するのが主流です。もう一つのルートはヤンゴンから西に向かってグワという町を経由し、北上してタンドウェに至るルートです。どちらも夜行バスが数社運行しています。特にアウンテッサーという会社は何台も車両を抱え、この地域では幅を利かせています。どちらも道路事情は極めて貧困です。深夜の山岳道路を中古の韓国製のバスがフウ-フーと喘ぎながら坂道を登り、大きく何度もカーブを切り、今にも崩れ落ちそうな木製の橋を幾つも超えて進みます。今夜は月夜ですから、どのような場所を通過しているのかをはっきりとつかむことが出来るのです。どちらのコースも、夜行バスに乗った場合は道中検問があります。外国人も地元の人々も身分証明書を提示しなくてはなりません。グワ経由は道中一回の検問で終わるのですが、ピー経由の場合は2度行われます。しかも、それは深夜でちょうど眠りに入ったころに差し掛かり不便を感じてなりません。友人に聞くと、この地域はバングラデッシュからの不法な移民が通過する恐れがあるので特に厳しく検査しているとのことです。この地域(ラカイン州)へは外国人は身分証明書があれば問題なく行き来できますが、ヤンゴンに住む回教徒はどれだけ身分がしっかりしていても問題があるとの話です。行くのはいっこうに構わないのですが、逆に帰れない場合もあると聞きました。しかし、この難関さえ通過すると景色が良くて、素朴な人々の手厚い出迎えを受けるンガパリビーチが待っています。
バスは満席で出発です。この地域のバスは別名トラックバスとも呼ばれ貨客混合で走ります。車両によっては、後部の座席を三分の一は取り払い荷物専用にして走るバスもいます。この国ではトラックでの物資の輸送は長距離バスが代行している場合を良く見かけます。形はバスでも、実際は荷物専用だったりしますが、あれでは荷物の積み下ろしが大変です。人海戦術で器用に座席の下も荷物で一杯にしてから、乗客名簿を広げ、奥の座席の人から順に着席するという合理的な方法が取られています。先ほどまで荷物の積み下ろし専用で作業をしていた人が、乗客名簿を片手に客の名前を読み上げ順に座るように指示を与えています。このあたりの感覚は職業分業の進んだ隣国インドとは大きくことなります。この国では、リキシャの運転手は閑があると読書をしています。
さて、識字率は一般的にその国の文化水準の高さを測る指標となっていますが、この国を見ていると新たな発想が湧いてきます。ミャンマーでは、今も健在な寺小屋制度や、学校教育の普及で多くの人々が文字の読み書きにはたんのうです。しかし彼らは一体この武器をどのように利用しているのでしょうか?現代社会の情報の存在という問題を抜きにして語ることはできないでしょう。彼らが得た読み書きの能力がどのようにして社会の枠に位置付けられているものでしょうか?日本は識字率がほぼ100%に達している国で言論の自由を謳歌していますが、言論の自由は言葉の暴力と化す場合もあります。読み書きの能力は単にコミック誌を読むことのみに集中される今日の日本です。インターネットが普及してくるにつれ、人々は文字をゆっくりと消化する時間を失いつつあります。読み書きが可能となれば、様々なメデアを通して日常生活に反映され、次第に日本語の純粋性が失われていく傾向が続いています。家庭内での会話も時にはあっと驚くような表現が頻繁に取り交わされるのも珍しくありません。国会のやじ馬合戦も新聞に報道され、私達もそれを興味津々と呼んでしまいます。芸能誌などは巧みに読者を引き付ける手口を心得ています。となると、識字率の向上が私達の生活を豊かにしているという説には異論が出てしまいます。情報と一体化してこそ識字率の向上が私達の生活に恩恵を与えてくれるのではないでしょうか?
ミャンマーの人々が、お寺に参観にいくと熱心にジャタカと呼ばれるお釈迦様の絵物語に書いてある文字を読んでいるのを目にします。書籍と言ってもこの国では限られた内容のものしか発行されていません。また雑誌や新聞と言えども、仏教関係の書物を除いて、厳重な情報管制がなされています。それでも、人々はものすごく豊かに見えるのは何故でしょうか?日本のように、あらゆる類の書籍が巷に氾濫していても、我々はいつも心が不安定で揺れ動いています。何か事件が起こると、すぐにそれを知ろうと必死になります。そして、事件が事件を呼び、そのためにさらに活字と取り組まなければ気持ちが落ち着かないというジレンマに陥っています。私達自身、何が必要で何が不要なのか判断するのが不可能に近いほど情報の渦に巻き込まれているのが起因していると思います。そうして考えてみると、椰子の木陰で客待ちをしながら、仏教の説話本に目を通している人々のほうがうらやましく思えてなりません。言論の自由は西欧民主主義の原点として評価されていますが、それが原因で様々な社会問題を引き起こしていることも否定できません。
さて、もう一方インドと比較してみましょう。インドはミャンマーとは逆に識字率が低い位置にあります。文盲が多いといっても、決して彼らは不自由をしているわけではありません。読み書きが出来なくても、新聞に毎朝目を通さなくても、社会に何が起きているか、世界の情勢がどうなったのか、隣町ではどんな事件がおきたのかなどが、口コミという武器、マスメデアというTVやラジオの普及でいち早く知ることが出来ます。こうして日本、ミャンマーそしてインドを比較してみると、識字率が高いとか低いなどという議論には大きな意味のないことが分かります。話を簡潔な例で示すならば、識字率が高いと食品の製造年月日や賞味期限を偽って販売するという社会の悪がはびこる原因ともなります。識字率の向上が爆弾の製造などのように社会が破滅に追い込まれる場合も発生しかねません。識字率の向上以前に人間の道徳観を高めることが先決になるのではないでしょうか?
バスは朝の9時過ぎに新しく出来たタンドウェのバスターミナルに到着しました。以前は市場前のバス会社の事務所が発着場でしたが、最近になって変更したそうです。これは内外を問わず世界中が交通量の増加で市内への大型車両の乗り入れ規制や一歩通行などの措置を講じています。この小さな町は行き先によって4箇所のバス発着場があります。その中で一番大きなのがヤンゴン行きのバス発着場です。一部まだ工事中ですが、通称ビルトアンドユース(BuildUse)の方式を取っています。でも、4箇所のバス乗り場はそんなに離れていませんから、歩いていける距離にあります。時々他の路線の乗り物が越境し、客が他のバス発着場に行かずして、次の目的地にいけるように サービスの提供がなされることもあります。
タンドウェからは乗合トラックに乗り換えて30分ほどでンガパリビーチに到着します。ここまで来ると急ぐ必要はありませんから、喫茶店でお茶を一杯飲んでから出かけることになりました。この路線はいつも込み合っています。この地域に来ると乗り物料金はヤンゴンより2割から3割料金が高くなります。例えるならば、ヤンゴンからタンドウェは2500チャットですが、逆方向になると3000チャットとなります。これは、ヤンゴンでは燃料代が安いことに原因があります。日本では信じられない現象です。今は廃止になりましたが、同じ路線でも山道を走行する場合登りと下りで値段が異なった場合もあり、夜になると値段が急激に上昇することもあります。まさしく、経済の実態を反映しての価格体系だと思いませんか?
昨年もこの宿を利用しましたから、これで連続4回目となります。毎年設備が更新され、客足も伸びているそうです。今回はクリスマスの前でもあり、満室ということでしたが、何とか便宜を図ってもらい特別室の利用となりました。他に5人ほど客が押しかけていましたが、部屋数が不足して対応できません。私は屋根裏部屋を格安の料金で全室占領です。二階にありますから、眺めも良く風通しも良く快適です。屋根裏に通じる階段を登ると寝室ですから、鍵がありません。でも、ここは治安が良く、善人説が通じるミャンマーですから、盗難などの心配は全くありません。貴重品もザックに放り込んで鍵をかけたまま放置しても何事も起きませんでした。一方5人の外人は、従業員の宿舎部分を開放し、カーテンで仕切った大広間を利用することになりました。ほんの一足先に私が受付の門を叩いたのが大きな差をつけてしまいました。
