2015年4月13日月曜日

スンダリジャル再訪

およそ3年ぶりにカトマンズから16キロ離れたスンダリジャルを訪問しました。実はこの場所は私の友人たちのグループが教育支援をしていた土地です。以前、この教育支援団体から奨学金を受け取った子どもたちの最近の事情を調べる目的もありました。
元奨学生の一人でビジャイ・タマンが最近学校を辞めてしまったという連絡がスンダリジャルの友人からあり、その実情を聞き出すという使命もありました。ビジャイは、以前このブログでも掲載されたと思います。NEDO(ネパール教育支援機構)の給費生だった頃の写真が残っています。幼い頃に母親をなくして、父親と弟の三人ぐらしの時、父親が仕事に出かけているので、弟の食事を作っている写真が印象的です。父の話によると実の母親が病を患って、その為に農地を手放し、今は、自分の住んでいる家のもが残っているとの事です。始めて私が彼に出会って7年間が過ぎました。その途中、3年前に再会した時は、運よく、他の奨学金を得ることができ、寄宿舎学校に入っていました。教室で横顔を見た時は、生き生きとしていたように記憶しています。今は17歳で中学3年生です。しかし、ここ三ヶ月学校を休んでいます。話に聞くと、父親が再婚し義母とうまく行っていないという家庭環境が原因との事、果たして実際はどうなっているのでしょうか?

再婚と言っても、どのような事情があったのか定かではありません。奥さんとまだ幼い子供たち2人そして、奥さんのお母さんが同居で、3人から7人と一気に家族数が倍以上になりました。すぐとなりの家はおじいさんの兄弟が住んでいます。これは、ネパールの村落においては、極めて自然な現象で、三軒長屋が、それぞれ兄弟の家だったり、隣の家が親戚だったりすることは良くあります。殆どが一族郎党でなりたっているのは、日本の昔もそうだったのかもしれません。スダンの家も同様です。隣の家はおじいさんの兄弟の家だそうで、やはり親戚にあたります。(注)スダンも元給費生で今は美術大学卒業を控えている青年です。
とにかく小さなコミュニティですから、村の情報は筒抜けです。誰がどこに出かけた、誰が結婚した、誰が妾(第二夫人)を持っているとか様々な情報が交錯しています。こうした村の状況を私に伝えてくれるのは、スダン・シュレスタ(元給費制)です。スダンも、カーストが異なるにも関わらず、ビジャイが学校をやめたことを気にしていたようです。ここで、私の登場で一気に話が盛り上がりました。早速、更なる情報収集です。
スンダリジャルは小さな村で、周囲は緑に囲まれ、その名前(意味はきれいな水)の由来通り、カトマンズ盆地への給水源となっています。近年、カトマンズ市内の人口が爆発的に増加し、給水能力が追いつきません。ここで新しい給水プラントの工事が始まり、活気づいています。凡そ500人程度の作業員が従事しています。通常の作業員は一日500ルピー程度の収入を得ることが出来るそうです。そんな中でビジャイのお父さんも警備員の職を得て一ヶ月13000ルピー程度の収入を得ているとの話。雨季になると、工事の中断も予想されます。まだ、この工事は数年続くことでしょう。
ビジャイの家では、他にも何らかの副収入があるのでしょうが、平均的な村落での収入なのかもしれません。家の中をのぞいても、格別に家具があるわけでもなく、至ってシンプルです。目に入るのは、やたらと多い衣類です。彼らの購買力からすると、こうしたものしか贅沢できないのかもしれません。この光景はミャンマーでも良く見かけました。ミャンマー西部のラカイン州の村での光景もほぼ同じです。竹製の簡単な住居には家具や調度品はみあたらず、家屋の中に一本の竹棒が吊ってあり、そこには、やたら衣類が無造作に掛けられていました。とにかく、この予算で家庭を切り盛りしなくてはなりません。多少の野菜類は自給自足が出来るのでしょうが、物価高騰のネパールに於いては、容易ではないでしょう。カトマンズ市内へ行くバスの料金は30ルピー、バス停での定食が100ルピーの世界です。(1ルピーは1.2円)
