2015年4月20日月曜日

ゴルカ訪問(ラクシュマンとの再会)

さて、カトマンズから140キロ西方にあるゴルカはネパール王国発祥の地として有名な場所です。今回は、この町から8キロ手前の村ビリン・チョウクに住むラクシュマンの家を尋ねることになりました。ラクシュマンに会ったのは、今から三年前、友人たちと一緒にランタントレッキングに出かけた時でした。私達のトレッキングの最終日、トゥロシャブルからドンチェに向かっていた時でした。大きな荷物を背負ったポーターが親しげに私達のグループに近づいてきました。韓国のグループに付き添っていたポーターでしたが、恥ずかしがることもなく、私達の前になったり先になったりしながら、話しかけてきのが、ラクシュマンでした。
話に聞くと、カトマンズで下宿をしながら、カレッジにかよっているとの事で、学費を稼ぐが為に時々、こうしてポーターの仕事をしているとの話です。当時の賃金で確か一日500円ほど支給されるようになっていたかと思います。勿論食事代はかかりません。最近は物価高で賃金も上がったのですが、それでもポーターの職の場合は一日1000円程度が限度になっているようです。私達のグループがまるで家族でハイキングをしているかのような楽しい雰囲気に魅力を感じたものでしょうか?ドンチェに到着するころには、お互いに打ち解けて、まるで新しい友だちを得たような感じでまさしく、和気相々の気分でした。歩いている道中に本人の名前と学校そして学部は聞き出したのですが住所や電話番号を交換することなく、彼らのグループは急遽午後ドンチェについてから、車をチャータ-してカトマンズに帰ることになりました。予定では、我々と同じ宿に宿泊して翌日カトマンズに帰るとの話で油断をしていたわけです。

さて、カトマンズに帰って当のラクシュマンを探すのに一苦労です。二度ほど、彼の在籍する教室(アムリットキャンパスの物理学部)で友人に声を掛けて聞いてみたのですが、仲々知っている学生がいません。学生の中の一人が、ラクシュマンが下宿している近くに住んでいて、彼を知っているという情報を得ることが出来ました。早速友人を介してのラクシュマン探し開始です。それでも簡単に見つかるわけがありません。こうして待つこと3週間、その友人から連絡がありました。わざわざバイクで迎えに来てくれたラクシュマンの友人は、その後交通事故で亡くなったとの話です。もし、彼がいなかったら、ラクシュマンとの再会は不可能だったかもしれません。危機一髪の所で私達は再会することが出来ました。
早速、彼の下宿を見学です。住んでいるのは、Nayabazarという地域で、多くの学生たちを対象にした貸間が沢山ある場所です。一階で日当たりはあまり良くないのですが、布団や台所製品に囲まれて、様々な書物も並んでいます。当然の事として実家からお米や野菜、豆類を運んで来て自炊と学業の両立です。トイレは共同で建物の裏には共同井戸があり、そこで皿を洗ったりしての日々です。そんな下宿へ何度か足を運んで彼の将来の目標や現状をそれとなく知ることが出来ました。そして、今回は彼の実家へ足を向けてみたのです。そのことで、彼の実情が浮き彫りにもなって来たのです。
始めて彼の下宿を訪問して一ヶ月ほどしてから、私の手元に中古のノートパソコンが手に入りました。中古といってももう、10年以上も前のパソコンです。それを何とか英語版のウィンドウズに置き換えて調整をしてから、本人に渡しました。当然の事ながら大喜びで夢中になってくれたのです。デスクトップには、GIFT FROM JAPANESE(日本人からの贈り物)とかのロゴを入れて、しばらくの間楽しんでいたようです。勉学の傍ら、色々な就職試験(政府関係)を受験したりしていたのですが、現実のネパールでは、政府関係の役職に入るには、驚くくらいの高倍率そして、有力なコネがないと採用されないという二重のジレンマが彼らを待ち受けています。