初めてこの宿を利用したのは今から4年前になります。その時はちょうどクリスマスの日で宿は混雑していました。当時はピーから日中ンガパリ方面に向けてバスが運行されていましたから、それを利用したのです。バスの終点タンドウェについたのが夜の9時で周囲は真っ暗でした。明るい間ならばビーチに行く乗合トラックがあるのですが、この時間ではもうありません。不幸なことにこの町で外国人の利用できる宿はありません。しかたなく、16キロ離れたリンターウーへタクシーを利用して出かけることになりました。夜ですからタクシーの料金も割高で確か2ドル前後だったでしょう。何しろ初めての土地ですから、どこをどのようにしてタクシーが走っているのか分かりません。ただ一言リンターウーに行きたいという旨を運転手に伝えてあります。他にも宿があるのですが、10ドル以上しますから、庶民の味方はやはりこの地域ではリンターウーしかありません。タクシーが宿に到着です。もう10時近くですから、周囲はシーンと静まり返っています。宿の明かりも何となく薄暗い感じで、人気をあまり感じません。まるでお化け屋敷に踏み込んだ気分です。しかし、今はクリスマスで部屋は満員の様子ですが、宿のオーナーの特別配慮で部屋を準備してもらうことになりました。ピーを朝9時に出発したのですから、もう半日以上経過しています。一刻も早くベッドに横になりたい気持ちで一杯でした。波の音が直ぐ側で聞こえ、すぐ側が海辺だということを知りました。心地良い波の音を枕にして、ぐっすり眠ることが出来たのです。
ここ数年間従業員の顔ぶれに変化はありません。毎年この宿を訪問しているので皆顔なじみになってしまいました。早速昨年撮影した写真を配布すると皆から歓声が沸きあがります。そもそも、この宿は職住一体となり、宿の敷地内に従業員の宿舎が並んでいます。勿論その中には家族宿舎もあり、子供たちはここから学校に通い、年とともに成長しくのが分かります。日本の永久雇用制に似た部分があると思いませんか?これと対比した方針をとっているのが、隣のシーブリーズという高級ホテルです。ここはドイツ系の資本が入り本部はヤンゴン市内にあり、従業員の多くはヤンゴン在住の若者です。給料は毎月50ドルでリンターウーの一ヶ月3000チャット(5ドル)に比べると格段に好待遇です。昨年の為替レートは対ドルで300でしたから、3000チャットということは、10ドルそして今回はチャットが暴落し5ドルに目減りです。こうなると外資系の会社に就職するのが有利なのは当然です。しかも、彼らは一年の半分はここンガパリの宿で仕事をし、残りの半年はヤンゴン市内で同じ会社の別の部門で働くことになるそうです。就業規則も西洋方式で休憩時間もあり、休日も保障されています。しかも、一月の給料のほかに食事代も支給されるという好条件です。しかし、若い人々にとっては、ヤンゴンと違いここは田舎の村で毎日の仕事は単調そのものですから、ある意味では島流しに似た部分も見えてきます。特別な娯楽があるわけではありません。そんな彼らの楽しみは、隣のレストランで毎日乾杯することのようであります。時々彼らに混じって様々な話を聞くのが楽しみになりました。リンターウーの経営方針と新手の外資系の経営方針が今後どのような経過をたどるものか興味深い部分があります。今後も両者をじっくりと眺めていきたいものと感じています。リンターウーの従業員は夕方になると決まってセピロックとい球技を楽しんでいます。ハイ・シーズンでものんびりした構えがミャンマーの良さなのかも知れません。
訪問の度にリンターウーはその施設徐々に新しくしていきます。今までは旧式の大型超ウルサ自家発電装置は、最新の英国製の弱音型に切り替えとなり夜は静かにうなりを立てています。周囲の様子も客の増加に合わせて変化の一途をたどっています。今までは2軒しかなかったレストランが6軒に増えましたがが、その中で昔からあるのがチョウさんの経営するBEST Friendsという庶民的な食堂です。チョウさんは昔外国人専用のホテルでウェイターとして働いていたことがあるそうで、ミャンマー人には珍しく、英語もたんのうです。今は自分で独立してレストランを経営しています。はじめは簡素な設備でしたが、次第に調度品も整ってきました。調度品といっても、ここミャンマーのことですから、素朴な竹製品が主体で全体的に簡素な構造になっていますが、やけに夜のイルミネーションには凝っています。ここは常に客足が絶えることはありません。一人で客の応対、会計、料理をこなしている姿はまさしくスーパーマンそのもので、忙しそうに振舞っています。時々デザートをサービスしたりするのが、彼の商売の秘訣なのでしょうか?常に微笑みを絶やさず快活に行動していますから、傍で見ていても気持ちよいものを感じます。最近は奥さんも仕事を手伝っています。片言の英語で美味しいかいと質問してきます。
そんなチョウさんのレストランは繁栄の一途をたどっています。昨年からは、店の数が3倍になりましたから、競争が激化する一方ですが彼らには焦ったけはいを感じることはありません。一年を通して半年しかレストランはオープンしません。雨季になると、それぞれが別の仕事を抱えているとの話です。このチョウさんも例外ではなく、お父さんがバナナ畑を持っているので雨季になるとその手伝いで忙しいと聞きました。夕方この通りを歩いていると、かなり遠くからでも客引きが「当店へどうぞおいでください」と声をかけてきます。でも、良く調べてみると親戚同士が店を開いているようで、チョウサンの隣の店は彼のおじさんの経営になっています。そんな過当競争の世界でも、さすがに老舗で若い経営感覚を持ったチョウサンの店は大繁盛なのです。彼には小学生の可愛い娘がいて時々私も遊び相手になりますが、概してミャンマーの子供たちは顔見知りなどすることはまずありません。本当に人懐っこく、すぐに見知らぬおじさんの膝の上にチョコンと乗っかりご機嫌にしています。二人で分かったような分からないような会話をしては楽しんでいます。先日はこのチョウさんの店が満員でいつになったら私の食事が提供できるものか定かではありませんから、その娘を連れて隣の店に入ってみました。案の定そこは親戚の経営ですから、娘も店の誰が誰かを知っていました。そんな具合ですから、この地域では商売もまろやかに、ミャンマー的に行われていると言えるでしょう。リンターウーの併設レストランに比べると雰囲気はかなり落ちますが、価格は半分です。ある意味では気楽にくつろげるレストランといえるでしょう。ミャンマーの外国人宿では朝食を無料でサービスしている場合が多いので、朝は殆ど客が入りませんから昼食と夕食時が彼らの稼ぎ時となります。そんな場所へ毎日通うようになり、最後の夕食は彼の招待となり、お金を払う段階になると受け取ろうとしません。新鮮な魚介類をふんだんに味わうことが出来るのもンガパリの楽しみの一つと言えるでしょう。ここンガパリは素朴なスタッフそして、恵まれた自然を満喫できるのです。タイランドのビーチのようなけばけばしさは全くありません。透き通るような海ときれいな砂浜を求めて各国から客が押し寄せるようになりました。しかし、現地へのアクセスがまだ整備されていません。飛行機の利用は片道70ドル以上かかり、バスでの移動は前述したように一昼夜かかります。だからこそ大量の観光客が流れ込むことがないのかも知れません。
さて、もう一つンガパリでは風変わりな喫茶店があります。リンターウーから南へ海岸線を40分ほど歩くと小島があります。満潮になると膝まで海水につからないと島に到着できません。そこには決まって当直のおじさんが客待ちをしています。この喫茶店は小島全体が喫茶店となり、180度海を見渡すことが出来ます。ンガパリではこの小島に立ち寄ってお茶を飲むことも楽しみの一つとなりました。実直そうなおじさんは、ヤンゴンの会社から派遣されてここに居を構えています。かなり年配のおじさんですが、英語もそこそこに話しますから時々客が立ち寄り、お茶やビールを飲んで帰るようです。