タイミング良くその日の午後、ビジャイに会うことができました。昔の面影がしっかりと残っています。素直ででシャイな表情は、今も変わりません。学校を辞めてから、友達と遊んでいたようです。友達と言っても、安易な方向に向いがちです。すなわち悪友!に取り囲まれる日々だと人生破綻になるのは目に見えています。彼の年齢からして、村での生活というバックグラウンドを考えると、ビジャイ自身もどのような状態に置かれているのか、どうしたら良いのかという判断が適切に働かない年齢です。そういった危惧を抱えながら、すこしばかり話をすることが出来ました。
私のネパール語とスダンの更なる解説で、直接私の意思をビジャイに伝えることが出来ました。「あと一年頑張れは、SLC(ネパールでの公的な中等教育終了証)の受験資格を得ることが出来るので、何があっても頑張って欲しい。私も遠い日本という国から君の事が心配しているよ。ネパールでは色々な問題があるだろうけど、それに負けないように。家庭の問題があるかもしれないけど、それは別の問題だよ。今勉強してSLCをパスすれば、将来が開ける、外国へ出稼ぎに行くのもチャンスが増えるんだから。」などと励ましました。時々、恥ずかしそうに、そして微笑みを見せて来れました。しかし、何かしら、ビジャイの表情は寂しそうな部分が見え隠れしています。本当の事を、どうやって伝えるか、何を言いたいのか彼自身わからないのかもしれません。
ビジャイ自身は、同じ学年の生徒と比較すれば成績は上位に属するとの話も事前に調査済です。写真の表情からしても、どこか知性的な部分が見え隠れしています。しばらくの間、建設現場で仕事をしてみたそうです。しかし、この作業は電動ドリルを扱う重労働、まだ華奢な体のビジャイには無理なようで体力が必要でもあり、灰燼に悩まされ、そして目に埃がはいり、体に良いわけはありません。後日、父親から聞いた話では、本人はこうした仕事は辞めたいと口にしていたと聞きました。「今一日500ルピーのお金が目の前に入って、将来幸せになることが出来ますか?SLCの試験をパスしたら、外国へ出稼ぎにも行きやすいし、給料ももっと貰えるでしょう。これから先の人生はまだまだ50年以上残っているよ。勉強と今の仕事はどっちが大切なの?」と説得を続けました。本人にとっては「そうです。そうです」と頷くのが精一杯なのでしょう。
さて、教育を考える時には、やはり家庭環境の差で子供たちの人生が大きく変わるのは、日本のみならず、世界共通なのかもしれません。しかし、ここネパールでの格差の拡大は、今まで様々な家庭に入り込んで観察を続けたのですが、想像以上の現実に改めて驚きを感じざるを得ません。同年代の子供たちの中には、携帯電話やスマホを与えられている階級もあります。学用品などが十分に与えられている家族もあるでしょう。ビジャイの場合は殆どそうした物はないに等しいのかもしれません。そんな中、私はどう対処すべきなのか、一瞬呆然とせざるを得ません。しかし、ネパールでは、大半がこうした階層に属しているのが現実です。また、両親の教育に対する姿勢も大切です。田舎での共同体では、周囲との絆が強く相互扶助の機能が働きます。しかし、都会(カトマンズ)では見知らぬ人同士の寄合世帯で相互扶助は機能マヒ状態になっています。地方から、都会での生活を始める若い夫婦には、大世帯で親からの伝統を受け継ぐ機会は皆無です。子育て、教育、家事など古来の伝統を身に付けるための両親とは別居のケースが多く、、現状は右往左往しているのではないでしょうか?相談する人もいなく、相談する場所もなく勿論個人差は大きいのでしょうが。こうした実態調査も大きな意味があるとようです。
このようにして村での生活を観察すると、よその家の状況は必ず誰かが把握していて、相互扶助の姿勢を見受けます。その地域全体が関心を持って協力しようという方向に進む場合もあります。これが、都会では、隣に住む人との交流が殆どなく、見知らぬ人同士が単に住んでいるという状況にはまり、自分たちの生活にのみ追われているのは、世界どこも同じかもしれません。ビジャイに会いにく前に、近所の店でノートを買いました。店の主人は不思議そうな顔をしてましたが、スダンが事情を説明し、ビジャイの現在の状況を知ると「いや、それなら、公立の学校に復学出来るはずだよ」と関心を持っています。スダン自身もビジャイの将来について良い方向に向かうように陰ながら努力している様子です。こうした、地域全体の支援が、彼の心の中に届き、小さな支援ながらも、彼の今の道が大きく転換していくことを願うしかありません。
