2016年2月5日金曜日

ミャンマー考察

ミャンマーは東南アジア諸国の中では最後のフロンティアなどという異名をもった特殊な国の一つです。過去に数度訪問した経験から、この国について考察をしてみたいと思います。最初に訪問したミャンマーは国名がビルマ社会主義共和国という名称の時代がありました。この時期には2度ほど訪問した記憶があります。当時は一週間しか滞在許可が出ず、各地を回るにはあまりにも時間が少なすぎました。大半はラングーン市内をぶらぶらして時間が過ぎて行きました。まさしく半鎖国の状態で、旅行者の数も少なく、交通渋滞という言葉もなく、平和そのものでした。経済規模は極めて貧弱で隣国タイのように、大きなショッピングセンターやデパートがあるわけでもなく、ひっそりし佇まいでした。
しかし、話によると、このラングーンは1960年までは、隣国タイからの外交官が外国製品や高級品の買い出しに往復したそうです。ビルマが独立してからしばらくの間はウー・ヌー政権の下で文民政治が行われていた時代です。その後汚職の蔓延やビルマ人の手による経済の自立などを掲げたネ・ウイン氏による軍事政権が始まり、ビルマ式社会主義を掲げた政治が、始まりました。1988年に国名をミャンマーに変更し、国際社会に目を向けるようになったものの、国際社会から経済封鎖を受け国家経済は思うように進展を見ることができませんでした。ここに、数年前からアジア諸国の中でも経済発展を遂げつつある中国が政治、経済の面で介入を始めたのを契機に、西欧諸国が危機感を持ち、ミャンマーと西欧諸国の駆け引きによって段階的に経済封鎖も解除となり、経済部門で徐々に進展をみるようになりました。これに併せて民主化運動が高まりアウンサン・スーチー女史の率いるNLD(民主主義派の政党)が勢力を伸ばし、いよいよ軍事政権から民政に移管しようとしている事が最近注目を浴びています。