4.     タンゴックからシトウェの船旅

ンガパリビーチをあとにして、次の目的地シトウェに向かわないといつまでも体がなまってしまいます。今日が決行ということで、慣れ親しんだリンターウーとお別れです。あれあれ、季節外れの雨がやって来ました。タンドウェからタンゴックまではバスで2時間、乗合トラックで3時間と聞いています。午後2時の出発までまだまだ時間があるので、近くの茶店で休憩していると、何か見覚えのある人がバイクで通りかかりました。よく思い出してみると、リンターウーの従業員です。バイクの後ろには奥さんを乗せて走り去りましたが、ものの数分もしない間にUターンです。話を聞くと、奥さんをコンピューターの教習所に送っていったそうです。勉強時間は4時ごろ終了するのでまた迎えにいくそうです。旦那が奥さんの為にバイクで16キロの道のりを送り迎えです。奥さんが勉強している間、亭主はボケッと時間待ちという微笑ましい光景に出くわしました。この旦那にお茶をごちそうになり、最後はヤンゴン行きのバスまで見送ってもらうことになりました。来年もこの人々との交流が出来ますように。こんな田舎にもコンピューターブームが沸き上がっています。
情報規制が何かと厳しいこの国は、一時電子メイルの利用を認めていましたが、なぜか突然中止となりました。IT産業が全世界に広まっている近年、乗り遅れては大変ということで、自由に利用出来るようになりましたが、政府が好ましく思わない情報のやり取りが頻繁に行われ、それに業を煮やした政府は即中止命令を発し増した。しかし、再度復活したようです。電話局に行くと今まで見かけなかったインターネットのカウンターが設置され、英語とミャンマー語に限って利用可能と明示されています。料金も1時間1ドルと手ごろな価格に設定されています。街角でも電子メイルの店を見かけました。昔は一通につき1ドルでしたが、今はその五分の一の料金でやり取りが出来るようになりました。いずれは、ンガパリにも電子メイルで宿の申し込みをすることが出来るようになりましょう。しかし、停電や電話の回線状況が改善されるまでにはまだまだ時間がかかりそうです。
さて、バスは田舎道を快走して行きました。出発は30分ほど遅れましたが、ミャンマー時間のことを考えると遅れということにはなりません。このバスはタンゴックを経由してヤンゴンに向かうバスです。ちなみに料金は700チャットですから、大体100円ちょいの価格です。この国の交通機関の安さは定評があります。長距離になるほど値段は安くなり、我々旅行者にはありがたい話です。ここタンゴックも小さな町で、一回りするには30分もあれば事足りてしまうサイズです。バス停の近くに2軒のゲストハウスがあります。その中で一番立派そうに見える宿を選びました。勇ましくロイヤルホテルという名前を付けていましたが、中身はやはりミャンマー仕立てです。料金は一泊2ドルですから無理もいえないでしょう。受付のお兄さんは、ミネラルウォターをサービスとして手渡してくれました。部屋に入るとむっと干し魚の匂いが立ち込めています。ラカイン州は海に囲まれ、海産物で有名です。カニ漁の季節には生きたカニが箱詰めにされ、それが通路をびっしり敷き詰めるというカニバスが出発するのもここタンゴックが基点になります。多分前の客が行商の関係で部屋に干物を持ち込んだからでしょう。そんな干物の匂いもしばらくすると鼻が麻痺し、何にも感じなくなりました。ベッドは清潔に手入れがなされています。部屋の隅にはテーブルがあり、灰皿と扇風機が乗っかっていますが、今は停電ですから、扇風機は作動してくれません。でもそれがこの国では当たり前なのかも知れません。夕方になると突然轟音が響いてきました。さて、一体何の音なのでしょうか?と同時に電気がオンになったのです。宿のすぐ側はこの町の発電所だったのです。巨大な煙突から煙を上げ、町中に電気を配っているのです。しかし、この巨大な発電所も2時間ほどすると元の静寂を取り戻し町中が暗闇に包まれるのです。幸いにこちらの宿は発電機がありますから、さらに2時間程延長して電気を供給してくれるのです。9時を過ぎると町の明かりは消えうせ向かいの喫茶店は蓄電池利用で細々と蛍光灯を照らしていますが、ロイヤルホテルはこうこうと明かりをつけているのです。
この宿は思いのほかに親切な面が多くあります。「明日は船に乗ってシトウェに向かいたいのだが、船の便はあるだろうか」宿の側も心得たもので、ここへ宿泊する外人の多くは、船を利用してシトウェに向かっているようです。しかし、船は毎日出港するのではありません。直ぐに港湾局に電話を入れて確認を取ってくれました。明日は12時に出航の予定で、デッキクラスが9ドル、船室だと54ドルという答えが跳ね返ってきました。さて、一体どんな船が待ち構えていることでしょうか?そして、どんな港なのか心がワクワクしてきます。出航まで時間がありますが、乗り遅れては大変ですから、早めに桟橋に向かうことにしました。船着場といっても町の中心部から3キロ離れていますから、歩いていくわけには行きません。宿の前で待ち構えているサイカー(人力車)を利用して港まで向かいました。港と言っても、ここは単なる川の一部です。川といっても、対岸まではわずか20メートル程度しかありませんが、そこには大型の鉄鋼船が待ち構えていました。一目でこの船がシトウェ行きということがわかります。しかし、この船本当に大丈夫だろうかと不安が募るばかりです。船体は錆びだらけでペンキがあちこち禿げかかり、速度も出そうにありません。一応ミャンマー政府の内陸河川運輸公社なる建物には料金表と船のスケジュールが張り出されています。
デッキは既に先客が思い思いの場所に荷物を置いて自分達の座る場所を確保していますから、そこへ割り込むのは至難の業というものでしょう。実はこの船の運賃は外人用と現地ミャンマー人用とは大きく異なります。地元の人々は400チャットなのですが、私の払った金額は9ドルすなわち6300チャットです。その開きは16倍にも達しています。それを知ってか、一階の甲板から二階の甲板へ移動してもクレームはつきません。私が外人だということがわかったようで、乗務員が特別に椅子を用意してくれました。このデッキのこの場所で、この折りたたみの椅子を抱えて23日の船旅が続くのだろうかと感慨深くなってしまうのです。54ドル払うと4人部屋のベッドを確保できるのですが、どうも料金が高くて手が出ません。今は気候も温暖だし、雨のけはいもありません。時にはデッキで夜を明かすのもまんざら悪くはなさそうです。この国では僧侶と外国人を手厚くもてなしているのではないかと錯覚さえします
いよいよ船が出港です。予定より30分遅れて13時に動き出しましたが、GPSで速度を計ると時速4キロという数字を示しています。これは人間の歩行速度と同じです。こののろまなる速度で進むならば300キロほど離れている終点シトウェには何時到着するのか分かりません。蛇行する細い川の中を、小船を避けながらゆっくりと進んでいきます。所々田園風景が展開し、マングローブの林が開け、のんびりとした空気が漂うのは良いのですが、行けども行けども速度は上がりません。地図をみると、この地域は湿地帯で、川、海、島、沼の区別がつかない場所なのです。2時間ぐらい進み、視界が開け広々とした海が見え、遠くには島影が姿を見せました。ここでようやく船の速度が上昇しましたが、10キロ少々という走り方ですから4キロとは大差はないのですが、心地よいエンジンの響きを聞いていると一応気分が落ち着くものです。
船内には様々な客が乗り込んでいました。昨年からヤンゴンとシトウェを結ぶ道路が開通し直通バスが運行されました。それまではこの船に頼るしかありません。船といっても、大体23日が標準で場合によってはそれ以上に時間がかかることもあります。船の中で寝るということは地元の人々にとっては当然のことと解釈しています。ヤンゴンで仕事をしていて、今は休暇で実家へ帰る人、シトウェで軍の技術学校の試験を受ける高校生、ヤンゴンで商売を終えてばかりの人、ヤンゴンとシトウェを定期的に海産物の運び屋をしている人など皆楽しそうに時間を過ごしています。船という乗り物は一度出発すると、乗客全員が運命共同体という状況に置かれますから心が和むのも当然かも知れません。脱出することは不可能だし、盗難や暴力事件などが皆無と言えるのが船の旅の良さでしょう。船の後部には簡素ながらも食堂もあり、12時と5時過ぎにはいつも満杯となります。専属のスタッフが朝から夕方まで台所で忙しそうに働いています。魚や肉、そして卵などのカレー料理が準備されています。簡単な食事ですが、ご飯は食べ放題ですから嬉しいものです。これで料金は300チャットですから、場所を考えると決して高くはありません。朝はパンやコーヒー・紅茶などが並んでいますから、食べ物には一応不自由を感じることはありません。そんなゆっくりとした旅は時代を遡らないと見出すことが出来ません。飛行機などが世界をどんどん狭くしていますが、21世紀の現代社会でこのような悠久とした旅のできる場はそう多くはありません。周囲の景色は単調なのですが、電線が張りめぐされることもなく、電柱や電波塔など皆無です。そして、資本主義社会の代表格なる看板や広告を目にすることもありません。それらが、私達にある安らぎを与えてくれるのかも知れません。
一人の学生が遠くから私を覗き込んでいましたが、意を決したかのようにミャンマーなまりの英語で話しかけて来ました。彼らにとって外人と話しをする機会は殆どありません。多分彼にとっても初めての経験だったのかも知れません。会話の内容は言うまでもなくテキスト通りで極めて一般的なものなのですが、必要以上に丁寧な表現が使われると意味が不明瞭になるものです。それにもひるまず、彼は私の返事を聞かないうちに次の質問を発しています。この威勢の良い英語には感激をし、呆れ返ってしまいます。彼が後で自分が使っている英語の教本を見せてくれました。そこには、本人が書き記したと思われる問題集の解答をみると、文法的には間違いも少なく、きれいな筆跡を見ることが出来ます。これは、ちょうど一昔前の日本の英語教育に似た部分を感じ取ることになりました。読んだり書いたりする力は十分あるのですが、発音にものすごく大きな狂いが生じています。私はそれを推測しながら聞くのに精一杯でした。彼らは生の外人の英語を耳にすることはゼロに等しい状態です。ヤンゴン市内の学生達ならば、ラジカセを利用して、テープを聞き続ければ耳が慣れてきますが、こういった地方では、教科書の文字を通して学ぶしかありません。よしんば、ラジカセがあったとしても、この地域の電力の供給事情は最悪です。一日に3時間も通電していれば良いと言えるでしょう。しかも、それは町に住む人々の場合は恩恵を受けることが出来るのですが、村に住んでいるとなれば、まずは電気というものがないのが当然です。それに比べると日本の教育事情はどうでしょうか?あらゆる設備や機器が整っている中でも、登校拒否という問題が発生しています。子供達は本当に学ぼうという気持ちを持ち合わせているのでしょうか?教育の問題もこの国をじっくりと眺めて原点から考え直しても良いのかも知れません。
学生グループの中で一番威勢の良い16歳のモンチット君とは早速住所交換です。それを待っていたかのように彼の友人達が思い思いに手帳持参で、あなたの住所氏名をここに書いてください依頼が押し寄せました。こうなると、全く色紙でサインをする有名スターと立場は同じです。私の周囲は人垣が出来、学生グループ以外の人々からも住所をくださいと依頼が続きました。中には身分証明書用の写真を貼り付けて、「これが私の住所です。お顔見知りを!」というタイプまで登場しました。そんな船の旅は退屈することがありません。何時の間にか日が沈みましたが、まだ船はエンジンをうならせながら動いています。深夜の11時にようやく、本日の目的地チャオピューに到着したのです。
さて、ここで三分の一程度の客が下船しました。下のデッキには安楽椅子が20台ほど並び、一人500チャットで貸し出しをしています。用意してもらった折りたたみの椅子よりも快適そうです。当方もこれをレンタルすることになりました。所定の料金を払い自分の寝る場所を確保できました。船員達は親切そのもので、荷物には十分注意するようにと指示を出してくれました。今夜はここで船は停泊し、明朝まで動きません。何人かは、真っ暗な船内を懐中電灯頼りに船を下り、近くの食堂まで行って休憩しに行きました。私もこのグループに加わり、軽い食事を摂って船内に帰りました。船はエンジンを止めると電気も止まってしまい、周囲は真っ暗闇となるのです。もうこうなると朝までじっと待つしかありません。以外とデッキは快適な休み場所になりました。海の上ですから、予想した以上に冷え込みはなく、少し肌寒い感じはしましたが、安眠できそうです。しかも、何の音も聞こえません。静寂そのものです。そんな中でいつのまにかうとうと眠りこんでしまいました。
さて、朝5時を過ぎると再びエンジンが始動し、夜明け少し前から船は移動を開始しました。今日こそシトウェでベッドの上で眠れると思うと嬉しくなります。何時にシトウェにつくのか船員に聞くと、今夜の9時ごろという話でした。他の乗客に聞くと、「今日は着かないよ、明日の朝になるよ」という返事が返ってきました。果たしてどちらが正解なのでしょうか?今日も船はのんびりとマイペースで動いています。ごく稀に集落を通過することがあります。海面すれすれの所で作物を栽培していますから、地球温暖化がはじまるとこの地域は完全に水没することになるでしょう。今日も一日船旅をたんのうできました。水面に落ちる夕日は刻々と空の色が変化し、壮大で飽きることがありません。あと何時間かするとシトウェだという期待感をよそに、船は川の中腹で立ち往生という感じで突然エンジンの回転を止めてしまったのです。これは、故障でも何でもありません。後で分かったことですが、この地域は小さい漁船の出入りが激しく、所々に魚網が仕掛けてあるので、暗くなると安全を取って夜が明けてから動くということでした。ああ、期待したシトウェは何と遠い町なのでしょうか?今は日没になったばかりで午後7時です。明日の朝明るくなるのは6時前ですから、11時間動かぬ船の中に又缶詰になってしまいました。誰も不平を言う人はいません。全員又お休みの体制を整え始めました。
ようやく周囲が薄明るくなり始めました。同時にエンジンが回転をはじめ船がゆっくりと錨を上げて出発進行です。しばらくすると遠くにシトウェの町並みが目に入りました。動き出してから3時間、待望のシトウェに到着です。シトウェの沖合は大きな船から小船に至るまで忙しそうにあちこちで見かけます。かもめが私達を出迎えてくれました。所々に網を仕掛けた形跡を見ます。これだと、暗くなって走行すると魚網を引きちぎることになるでしょう。皆待ち遠しい顔をして遠くのシトウェの町を熱心に見つめていました。23日の長旅お疲れ様でした。