かろうじて、採用されたのが、警察の機動捜査隊(日本で言えば)のような公務員職をゲットして現在に至っています。二年前に採用され今は自宅から通いながら、周辺のパトロールやデモの鎮圧、集会場での警備などを担当する仕事をしています。そんな彼との交流があって、今回始めて彼の自宅を訪問することになりました。
出発当日の朝10時にバラジュ交差点のバス停留所で待ち合わせをしたのですが、案の定ネパールタイムです。私は、定刻通り集合地点に到着したのですが、予定を20分ほど過ぎてやって来ました。長距離バスはここから2キロほど手前のバス・ステーションからの出発で、一台目のバスは満席で次のバスを待たなければなりません。いつもならば、途中乗車でも空席があるのですが、今日はネパールの母の日に当たり、どのバスも満席状態が続いています。待つこと更に40分、2台目のバスにようやくありついたものの、かろうじて最後尾の席が割り当てられて出発です。
私達がバスを待っている時に、このバス停で同じゴルカ方面に向かう家族がいました。彼らは事前に切符を購入し、ここバラジュからの乗車券を持っていたのですが、あれあれ、運転手とバス会社の行き違いが起きたのか、乗客を拾うことなく、過ぎ去って行きました。その家族はあれあれ、早速会社に連絡して対処を仰いだようです。20分ほどしてから、さっき爆走していたマイクロバスが舞い戻ってきました。そうそうに乗客を載せて再出発です。始発からの乗車は間違いないのですが、こうした、途中からの乗車は、一般の観光客には至難の技とも言えるでしょう。
カトマンズからゴルカはバスでおよそ5時間の旅です。今日は道中天候不順で雨が降っても、嵐になっても、暴走しています。いやいや、実は速度はそんなにでていないのですが、機体の整備不十分でかなりの騒音をまきちらしながら走ります。クッションも日本のようなソフトなものではなく、ガンガン体に振動が伝わります。完全密封された静かな車内とはかけ離れ、あらゆる種類の雑音が入り込んできます。おまけに雨だれも入り込んでくるバスです。40キロの速度が80キロで高速道路を走っているかの如く轟音を立てながら、勇ましくネパールのバスは各地に向けて走っています。まあ今回のバスの旅は、すぐ側にラクシュマンが同乗しているので、私も何かと心強いものを感じながらの旅です。しかし、最後尾の席は狭くて揺れる、止めたほうが良いでしょう。
道中一回茶店で休憩した後、まっしぐらにゴルカに向かいます。終点ゴルカに近くなるころには、天候も回復し午後4時半前には、ビリンチョウク(ゴルカの手前8キロ)で下車しました。ここは、丁度、ゴルカ地区に入るゲートがあって、わかりやすい場所です。バス停から坂道をくだってわずか5分。ラクシュマンの家に到着しました。
ああぁ、家についてびっくりです。これが典型的なネパールの農家です。築35年とかいう本屋は2階建てで屋根は石拭き、壁造りの建物です。軒先が低いので、知らない人は頭をゴツンとしてしまいます。トイレは別棟で敷地の隅っこに、家畜小屋も別棟です。その家畜小屋の二階が私が今日から宿泊する客間!板作りで隙間風がビュンビュン入ってきます。夜ともなれば月明かりがしっかりと室内に入り込んでくる、自然と合体した作りです。そして竹製の簡素な台所も別棟です。敷地内には家庭菜園もあり、野菜などは自給自足とも言えるでしょう。家の前からは、雲の合間を縫ってアンナプルナやガネッシュヒマラヤの白い峰々が姿を見せてくれます。数キロ先には、ゴルカバザール(ゴルカの中心地でこの地域の大きな町)が斜面にそって大都会のごとく町並みが続いているのを見ることが出来ます。