ミャンマーの事情を観察すると、日本と非常によくにた文化を持ち合わせている場面に遭遇します。例えば、テレビを見ている人の前を横切る時は、日本の時代映画にでてくるように軽く体を前鏡にして、手で露払いをする仕草を伴い、「ご無礼いたしますが・・・」といった感覚で人前を通過します。こうした奥ゆかしさは、日本文化に通じたものがあるのではないでしょうか?この点を言語の部分から観察してみましょう。
ミャンマー語は日本語とその用法が非常に似ている部分が多く、言葉の語順は日本語にきわめて似ています。主語が先頭に来て、動詞が最後に来ます。往々にして状況で主語が省略されて会話が行われます。英語の場合は主語が必須で会話の場合も省略することはまずありません。日本語のツーカーの感覚がこの国でも通用し、非常に短い文章で意思疎通が可能になります。一般的にアジア諸国の言語の中で動詞が最後にくる国を探せばいくつかあげることができます。私が初めて覚えたスリランカの言葉は、日本語と文法が似ており、動詞を最後に述べて完結させます。
ミャンマー語の助詞の使い方も日本に類似したものがあり、動詞の語尾変化で過去形や、現在形、未来形などと変化させることができます。名詞を修飾する形容詞も日本と同じで形容詞が先に来て名詞を修飾しています。普段日本語で会話をしている我々には気がつきにくい事ですが、名詞を先に配置して形容詞が後にくる文化圏もかなりあります。タイ語やマレー語、インドネシア語そしてアラビア語では、まず対象となる名詞を先に述べ、その後に形容詞を幾つも並べることが一般的です。この感覚は実際利用してみないとわかりにくいのですが、慣れるとやはり何も疑問を感じなくなるものです。日本語では「赤い大きな花」と呼ぶのが、マレー語では「ブンガ(花) ブサール(大きい) メラー(赤い)」と会話で流れています。花という要点を先に述べるのか、後で述べるのかの違いは、その国の文化を如実に語っています。それぞれの方式には長短があるようですが、確かに日本語、そしてミャンマー語の場合は奥ゆかしさを感じさせます。その反面、最後まで聞かないと案件にたどり着けないというもどかしさも生じます。こうした言語の面からは、人々の日常生活に共通した部分を見出すことができるようです。
更に、語学自体が外国からの影響を受けてる部分を見てみましょう。マレー語の場合は、借用語としてインドに源を発するサンスクリット語やパーリー語を語源とした単語が残っています。またアラビア語を語源とした単語も日常生活の中で多く常用されています。英国の植民地時代の名残を受け、アルファベットは英語式のABCで始まるのがマレー語の歴史です。しかしインドネシア語では宗主国であったオランダ語が基本になり、ABCなのですが、(アー・ベー・ツェー)と発音されています。
日本では、日常の挨拶は「お元気ですか?」「いかがですか?」といった漠然とした挨拶言葉が一般的ですが、タイやミャンマーでは「ご飯食べましたか?」が優先されます。マレー語やインドネシア語ではイスラム教の影響を受けた「セラマット・・・・」(セラマットは、イスラム教に語源を持つ平安の意味がある。)が使われています。こうして観察すると、言語そのものが、その国の文化を象徴する重要な要素の一つと位置づけすることができると思います。話が横道に外れてしまいましたが、ミャンマーと日本は、言語という観点から眺めると非常に近い性格を持っていることになります。
日常生活においても、相互扶助の精神に溢れているようで、これに関した最近の記事はミャンマーよもやま情報局のブログ内で数多く掲載されています。火災が起きれば、近所の人がバケツリレーで応援に駆け付けるのが当然の事になっています。私の経験でも以前、ミャンマー西部のラカイン州にあるカラダン川を遡行する船が浅瀬に乗り上げ、脱出するに四苦八苦しているときは、男女問わず乗客が川に飛び込んで人力で船を移動させ、1時間後には無事航路に復帰するという場面に遭遇したことがあります。真っ先に飛び込んだのはおばさん達だったことを今でも記憶しています。無事浅瀬から引き戻し再びエンジンが快適な音を響かせた時は、全員何事もなかったかのように、平静そのものの船内でした。
これは、仏教の精神が浸透しているからでしょうか?しかも即行動に移すという部分にはすごいものがあります。日本では様々な分野で危機管理という言葉が流行し、その対策としていくつもの訓練がなされています。しかし、どれだけ訓練を積んでも、それはあくまでも手法であり、技法であり、根本に相互扶助という精神を理解しているものでしょうか?ミャンマーの方法は、日本とは逆のような気がします。相互扶助が先に来て行動があり、効果をもたらしています。日本では、どれだけ費用をかけて訓練をしても、マニュアル通りにしか動けないのではないでしょうか?
さて、ミャンマーはアジア諸国の中でも仏教国として有名です。周辺のタイやラオス、カンボジアなども小乗仏教の国です。その中でもミャンマー社会での僧侶の影響は私達の想像以上に社会に大きな位置を占めています。ミャンマー人の感覚ではお布施、寄進は日常生活において当然の事とされています。寺院の寄進箱にはザクザクと紙幣が投げ込まれていきます。寺院への寄進は、私達が国家へ税金を払っていると同じような性格のものかもしれません。僧院や寺院は莫大な寄進があつまり、田舎の僧院でも立派な建物に改修されたりする光景を見かけます。こうした寄進が地域社会へ還元されていく仕組みが延々となく繰り返された国なのかもしれません。ミャンマーに限らず、仏教僧院は学校を兼ねているのが常で社会福祉事業を兼ねているといえるでしょう。
民主主義が叫ばれ、それが実現しつつあるミャンマーですが、従来の仏教社会とどのように調和した民主主義を形成していくものか注視したいものです。勿論軍事政権の影響も払拭することはできません。タイの友人は、「タイはタイ方式の民主主義を実現させればいいのであって、西洋型の民主主義はタイで実践できないでしょう」と語っていました。日本も最終的には良し悪しは別として日本型の民主主義になってしまったのでしょう。昨今はびこる政治家のスキャンダルそして官僚の天下り社会の確実な形成・・・・。ビルマが民政から軍事政権になったのは、政権の汚職の蔓延とも言われています。いわゆる仏教司会ではお布施と汚職は紙一重でその境界がはっきりしません。通常の民主主義のパターンでは、税金を徴収し国家が予算を組むことから始まります。しかしミャンマー社会では税金と類似した性格にある寺院への寄進という体系が一部は国家への納税という部分に置き換わる可能性が大きくなるでしょう。西欧型の民主主義の観点からして、線引きが難しい社会です。経済活動が活発化し、肥大すればどうなるものでしょうか?従来引き継いだ仏教精神社会が資本主義の根源なる物質至上社会にどう対処していくのでしょうか?今後、ミャンマーの新しい政治のパターンがこの部分をどのように、調和を取りながら摩擦を避けていくのか、見届けたいものです。
さて、ここでもう一つ話題を挙げましょう。これは2003年にミャンマーを訪問した時の出来事です。このブログの記事にも掲載してありますが、ミャンマーの青年を含めて日本のおば様と4人で2週間ほどミャンマーを周遊してヤンゴンの宿に帰着した時の出来事でした。出発時の緊張が解けて家族同様の間柄になり、すっかり意気投合しました。行きつけの宿ホワイトハウスでチェック・インをしてから、ミャンマーの友人が気を利かせておば様たちの荷物を部屋まで運んでくれました。しかし、これが重大な問題を引き起こしてしまったようです。原則として、この宿は、ミャンマーの人が客室へ出入りすることを厳禁していました。どこかに小さな張り紙があったようですが、本人も私達も気がつきません。彼が部屋から戻ってくると、宿の主人にその事を指摘されたようで、態度が一変し、今にも泣きだしそうな顔を外にでて行きました。事情を確かめるべき後を追いかけて話をきくと、悲しそうな顔で部屋の出入りを禁止された件を語ってくれました。これに関しては私も非常に複雑な思いに駆られました。ミャンマーの人がなぜミャンマーの宿で出入りを制限されているのか本人も不可解でならなかったのでしょう。そしてミャンマー人としての誇りも傷つけられたに違いありません。これに似たケースはインドやネパールで時々見かけます。幾つかの宿は客の安全という事を理由に、現地人が外国人の部屋に入ることを禁止しています。現地の人々はこうした事は既に承知済で、ミャンマーの青年のように不信感も何も感じることなく当然かなという一言で解決してしまいます。何しろ南アジアの社会では身分制度がきつく、低カーストの階層は上位カーストの玄関先までしか出入りできないという習慣に馴染んでいます。仏教的思考で皆平等という感覚を持った人々にとっては、驚きだったに違いありません。
ミャンマーについては、まだ未知数の部分が数多くあります。ミャンマー西部で発生してるロヒンギャ(イスラム教徒)の問題は、一部の高僧によるヘイトスピーチが過熱し、状況が不安定になっています。国際人権団体からミャンマーの政策に非難が集中しています。しかし仏教精神を根本とした穏健な持続する社会が続くことを願う日々です。

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