5.     シトウェ

シトウェの船着場は他の桟橋同様に河口に位置しています。ちょうど干潮の時間で川は水位が下がり、河川は更に細くなっていました。そんな川は大小の船舶で渋滞です。しかし、速度は至って緩いので衝突しても転覆する心配はありません。ここがミャンマー西部の州都ラカインです。町はベンガル湾に面して大小の島影を見ることが出来ます。カルカッタ郊外にある僧院の人々が自慢しているラカイン州最大の都です。船を降りるときは少しばかり興奮するのは当然でした。船内で出会った人々は思い思いに散って行きました。私もサイカーを利用して大通りに向かいました。
東南アジアの港町といえば、バンコク、ヤンゴン、バングラデッシュのチッタゴンそして、インドのカルカッタなどが有名でいずれも大きな河口を利用した港ですから、日本の海岸に位置する港とはその光景を異にしています。ここシトウェもその一つで、行き交う船を多く見受けます。沖合には大型の船が停泊していますが、首都の港に比べると見劣りします。いずれもオンボロ船が殆どを占めています。カルカッタ郊外にあるラカイン寺の主席僧侶の説によると、ミャンマー国内のラカイン州は一番開発が遅れていると不満を訴えていました。現在のミャンマーは大半を占めるビルマ族が政権を握っていますから、他の州への投資は遅々として進行しないのが実情です。しかも、ラカイン族とビルマ族は歴史を通して何度かしのぎあいをしてきた宿敵の関係もあります。歴史的な対立が地方の開発を暗礁に乗り上げるケースは世界各地で見ることが出来ます。ひいてはそれが武力衝突に発展する場合もあります。スリランカの北部は少数派のタミル系住民が多く住んでいますが、現政権のシンハリ人は自分達の領域を中心にしてインフラの整備を手がけます。その結果不満が高まり、暴動に至り独立運動まで発展しています。この問題は単純に語ることは出来ません。他の要因も重なって事態が更に大きくなっていくものです。
概して、どの国でも、国境付近や辺境の地へのインフラの整備は時間がかかります。まずは国内の中心に位置する場所から整備を手がけていくのが当然です。緊張する国境地帯に莫大な投資をしてインフラを整備する発展途上国は皆無でしょう。ある程度国家の基盤整備が進展すれば、タイランドやマレーシアのように国の隅々まで立派な道路が整備されるようになるのですが、今のミャンマーは内陸のヤンゴン、マンダレーなど特定地域の整備をするのに精一杯です。何しろ非民主主義の国として、西欧諸国やアメリカから経済制裁を受け、外国からの援助額が限られていますから、自分達の手で橋を作り、道路を作るしかありません。しかし、この地域に足を踏み入れて見ると、開発の難しさを実感するものがあります。水面ともつかず、陸地ともつかない海抜0メートルの地域で、橋を作るにも、道路を作るにしても莫大なコストがかかるのが分かります。同じ地形を持つバングラデッシュは外国の援助を受け国の隅から隅まで道路が整備され、快適な移動が保障されるようになりました。しかし、ここシトウェからヤンゴンへの道路は昨年開通したばかりですが、バスを利用すると23日必要とのことです。道路は出来たのですが、がたがた道の連続との話です。飛行機は庶民にとっては高値の花です。道路が開通する以前は船とバスを乗り継いで34日でヤンゴンに到着したそうです。いわゆる陸の孤島ともいえるでしょう。
それでも、ここは州都としての活気がありますが、電気は一日3時間ほどしか供給されません。幸いホテルは自家発電装置を駆動して更に2時間ほど延長です。目抜き通りの中心部は舗装してあるのですが、所々アスファルトがはがれてガタガタ道となっています。そんな中をサイカーが、オンボロトラックが走り回っています。そんな中で目立つのが仏教寺院です。町はオンボロですが、寺院は立派というのがミャンマー各地での発見です。この町を訪問する外国人の数は限られています。その分人々の親切は又格別なものがあるのです。

6.     古都ミャウー

シトウェからミャウーは直線距離で80キロほどあり、現地の人は最近開通した道路で往復出来るのですが、外国人は船を利用するしかありません。朝の7時に船が出港しますから、当日は暗闇の中を起床して2キロほど離れている船着場に向かいました。この港は細い河口を利用して幾つもの桟橋があり、それぞれ行き先が決まっていますが、そんなん中を目的の船を探すのは一苦労です。今日は政府の大型船ではなく、民間の小船が割り当てになっています。所でこの民間の船は評判が好ましくないようです。外人は10ドル請求されますが、地元の人々は500チャットですから、その開きは14倍にも達しています。外人組は申し訳程度に椅子席が用意されていますが、同じ船ですから、速度も到着時間も変わりはありません。政府の船は外人が4ドルという料金が設定されていますが、民間の船は強気に出ているようです。
さて、この小船はもう足の踏場もないほど満員で、船底にも荷物を満載しています。とにかく、今も地元民の大切な足なのです。通常5時間から6時間で到着とのことですが、積載過剰のためか、船足が重く速度はあがらず、トロトロと走るのみです。しかも、朝は霧が立ち込めていますから、尚のこと慎重に運転しています。とその時、ガツンと音が響きました。案の定この小型船は座礁です。周囲に大きな岩場があるわけでもなく、平坦は川を走っていたのですが、霧で対抗する船を避けようとして左側に寄りすぎて浅い河床に乗り上げてしまいました。しかも、干潮気味で川岸が次第に広がりつつあります。全員蒼白となり、船は次第に傾きはじめました。それにあわせて乗客からどよめきの声があがってきます。
さて、船の若い衆は早速、ルンギを捲り上げ、川に入り込み船を押し出して浅瀬から引き出そうとしています。他の人は竹竿を手にして、乗り上げた暗礁から脱出するのに必死です。乗客の中にも、勇敢な人が現れて10名ほどが協力し始めました。その中には腰まきをしたままの女性も数人含まれます。なるほど、ミャンマーの女性の強さを改めて意識したのです。この様な光景は隣のバングラデッシュなど回教の信者には信じられないことかも知れません。イスラム教の教義では男は強いものであり、女性を庇わなければならないとされています。所がこの国では非常事態になると、そんなことはお構いなしで川に飛び込んでいます。とにかく、このような事態では大人数で押せば効き目があるのは確実です。およそ30分の格闘の後、船は無事浅瀬から遠ざかることが出来、何事も無かったかのように動きだしました。しかし、このようなことは頻繁に発生しているようで、誰も気にしないようです。積載過剰ですから、乗客がトイレにいこうとして立ち上がると船はバランスを失い、グラリと揺れてしまいます。まあここならば、タイタニックが沈んだ海のような氷河の流れる冷たい水ではありません。沈んでも命は助かることでありましょう。しばらくすると霧も晴れ、船はトントンという感じで北へ北へと進路を取っています。5時間ほど乗ったでしょうか?遠くに低い山並みが見えてきました。あれが、古都ミャウーのようです。電波塔が高くそびえていますから、大きな町に違いありません。ようやく、3時過ぎに船はミャウーの船着き場に入港したのです。
船着き場にはいくつもゲストハウスやホテルの宣伝を兼ねた看板が目につき、宿の客引きやサイカーなどが客待ちをしていますが、誰も私の方を振り向きません。同じ船に乗った外人は地元の人々に囲まれ宿の斡旋に翻弄されていました。こちらは、まずは近くの喫茶店でお茶を飲んで軽いものをつまんで休憩です。店の親父に聞くと町まではそんなに遠くないそうです。しかし、ここまで来るとやはり田舎です。普通は、ミャンマーの喫茶店は何種類ものお菓子を皿に盛り上げてお茶を出します。皿に乗っかっている商品は手をつけたものを清算することになっていますが、このひなびた桟橋前の喫茶店で何か食べるものというと、パンにコンデンスミルクをぶっかけたものが登場しました。でも、食べてみると美味しいものであまりゴタゴタ飾りつけをしてないところがお気にいりとなりました。