翌日給水施設現場で警備員をしている父親の所にでかけ、ビジャイについて色々と話をする機会を持つことが出来ました。学校は9年間でたものの、SLCは不合格でした。それでも何とか今の職場を得ることができたわけですが、それには様々な苦労があったと自ら語っています。そして教育の重要性もしっかりと自分の意見として持っているようで、まずは一安心です。ビジャイとももう一度あって話をしなければなりません。翌日タイミング良く再会した時は、ひとりぼっちで何となく寂しそうな表情で河の側に立っていました。
「ビジャイは2年後、5年後何になりたい?」と質問してみました。ビジャイは「会計とか経営の仕事をしたい」とその希望をはっきりメッセージを私に伝えてくれました。なるほど、現実的な希望かもしれません。概して、子供達に将来の夢などを書いてもらうと、医者とかパイロットとか・・・・が多いのですが、経理ともなれば、まだ現実的なものかもしれません。」「もし、そうなりたいのなら、君の一年分のこづかい帳、出納帳つけてみたらどうかな~」とアドバイスをだしてみました。一瞬怪訝そうな表情でしたが、ようやく私の意図がわかったと見えて、なるほど!という感情が現れてきました。
こうして、次第に双方の緊張が融け始めていきます。もうひと息です。「君の言いたいこと、思っていることを、このノードに書いて私に見せてください」とボールペンとノートを差し出しました。うれしそうにビジャイはそれを受け取ろうとする姿が印象的です。さて、近いうちにもう一度でかける予定でいます。
このような状況から教育の支援を考えると、今までの多くの支援組織の活動が如何に大きな無駄をしていたか、実際と現実の隔離、支援する側と受ける側のコミュニケーションの不足という事が問題になって来ます。単なる経済的な支援のみではなく、こうしたきめ細やかな追跡調査が重要な意味をなしてくるでしょう。概して、学校を建設するのに、巨額な資金を投入したものの、その後は、廃屋になってしまうケースも良く話にでる現在です。奨学金制度にしても、同様で、タイムリーな運営管理を怠ることなく進めていかなければなりません。彼らがその後、どのような人生を歩んでいるのか検証するのも意義深いことでしょう。、こうした追跡調査に必要なのは、仲介する人に頼るのではなく、自分自身の目で、現地で直接語り合うという原則を忘れてはなりません。こうした人材は容易に見つけるのは難問かもしれませんが・・・。今回一つのケーススタディとして、このブログを拝読していただければ光栄です。
さて、ネパールでの教育支援の話を更に進めていくと、大きな障壁となるのは、一定の教育終えても、就職への道がもうひとつの難関です。公私ともに、就職は公募の形をとりますが、それは、形式上で、実際に職業に付くには人脈がないとうまく行きません。一般の人々にとっては、至難の業とも言えるでしょう。既に身内で内定しているけれども、公募で形式を整えるというのが通説になっている社会です。それは、日本では、信じがたい環境でしょう。また大学をでても、専門学校をでても、実際の現場を知ることなく、机上の理論を学んだだけにしか過ぎません。そして、その証明証も形式上発行され、実際の能力に合致したものとは、大きくかけ離れています。
こうした現状が存在する限り、国内での就業の機会は制限されてしまいます。また、それは、自国に何ら産業がないという状況が加味され、益々彼らの就業機会の幅を狭くしています。当然の結果として国外流出への波及を防ぐことは出来ません。
こうして大量の出稼ぎを生み出した結果、ネパールのGNP(一人あたり所得)はどんどん膨れ上がり、観光産業から得る外貨よりも、圧倒的に多くなりました。しかし、そのお金はどこに行くのでしょうか?その多くは、また国外へ流出していると言えるでしょう。ネパール国内にこれと言った産業、工業製品は見受けるのは、難しいことです。多くの製品や中国やインド、そして他の国からの輸入品に頼る昨今です。野菜や果物の多くも、最近は輸入されています。こうした観点からすると、得た収入の殆どが再度外国に流出し、国内の経済活動を活発にする資金への道は限られています。インドが年率7%の経済成長を誇るかたわら、同様な文化を背景としているネパールはその半分強の4%にしか過ぎません。この差は上述のように、国内で資金が回るかどうか、自国製品の流通の大小にも影響されているでしょう。勿論、高度な製品をつくるには、一部の機器を輸入しなければなりません。それらを組み合わせて製品を輸出しても、自国に残る利益率はわずかでしかありません。最近の統計では、中国はわずか15%しか純粋な利益を得ていないという報告があります。それに比べるとインドは35%(要確認)とい数字が引き合いに出されています。