早速、この家庭の戸籍調査!です。60歳のお父さんはチェトリという部族で元軍人で、今は年金暮らしとほそぼそと農業を営んでいます。お母さんは気丈夫な方で2歳若くマガール族でいわゆるインターカーストの結婚だったそうです。年に数度しか、家に帰ることが出来なかった軍人という職業柄、ラクシュマンの日々はその多くを母との生活を共にしていたそうです。5人兄弟の末っ子で姉が三人、兄が一人で皆結婚してそれぞれの家庭を持っています。末の姉はすぐ近くに世帯を構え、その息子ニシャンが毎日遊びに来ます。兄は軍での仕事を得て遠くの駐屯地で奥さんと暮らしていますから、11歳になるサミラはおばあちゃんの家に預けられて暮らしています。娘や息子が同居していた頃に比べると今はひっそりとした家族構成です。ラクシュマン本人もこの実家から仕事場に通う日々です。こうした家族環境では、親兄弟の関係は不思議なものを感じさせます。ラクシュマンにとって、兄の息子は甥っ子になります。しかし、いつも身の世話をしてくれるおばあちゃんが母親代わりになるので、「母ちゃん、母ちゃん」と呼んでいます。ラクシュマンにしてみれば、10歳ほど年齢が違うのですが、兄弟同様の感覚になっているようです。家の入り口には、家族の写真がしっかりと額縁に納められ、神様の像と並んでいつもその表情を眺めることが出来るようになっています。
長期の間家を留守にする父に代わって、母親は強くならざるを得ません。今でも、このお母さんは家の主人とも見間違えるほど、しゃきしゃきと切り盛りしている光景を見ることが出来ます。
そして様々な生き物も同居です。鶏、ひよこ、ヤギが4頭、水牛が二頭。時々ネズミもチラリとみかけましたが・・・・。ご飯つぶテーブルからこぼれ落ちると、鶏が目差しく追い求めて床を綺麗にしてくれます。ご飯の残りは、そのまま水牛の食事に様変わりします。へぇぇ、ここの水牛もカレー風味が好みなのでしょうか?そんなのどかな田園光景が展開しています。空気はカトマンズのそれとは大きな違いです。朝晩は鳥のさえずりが耳にさわやかに響きます。電気事情も一日2時間の停電でカトマンズよりも状況は格段に良いわけです。といっても、電気製品がそんなにあるわけではありません。電灯とテレビが主たる電気製品です。最近は携帯電話の普及で停電時でも電源が作動するように、インバーターの設置も必須な項目に加わりました。彼の自慢は12年前に購入したテレビです。メイドインジャパンのSONYのテレビは今も健在です。
普段は共同貯水池から配管された水が家の庭まで来ているのですが、ここしばらく給水が滞っています。お父さんは15分ほど離れた場所へ水汲みの作業です。私達の生活は蛇口をひねると水が出るというのは保証されています。蛇口のない生活を経験することは、キャンプや野外生活をする時しか体験出来ません。トレッキングの日々でさえ、ネパールの山小屋は蛇口が設置されそれをひねると水がじゃあじゃあ流れて何不自由なく洗面や洗濯が容易です。勿論、山という地形だから、水資源が豊富であちこちの谷間からの取水が容易なもも頷くことが出来ます。しかし、標高700メーターのなだらかな丘陵地帯には、以外な水の盲点がありました。
家について早速出されたのが、キュウリの輪切りにひとつまみの塩を載せたものが提供されます。そして濃厚な牛乳。確かに強力な味そのものです。彼らの感覚では、これが最高のおもてなしなのでしょう。住んでいる敷地から15分ほど坂道を下った所には、多少なりとも専用の畑があり、ここでとうもろこし等の作物を栽培しているとの事。しかし、時代がどんどん変わり、耕作に従事する人出が次第に消えつつあります。ラクシュマンは今機動隊の仕事をしていますから、農作業の従事に時間を割くことは出来ません。こうした問題は日本だけではなく、全世界に広がっているようです。