さて、町の中心までは歩いて15分ほどです。ぶらぶらと歩いていると目的の宿が目に入りました。早速交渉ですが、他の国と違って、値切ることも必要ありません。相手のいうままで、宿代金は1,000チャット、夕食が1ドルで700チャットという良心的な値段です。部屋は日当たりも良くシーツも清潔で一応手入れが行き届いています。しかも、宿のスタッフが親切でいつも笑顔を絶やすことがありません。2階にはテラスがあり、夕食はそこで摂ることになります。この宿には数年前、技術援助関係の日本人が下宿していたそうで、彼が記念にこの発電機をプレゼントしてくれたことを仕切りに自慢していました。話を聞くと、この宿がミャウーで一番初めに外国人の世話をしたのということを誇りにしています。この地域では、外国人が泊まれる宿としての許可などは関係ないようです。他の州では、受付の前には必ず政府観光省の許可証が分かりやすい場所に貼り付けてあります。外人宿泊の許可を持たない宿が外国人を泊める場合は所轄の警察に連絡をし、事情を説明して許可得るのが常ですが、ここでは、そんなことはビルマ族の政府が決めたことで私達はラカイン族で違うんだという気持ちが働いていると考えるのは憶測が過ぎるでしょうか?
所でこの町は夜になるとお寺から大きなスピーカーで説話が町中に響いてきます。宿の人に、あの音は何とかならないものかと言うと、いやぁああれは最高、あれを聞いていると眠くなるんじゃないと答えが跳ね返ってきたのには驚きです。彼らにとっては、真夜中を通してうなりを上げる歌ともつかず、お話ともつかない騒音を神聖なものとして感じているのです。これには感心もし、呆れ返るのであります。
この宿では都合3泊したのですが、夕食はいつも3品おかずがつき、ご飯は食べ放題でおまけにスープもついています。外へ食べに行くのが面倒になるので夕食は3度ともこの宿のお世話になりました。家庭料理を自慢としているので、海老や魚などの食材をマイルドな味付けで提供してくれました。建物は木造の簡素なもので、トイレも一部はミャンマースタイルですが、この宿の人々の素朴な応対が気持ち良く、他の宿に引っ越すなど考えも及びません。町を散歩していると全くの偶然で5年前にヤンゴンのホワイトハウスで受付の仕事をしていたアーシュウェにばったりと出くわしました。彼は現在ヤンゴンで外資系の化粧品に勤務し、営業で地方を駆け回っています。生まれ故郷はラカイン州ですから、本人にとっては地元です。今日で仕事が終わり、明日はシトウェを経由してヤンゴンに帰るそうです。時間があれば、この町を一緒に案内してあげるのにと残念がっていました。その代案として、大学時代の同級生を紹介してくれました。彼はここミャウーで金細工のお店を抱えています。しかも、この店は5時で閉店です。最後の2日間は夕方になると、彼とこの町を散歩することになりました。
この町の遺跡群はパガンほど大きくありません。パガンの場合だだっ広い敷地に何千というパゴダが乱立しているのですが、ここは以外と規模が小さく1日あれば主要な寺院を見て回ることが出来ます。パガンは平原に遺跡があるのですが、ここは丘の中に遺跡が点在しているともいえます。その中でもシッタウン・パゴダというのがもっとも有名な寺院で、一つの建物内部に何千という石仏像が安置されていることで有名です。外国人はここで5ドルの入場料を請求されるのですが、私には、誰も、何も請求してくれませんでした。そんな嬉しいことも時には起きるものです。しかし、遺跡の修復はパガンに比べるとまだまだです。
ラカイン王国というと、その文化は一時バングラデッシュのチッタゴン付近まで勢力を伸ばし、現在のミャンマーの多くの部分を支配していた時代がありますが、今はミャンマー国内でも他の州に比べて整備が遅れているのは事実です。歴史書によると、この王国が全盛のころは、日本のサムライが傭兵として、この地に住んでいたとあります。世界各地から交易があり、アジアとヨーロッパを結ぶ重要な港だったそうです。そんなことを思い浮かべながらの遺跡巡りも楽しいものです。その後何度か訪れた河川災害で当時の王宮は土に埋もれ、外壁を留めるだけとなりました。しかし、今でも、ラカイン様式の仏教建築はバングラデッシュでも数多く見ることが出来ます。
宿の人も親切、町の人も親切しかし、犬だけがやたらと吼えてくるのが悲しい町なのです。元来人がおとなしければ、犬もおとなしいというのが通説ですが、この地域の犬は見知らぬ人に対して特別敏感なのかも知れません。閑に任せてもう一つの宿を探訪してみました。ここも親切な宿です。私が外国人でミャンマー語が少し話せると分かりコーヒーやお茶を接待してくれました。建物はまだ新しく2年前から開業したロイヤルゲストハウスです。この国はあちこちに同じ名前の宿があります。よほど、ロイヤルという言葉が好みなのでしょうか?明日は政府の大型船が入ってくるから、その翌日はシトウェに引き返すとの情報もここでしっかりと把握することが出来ます。そんな中、3人のイタリア人家族が船を貸しきってシトウェに帰るので、貴方も一緒に乗ってはいかがかと話を持ちかけてきました。料金は他の人は10ドルだけと、貴方は4ドルでOKとなり、話はまとまりました。
さて、翌朝約束の7時半に船着場から近いロイヤルゲストハウスに向かいました。狭い河口で今は引き潮で水位が下がっています。そんなところに政府の大型船が定刻の出発を待っています。少ない水量の川の中を満員の乗客を乗せたまま、巧みに誘導されて、向きを180度反転させての出発です。この作業が終えてから私達の専用船が出航です。ミャンマーでは譲り合いの精神が第一の生活の前提となっているようです。裏を返すと妥協こそ最善の解決策という意味も含まれるのですが、それで問題が解決すれば悪くはありません。ロイヤルホテルの話によると、政府の船は各駅停車だから、到着するのは夕方4時で、貴方の乗る船は貸し切りだから、12時過ぎには到着しますから快適であるという説明がありました。
貸し切り船とは豪華なもので、全員で4名の客に3名の乗組員という構成です。軽やかな音を響かせながら、はじめは快適に進みましが、1時間後にはエンジンを停止して川淵に漂着してしまったのです。即乗組員が川に潜り、船体の横を修理です。エンジンルームの排水が不調で、室内は水浸しになっています。ポリタン改造バケツで水をくみ出し、塩化ビニールのパイプを切り、交換用の排水口を補修しようとしています。一度は治りかけたのですが、30分もしない間に同じことを繰り返すばかりです。もう停止してから1時間も経過しています。これだと、本当に12時に到着するのか危うくなるのも当然です。合計すると2時間程度が修理に時間をとられ、今日は夕方遅くなるのではないかと心配になります。船のエンジンの音が高いのにも拘わらず、時速12キロしか出ていません。さて、午後を過ぎると速度は休息に上昇しました。1時間に16キロと伸びています。周囲を良く観察すると、引き潮です。潮の流れに乗って船は今までとは異なり、飛ぶような速さに変身し、先に出発した大型の鉄鋼船を追い抜いてしまいました。この時は心の中でどっと歓声が沸きあがりました。こうして、船は2時前に目的地シトウェに入港したのです。ミャウーはまだまだ観光開発が遅れていますが、人々の心は純真そのものでした。いつか又この地に足を踏み入れることがあるでしょう。