出稼ぎで得たお金は子供たちの教育へも注がれていきます。しかし、その学校の多くはアカデミックなものではなく、単にビジネスという観点での経営が大半です。更に高等な教育を受けても、それは、頭脳の国外流出へと加速させるのみといえるでしょう。こうして、様々な分野で資金の逃避が続いているのが実情です。また諸外国からの資金援助が正常に作動しているのでしょうか?こうした援助も一部は賄賂などブラックマネーとして関係者の間でかなりの比率が中間で消えてしまいます。非公式な資金ですから、早く使ってしまわなければなりません。これらのお金も外国製品の購入に注ぎ込まれ、ここでも資金流出が派生しています。近年は多少減少傾向になったとも言える金製品の購入へも資金が流れこみjます。金製品の購入はすなわち、タンス預金に似たもので、経済活動の活性化に寄与しているでしょうか?大量の資金が入ってくるものの、その資金は国内の投資に回ることなく、諸外国へ韓流していると言っても過言ではありません。
出稼ぎ組を例にとるならば、今まで10,000ルピーの給料で過ごしていた家族が出稼ぎという経過を得て、その数値が一気に5倍になったとしましょう。年間12万ルピーと60万ルピーとその差は大きくことなります。これが10年続いたとすると、120万と600万ルピーで、差額は480万ルピーです。単純に1ルピーを1円と計算し、貨幣価値と単純に10倍と想定すると、4,800万円分(円換算)の所得の増加です(10年間)。実際に、4800万円が手元に入るわけではありません。年収480万円増加ということですが・・・・。この考え方からすると、日本では成金という状況に等しくなるのかもしれません。価値観の相違、突如として入り込んだ巨額のお金は、人々の心を迷わせてしまいがちです。つい不用なものを買ったり、単なる飾りものを並べるだけだったりします。教育の重要性を知っていても、それが就職に結びつくかどうかの保証がないのに、高額な授業料などに投資してしまうのも、成金型の人々にとっては、教育関連機関の餌食となっているのを誰も止むは出来ません。特にネパールでは教育が大切だという認識が広まっています。そんな中で注目を浴びているのが英語で授業をする学校です。しかし、ここで大きな矛盾が見えてきます。家庭の中で誰も英語を解する人がいなくても、英語学校に入学します。通知簿は勿論英語で記載されています。英語での授業を受けても家庭に戻るとネパール語の日々です。そんな不思議な光景が展開するネパールは不思議な国なのかもしれません。
果たしてこの国はどうなるのでしょうか?
さて、話を元に戻してスンダリジャルを続けましょう。以前NEDOの資金援助を受けていた生徒達は、すっかり大きくなりました。Kedarは今日本で留学生として学校に通う傍ら、仕事をしています。Bipinはテレビ会社に就職しているとの事です。Sarojは今も勉学中(新年からクラス10)、Mitriはもうお母さんなんだけど、旦那はもう一人奥さんを持っているとか?SUDANは今年で最後の授業が終わり、美術大学の論文の提出を控えているのみだそうです。Dahalはカナダで仕事をしているとか!何人かの元奨学生にあうと、今でも私の事を覚えているらしく、みんな笑顔でナマステと挨拶を交わしてくれました。
私達の想像以上に厳しい現実を抱えたネパール、その中で国境を越えてつながり会うことの大切さを改めて実感する日々でした。日本の方式が、日本の倫理観、道徳観を持ち込んでの支援には限度があり、成功するとはかぎりませせん。現地の事情を正しく把握し、変わりゆく実情に合わせた支援がなされることを期待したいと思います。

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