夜は家畜小屋の二階にある特別室です。いやはや、深夜に3回ほど、大地震か来たかのような錯覚に見まわれました。下に住んでいる水牛が二階に直通している柱にドンドンと頭突きをしていたようです。しかし、これも大自然に織り込まれる自然な音ですから以外と気になりません。モーターの振動音などの場合は私達の眠りを妨げるのですが、この種のノイズは、20秒ほど間歇的に続くのですが、それをすぎると元の静寂に支配され、再び安眠する夜でした。
元軍人なるお父さんは今は一ヶ月8000ルピー(一万円程度)の年金を受け取っているとの事。そうした経済状況の中で息子のラクシュマンに資金を投入したのでしょう。地元の学校を終えて、夢を追いかけながら、カトマンズでの勉学の日々を続けたのでしょう。実家から米などを持ち込んで自炊、そして時々ゲットするトレッキングのアルバイトなどでやりくりしていた様子が改めて目に浮かんできました。私の見る限り、更なる学業の夢はそろそろ断念せざるを得なくなったのではないかと推測します。真面目で素直さが残る好青年なのですが、ネパールの複雑な社会状況を知れば、当然の結末になったのだろうと推測せざるを得ません。
近所は勿論典型的なネパールの家族構成を示すかのように、親戚がごっそり住んでいます。村人の多くは互いに顔見知り。都会とは異なった空気が漂っています。こうして、星空を眺めながら今日一日が終わりました。
翌日はゴルカ王宮やゴルカ博物館などの見学で終日が終えました。この土地は30年ほど前に一度訪問したことがあります。当時はひなびた田舎の町でしたが、今はそれなりに観光資源の整備が徐々になされ、ゴルカ博物館も開館しています。道路のネットワークもどんどん拡がり、山奥へ山奥へと道路が通じるようになりました。目立たんとばかり銀行の建物も斬新なデザインで人目を引いています。
さて、4時過ぎに家に戻って一休みです。あれあれ、ラクシュマンは財布を出しっぱなしにしてちょっと外に出かけました。お母さんは、何らためらうことなく、財布の中身をチェック!「あれまあぁ。財布空っぽじゃわい。結婚する費用どうかんがえちょるんやろうか、ふん」と一人言を発していました。いやはや、あっけらかんというか!そんな母親を21歳になったラクシュマンは今でも、「母ちゃんよぉ。母ちゃん」と甘えん坊の如く呼び合う声が聞こえる微笑ましい家族です。ラクシュマンは一ヶ月15000ルピー(18000円)程度の給料が支給されるとの事、しかし、スマホを手にいれるにはほぼ同額の金額が必要です。他に衣類なども必要ですから、財布の中はいつも空っぽ状態になるのが常なのでしょう。でも何故かしら、深刻さを見せることなく、陽気に日々が続いています。
そして、今日が母の日とかで、100Mほど離れた娘の家でちょっとしたパーティです。ネパールの母の日は、当然の事として、いつも食事などの世話をしてくれる母に感謝を込めて、この日はお母さんは台所に入る必要はなく、代わって娘たちが食事を準備しておもてなしをするのが習慣になっています。ラクシュマンのお父さんとお母さんは少しばかりおしゃれをして、嫁ぎ先の娘の家に向かいました。勿論私も同席です。卵、肉、お魚そしてファンタなどが並ぶ普段とは異なるご馳走に舌鼓の夕食を満喫したのはゆうまでもありません。
さて、三日目は今日からラクシュマンは仕事が始まります。多くの同僚がこの時期(ネパールの新年)に休暇をとっているので、現場ではどうも人出不足なようです。機動隊の職務は体力的にキツイ部分もあるようですが、出勤、欠勤については、どうもネパリ方式が定着しているようで、時間厳守の日本の感覚とは程遠いようです。私の出発が11時頃になってしまったのですが、私を見送ってから、ゆっくりとオフイスに向かったことでしょう。
最後に、甥っ子二人に、わずかながらのお小遣いを差し出してわかれたのはゆうまでもありません。11歳と5歳のやんちゃ坊主達は嬉しそうに、はしゃいでいたのが心に残ります。

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