7.     再びシトウェ

シトウェで船を降り、サイカーで前回利用したパラスホテルに向かいました。今度はサイカーの料金が100チャットです。前回は200チャットでしたが、どうも、本来は100チャットが通常の価格のようです。早速タウンゴックへの船の手配をしなくてはなりません。宿のすぐ側にはマリカエクスプレスという高速船の事務所があるのですが、今日は年末で休みです。事務所の掲示板の前に張り紙がしてあるのですが、その内容が良く分かりません。宿のお嬢さんにご足労願い内容を確認する必要があります。彼女の話によると、本当は月曜日にあるのだけとも、今日は日曜日で事務所が休みで、翌日火曜日に高速船が出発するという広告がはってあったようです。そんな訳で、シトウェには連泊することを余儀なくされました。タンゴックからシトウェには政府の船で到着です。決して悪くはないのですが、時間がかかりすぎるのが難点です。思い切って一度は乗ってみたかった高速船を利用することに決めました。この船は10時出港で5時到着という時間帯ですから、何時に到着するか全く不明な政府の普通船より大幅に時間を短縮することが出来ます。まずは切符の確保が第一です。
さて、当日9時出発というので、8時過ぎに宿を出て、一番乗りで専用桟橋に駆けつけました。ここで外国人はバスポートの簡単なチェックがあります。どうも、今日は出発が遅れるような話が出ました。結局10時半過ぎの出発となりました。この船は我々外国人にとっては50ドルという大金ですが、地元の人にとっても普通の船で行くのに比べると10倍以上の価格が設定されています。それでも、座席は7割程度埋まっていました。庶民は400チャットの普通船デッキクラスを利用していますが、この船はやはり、客層が一段と上級向けになり、スーツケースを下げた人々を多く見受けます。さて、船に乗って見ると、座席の前にはマレー語の広告が貼り付けています。船内いたるところにマレー語の表示があります。察するところこの船はカリマンタン島のサラワク州で、河川交通機関として役を果たしていた中古船です。そんなことはどうでも良いので、とにかく動いてくれて、今日の夕方までにタンゴックに到着すれば、幸せそのものなのです。そんなことはお構いなしで、出発時間はじわじわと遅れていくのです。
いよいよ出発です。やはり噂どおりこの船は快適に走行しました。前回利用した船とはえらい違いです。全席冷房完備ですから、エンジンの音は殆ど聞こえません。まるで、すべるかのように快走です。最高時速60キロを誇る快速艇です。しかも、船は荒波の中を航行するのではなく、まるで鏡の上のような静かな水面走行ですから揺れも殆ど感じません。乗客には水とお菓子のサービスがありました。この調子で走ってくれると夕暮れまでに、目的地に到着することは間違いありません。しかし、この船も夕方になると、がたんと速度を落としてしまいました。終点が近くなると、再びゆっくり走行となりました。周囲は暗闇と化し、ほそぼそとしたカンテラ風のトーチライトで川面を照らしながら進みます。この付近は川が大きく蛇行している上に、幅も狭く、時々手漕ぎ船が横断することがありますから、そんな中を高速で走っていれば、事故のもとです。さて、終点まではどのくらい離れているのでしょうか?そんな暗闇の中、1時間半を経過してようやくタンゴックに到着することが出来ました。
船着場も暗くて足元をはっきりと見ることが出来ません。そんな暗闇の中をたくましくも、サイカーの運転手が声をかけています。トラクターバスが客の呼び込みを始めています。到着が遅れたこともあって、乗客は争ってトラックバスやトラクターバスに乗り込んでいます。こちらも負けずに何とか席を確保することが出来ました。車掌がヤンゴン行きのバスはまだあるからと説明しています。さて、こうして時間が遅くなると乗り物料金が高騰するのはミャンマーでは良くあることです。今回は3キロの距離で一人200チャットという料金です。運転手は一刻も早く出発して、もう一度桟橋に向かい残っている客を早く拾いたいのでしょうか、猛スピードで突進していきます。私の乗ったトラックは暴走しすぎて途中で前のトラックバスに追突しノックダウンをしてしまいました。もうこうなったら歩くしかありません。やむなく月明かりを頼りに20分ほど市街まで歩くことになったのです。
ラカインの旅は振り返ってみると苦しいものがありましたが、それが、幸いして味わいの深いものへと転化していったのも事実です。こうして、ラカインへの第一回の旅は無事終了しました。明日はヨーマ山脈を越えてピーの町に向かう予定です。ここへは、明日友人が訪ねてくることになっています。その友人のことについては次の章をごらんください。

8.     農家の青年の物語

トンと出会ってからほぼ一年が経過しました。今でも、当時のことが目に浮かびます。ピーの町から山越えをするとタンドウェという町に行くことが出来ます。この町から30分ほどラインカーに乗るとミャンマー随一の海岸ンガパリビーチです。このビーチを訪問するのもこれで3回目となります。初めてこの海岸に出かけのはクリスマスの夜で、どこの宿も満員で時間も遅く10時過ぎに宿の門を叩きました。そんなときに気持ち良く受け入れてくれたのがリンターウーという宿です。それ以降、この宿の親切さと素朴な海岸線が気に入りたびたび足を運ぶことに なりました。夜行バスは9時過ぎに終点に到着し、乗客は疲れた様子でそれぞれ思い思いの場所に向かうべく、サイカーやトラックバスに乗り換えをしていきます。私もンガパリ方面行きの乗合トラックに乗ろうとしたときに、一人のミャンマー青年が声をかけて来ました。「貴方はどこに行くのですか?」本人も同じ方向にいくとのことでした。彼はこの地は始めてとのことです。「それでは、一緒に行きましょう。でも、その前にお茶でも飲んでから行きませんか?」と近くの喫茶店に誘いました。これがきっかけで、標準的なミャンマーの農業青年の姿をつぶさに観察することが出来たのです。
彼の話によると、この村で漁業の手伝いをしている同じ村の出身の友人を頼って出てきたそうです。農家の長男で、下には二人の弟がまだ学校に通っています。今年は米の価格が暴落して、農家の手取り収入が激減したとの話は以前友人から聞きました。今は乾季で村では仕事はありませんから、出稼ぎをかねて数ヶ月働く予定でこの場所に向かいました。荷物といっても殆ど空に等しいナップザックを背負っただけでした。トラックバスが宿の前に着き、私は宿へチェックイン、友人は漁村の方へ別れたのですが、その前に「もし、困ったことがあったら必ず私に連絡してください」と念を押しました。宿で一休みしてから直ぐ前の海岸を散歩していると見慣れた姿を見かけました。トンが遠くから手を振っています。話を聞くと、「友人はこっちではなくあっちの村にいる」とのことでした。どうも昼飯も食わずに友人を探し回っているようです。とにかく一緒に昼食をとり、英語の分かるレストランの主人に通訳をお願いして、実情を把握することが出来ました。「友人が見つからなければ、お寺に行けば泊めてもらうことが出来ます。食事も問題がありません。ですから心配しないでください」
結局その日は友人に会うことが出来ず、漁師の家にお世話になったそうです。翌日は頼りにしていた友人が今はこの村を離れていないことを知ったのですが、とにかく沖にでて仕事をして見ることになったそうです。
しかし、良考えてみると、農家の青年が漁業の手伝いをするにはどうも無理があります。本人は3ヶ月ほど頑張る予定でいたようです。翌日も海辺で本人に巡り会いました。昨夜船で沖にでたそうですが、どうも船酔いをして気分が優れない様子です。とっさの判断で本人を村に帰すように説得しました。トンが言うには、「お金は持っているから心配しないでください」実際の所片道切符で乗り込んだのは間違いありません。私の手元には1000円分ほど財布に入っていました。これを全て渡して、「これが村に帰るまでの交通費と道中の食事代ですよ。遠慮しないで受け取ってください。今の時刻なら今晩の夜行バスに乗ることが出来るから」というと、本人は砂浜に額をつけて仏教式のお礼をし、涙を流して嬉しそうな表情を見せました。村に帰るといえども、夜行バスで10時間、トラックバスに乗り換えて3時間、船で川を横切るのに1時間、又トラックに乗り換えて2時間、そして、歩いて1時間というのが本人の住んでいる村です。それにしても良くそんな気の遠くなる場所からはるばる海の村までやってきたものです。その若々しさに、行動力は立派なものです。その後本人が無事家についたという手紙が日本に届きました。その時は私もほっと一安心したのも事実です。やれやれこれで一件落着です。そしてトンとは翌年又再会することが出来ました。
概してミャンマーの人々は純粋で素直な心の持ち主が多いようです。およそ一年後に再会したときは、本人は前回のお礼を述べたかったのでしょう。朝6時に起きて田舎道を歩き、幾つも乗り継ぎをして、夕方4時過ぎに待ち合わせた宿にやって来ました。しかし、あまりにも遠慮深いので驚いてしまいます。観光立国の多くの国では、ものを貰って当たり前という意識が地元住民に深く根付いていますが、どうもこの国の田舎の人々は精神構造が異なります。トンの話は更に次のシリーズにも登場することになります。1月に再会の喜びを分かち合い、更に一ヶ月後に再会することは誰が予想したでしょうか?日本からの友人2名とミャンマーの主要観光地を回る計画に飛び入りとしてミャンマーの青年も交えることになりました。

9.     ラカイン寺院との繋がり

確かそれは4年前の出来事だったと思います。ミャンマーの旅も回を重ねるごとに益々深みにはまっていきます。バングラデッシュ航空でヤンゴンからカルカッタへの便を利用した時に、一人の僧侶と同席したのが始まりです。バングラデッシュビーマンの便はその多く乗り継ぎのためダッカで一泊します。どうもミャンマー語しか出来ない様子です。同じ便に乗り合わせたミャンマー人が手取り足取りをして、どのような仕組みになっているのかを説明しています。こうして、ダッカでのトランジットはうまく終えた様子でした。ところが、翌朝の便で誰もカルカッタに向かう乗客はいませんでした。遠くから見ると不安そうな顔つきをしています。ダッカの空港で思い切って声をかけました。まるで、純真そのもの王子様のような穏やかな顔つきをした僧は、これからインドの大学に留学するそうです。カルカッタにはラカインのお寺があるそうですが、その電話番号しかもっていません。入国審査や税関通過そして、両替などを始めて体験する僧侶にとっては、当方の支えが深く心に残ったのではないでしょうか?べったりと私に張り付くことで難を免れたようです。しかし、電話をしてもお迎えの車がやって来ません。留学が目的のインド入りですから、山と積まれた荷物が台車の上にあります。それを放置してハイサヨウナラお達者でというわけには行きません。空港付近はタクシーの客引きや、怪しげな人々が付きまとうのはどこでも同じです。そんな訳で延々と2時間、二人で空港ビルの石畳に腰を据えて、まだかまだかと待ち構えました。僧侶は籠からりんごを出して、これは、ミャンマーのりんごです。お一つどうぞと丁寧にさしだしてくれましたが、良く見るとオーストラリアのシールが張ってありました。ようやく迎えの車が見えた時には二人ともほっとした次第です。僧侶は空港の北にある寺院へ、私は南にある市街に向かいました。この時に頂いた名刺がその後更に深い結びつきお与えてくれるとは思いませんでした。
1週間後、折角頂いた名刺ですから、思い切って立ち寄ってみることにしました。カルカッタ市内の中心部からバスに乗って2時間、バスを降りてどこなのかがようやく探し当てることが出来ました。田んぼの真ん中に広大な敷地を占めて大きなミャンマー式の仏塔は遠くからでも見ることが出来ます。私が寺院に入って某僧侶はいらっしゃるものか聞くと、即笑顔を見せ、「あなたですか?我が僧侶のお世話をしてくれたのは」という好感ぶりです。どうも、当方の人助けの話が寺院全体に広がったけはいです。この時はお茶をご馳走になって帰りましたが、しきりに泊まっていくように勧めてくれます。元来お坊さんといえば、一日二食で禁酒、禁煙の厳しい生活を送っているのだといった先入観があり、泊まるとなると、夜の食事に不自由しないかと気がかりです。さらに、一月後、どのような待遇を受けるものか恐る恐る宿泊する覚悟が沸いてきたのです。
しばらくの間南インドの旅を楽しんで再びカルカッタに帰りました。所でバーラサットはカルカッタ北方30キロの郊外都市です。しかし、お寺のあるのは田んぼの真ん中でバス停から歩いて40分の距離にあります。近くには食堂やお茶屋さんはありません。歩いて5分ほどの所に小さな雑貨屋さんがあるだけです。カルカッタ市内にいけばあらゆる食事が楽しめます。巨大都市だけに町を散歩していても退屈しません。でも、お寺の周囲は田園が広がっているばかりです。もしかして、境内は禁煙となればつらいものと悩みました。しかし、そのような心配は不要なことが次第にわかってきたのです。この寺院のお坊さん(一番偉い僧侶)も部屋でタバコをぷかぷかやっています。次席僧侶も愛煙家です。時にはタバコを勧められることもしばしばです。朝はビスケットとお茶という簡単なものですが、昼はしっかりとご飯をたらふく食べることが出来ます。それが、通称ラカイン風カレーと決まっています。時々チキンやマトンそして魚のカレーとなるのです。副食としての野菜も豊富に皿に乗っかってきます。勿論ミャンマーのカレー料理に必ず登場するスープもついていますから、完璧に近い食事です。これならば、栄養失調にもならず快適な日々を送れそうです。さて、一般に僧侶は午後から食事を摂らないのが原則ですが、この寺院では以外と戒律がゆるく、全員ではないのですが、状況に応じて軽く夕食を取る場合もあります。日が暮れると私だけのために夕食セットが準備されています。昼のおかずの残りが主体となるのですが、食堂には随時私が食事をとれるように配慮がなされています。用事でカルカッタに出かけ、帰りが遅くなっても、夕ご飯は食べましたか?と気を使ってくれる始末です。とにかく、日増しに至れり尽くせりの連続となりました。
境内には幾つもの別棟があり、台所、学生寮、主任僧侶棟、来客用大広間、食堂などに別れています。今は常時15人ほどの僧侶が起居をともにしています。時々、インド各地やバングラデッシュからの僧侶がここを中継地点として移動しています。インド東部の山岳地帯の州には仏教徒も多く住んでいます。ベナレスやブッダガヤには数十人のミャンマー僧侶が留学しています。そんな彼らが一時故国に帰る際もこの寺院を中継点として利用しています。冬になると、ミャンマーからの巡礼団は、ヤンゴンからカルカッタに飛び、この寺院を宿舎として利用しています。そんな時は一挙に40人ぐらいが宿泊することになり、台所がてんやわんやになるのです。私には簡素ながらも、個室が用意されました。住んでみると何の不自由もありません。いつもお茶を飲むことが出来ます。今までのことは杞憂に過ぎませんでした。一度覚えたこの味を忘れることなく、再度訪問することになっていきました。
所で、このひなびたカルカッタ郊外にある僧院にはパソコンなるものが一室に鎮座しています。敬虔なるミャンマーの巡礼団からの寄進の賜物です。かなり旧式ですが、まあまあの作業をしてくれます。インテリ僧侶軍団はまるで腫れ物にでも触るように慎重に扱っています。文明の利器をどのように応用していくかに関しては空白のままで、初歩の利用方法しかしていません。そんなわけで当方が少しばかり口をはさむことになりました。インターネットは設備があるのですが、まだ加入していません。その反面、ミャンマーやバングラデッシュそしてアメリカなどへ国際電話をつなぎ、その支払いはかなりの金額になるとの話です。
この僧院の主席僧侶はカルカッタ大学に在籍し、ミャンマーの古代遺跡に関して研究しています。彼が以前にラカイン州を旅したときに、遺跡に残されている碑文を和紙に刷り込んできた原文を披露してくれました。その数は膨大なものです。石碑に刻み込まれた碑文を様々な大きさの紙にくっきりと浮かび上がったものが目の前に山積みになりました。さて、これを広げているとどれだけ場所があっても足りません。そんなわけで、当方は得意のデジタル・アーカイブスを提案したのです。その甲斐あって、数日後には、膨大な資料はすっきりとCDに収まり、必要な碑文を瞬時に開き、拡大して観察することが可能となりました。これで周囲の僧侶も驚いたようすです。こうして、益々待遇がアップしてしまったのです。居候をそろそろ離れて旅に出ようとすると、決まってタクシーで駅まで送ってくれるようになりました。翌年このお寺を訪れると、主席僧侶は自分の在籍している大学の教授が、例の古文書データベースを賞賛していたことを自慢していました。
この寺院はアメリカの支援を受けて発足した僧院です。インド国内或いは、バングラデッシュでは極めて少数派に属するラカイン人を対象として、仏教思想の普及を中心に活動を行っている団体です。最近はミャンマーの経済が徐々に向上していくにつれ、仏教遺跡への巡礼団の中継地ともなっています。冬になると数名から数十名のミャンマー人がグループでヤンゴンからカルカッタに飛んできます。多くはこの寺を経由して鉄道の切符を予約し、車をチャーターするなど便宜を図ってもらうようです。そして、お布施がはいり、双方ともに滑らかに事が運んでいます。それは見ていても何かほのぼのとするものがあります。心穏やかなミャンマー人が単独でインドの強烈な荒々しい社会に放り出すのは極めて危険きわまりない行動です。このバーラサット寺院の役割は極めて大きいものといえるでしょう。
また、毎年春には、ミャンマーから高僧を招いてメデテーションの講座も開いています。これには、周辺諸国からも多くの僧侶が参加します。この間は戒律も厳しく、修業に集中しなければいけません。他人と口を聞いてはならないという2週間が続くのです。ミャンマーからは、その行事を主催するスポンサーも現地に逗留して僧侶の食事などに気を配っています。時々地元のヒンズー教徒もこの寺院の美景な仏塔に関心があるのか、お祈りをしていく姿も見受けます。元はこの僧院の本拠地はインドビハ-ル州のラジギールにあったのですが、5年前に土地をカルカッタ郊外に準備して引越しをしたそうです。今でもおよそ20人ほどの学生がこの建物の中に住まいを同じくして地元の大学や中学校に通っているのです。

10.  結末

今回の旅でおよそ800枚程度の写真を撮影したのですが、不幸にも愛用していたパソコンのHDがクラッシュに合い全てを失うという悲劇をもたらしました。船の中で、新しい土地を求めてさまよった貴重な画像と日々書き留めていた日記も消滅してしまいました。写真の完成を楽しみにしていた友人達を失望させる結果となり誠に遺憾に感じている今日です。突然の事故同様で対処の方法がありません。次回からはこまめにバックアップを取ることを心がけ、新たに発生するパソコンのトラブルに対処出来るような方法を考えて行きたいと思います。今後また足を踏み入れることもあるかと思います。続編ミャンマーの記事を楽しみにしてください。
2002213日 バンコクにて、200237日カトマンズにて追記。
S.Hoshiba

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