2015年5月3日日曜日

ネパール大地震 その時!

さて、今日で丁度一週間が経過しました。街そのものは次第に活気を取り戻そうとしています。この国では土曜が休みとなっているので、殆どの店は閉店し、交通量も激減するのが土曜日です。んな中を友人がバイクで迎えに来ました。今日は友人の家庭訪問です。この家の主人はエベレスト遠征の山岳ガイドとして、先月下旬からベースキャンプ方面で仕事をしています。そうした状況の元で母親が小学校2年と5年生の娘を抱えてその留守を仕切っています。丁度一週間前に、この家族を訪ね、昼食をごちそうになり歓談をしている際に大きな地震に見舞われたのです。揺れは数分間続いたでしょうか?横揺れよりも、縦揺れが激しく、室内では棚や高い所からの落下物は殆どなかったように記憶しています。揺れが少し収まりかけた頃、周辺の人々は一気に近くにある広場に集まって来ました。勿論、この家族と共に、私もすぐ近くの広場に駆けつけました。その後、数回余震がドドンと激しく響く毎に集まった人々から悲鳴が聞こえました。悪しも、上空は曇り空で、鳥達が上空を群れをなして飛び回っています。そんな不気味な空模様は、この震災の恐怖を更に煽り立てているかのようです。

とにかく、何も持たずに外に脱出したわけです。室内にはバッグやパソコンが置きっぱなしになったままです。電源を切ったのかどうかも定かではありません。一時間ほどして、隙を見てから一度おそるおそる部屋にはいり、貴重品を取りに出かけました。4階建ての三階にある二部屋をアートとして借りています。通常私達日本人は、地震に対しての経験もあり、常日頃マスコミを通じて対処の方法などについての情報等が豊富です。私自身も過去において、何度か地震に見舞われたこともあり、騒がずに、慎重な行動に出なければと思ってはいるのですが、実際に現場にいるとそれどころではありません。奥さんは始めての地震の恐怖で神様!神様と叫んでいました。私のすぐ側にいた二人の娘は私と共に長椅子に座っていたので、揺れを感じるというよりも、乗り物に乗っている感じでした。両脇で娘たちの体をさそりながら、落ち着いて、落ち着いてと声をかけているのが精一杯でした。そして数分後に最初の激震が収まったころ、急いで外にでかけました。近所からは100人ほどが空き地に集まり、不気味な空を仰ぎながら、ただ呆然としています。早速あちこちから、携帯電話をかけようと皆が必死ですが、思うようにかかりません。一部の回線しか作動していないようで、益々不安を煽り立てる結果になりました。そんな中3時間ほどしてから、ようやく携帯電話も開通にこぎつけました。一部の人の携帯電話の回線は有効で、そこからは、早速被害の状況が飛び込んできます。そうした状況を知るに連れ、益々人々の心の中がパニックに落ち込んでしまいます。幸いに、この時間には奥さんの母親が、この家を訪問していた時間です。この地域は新興住宅地で、3-4階建てのアパートのような建物が点々としています。概して、1階に家主が住み、二階から上は貸間としているケースが殆どです。そして、この地域は様々な人々が住んでいます。インド系の人々、モンゴロイド系のシェルパやタマン族の人々、そしてイスラム教徒も家族も住んでいます。しかし、良く観察すると、イスラム系の人々はやはり少数に属し、自然と皆とはちょっと離れた場所に陣取って集まることになりました。アーリア系は、そしてモンゴロイド系はそれなりに、自然とグループが形成されて行きます。
そんな中余震も頻度が少なくなり、夕方5時頃になりました。屈強そうなおばあちゃんも一緒にいるので、一安心です。今日はタメルのホテルに戻ることにしました。スマホのGPSをオンにしながら、前回訪問した道筋に沿っての復路でした。この地域は道が複雑に入り組んでいるので、通りなれた人でも道に迷ってしまいやすい場所です。公共交通機関は麻痺したままです。こうして6キロの道程を1時間半歩いて、タメルのHOTEL HANAに到着です。道中は、所々崩れ落ちた建物が見えます。家を囲む壁が無残にも壊れています。倒壊した電柱が通行を妨げています。しかし火災が随所で発生しているわけでもなく、人の動きもあり、大きな不安を感ずることもなく宿に到着です。ここでも先程の地震の件で話がもちきりでした。そういえば、宿に来る途中、元王宮の広場に向かって外国人が毛布やシートを持ってどんどん集まっていくのを目撃しました。宿のすぐ近くにある古いレンガ作りの建物は半壊で、レンガが道端を埋め尽くしています。宿の主人によると、近くの5階建てのホテルが全壊し、30人ほどが瓦礫の中で生き埋めになっているとの情報も入りました。その後、生き埋めとなった人々はなくなったとの情報が入りました。私の定宿となっ ている、HOTEL HANAの斜め向かいの古い三階建ての家は無残にも半分ほどが崩れ、道路上にレンガが撒き散らされています。
当日この宿には20人程の外国人が滞在していました。ホテルハナの主人とは親しい関係にあるので、スタッフと共に対策会議の一員(大規模なものではないけども)になり、あれこれと議論をし、行動をすることになりました。お客には、余震の影響があるので今日の建物倒壊の恐れのない近くの広場で過ごすことが決まり、従業員全員でマットや毛布を外に持ち出し、場所を確保しました。既に近隣の住民も場所を確保していました。そんな中、皆で譲り合って、私達ホテルハナの場所も確保することが出来ました。ゲストの中には寝袋を持ち込む人もいます。しかし、こうした危機状態においては、何かした一致団結という空気が溢れています。大きな混乱もなく、全員が宿を離れてすぐ近くの広場に集合です。勿論テントもなく、天空を仰ぎながら幸運を祈るしかありません。夜も更けて1時過ぎに小雨がぽつりぽつり見まわれました。これを契機に、住民の一部は自宅へ帰る準備をしています。雨を防ぐ場所がなく、深夜2時頃、全員再度ホテルに移動です。万一に備えて、脱出に便利な一階のロビーで寝ることになりました。こうした状況では熟睡は程遠いものです。朝方も二度ほど揺れを感じました。しかし、建物が壊れて下敷になるという悲惨な状況に追い込まれることもなく、無事一夜を過ごすことが出来ました。しかし電気は蓄電していたインバーターからの供給のみで、いつそれがなくなるのかは時間の問題です。電話もつながりにくい状態です。インターネットも不通です。
日本の地震の状況と異なるのは、火災が発生しなかったことです。地震発生が昼の12時前で多くの家庭は食事を終え、一休みしていた時間です。多くの家庭では台所の用事は終えていました。また、引火性の素材などは殆ど使用されていません。電気製品の利用も、私達が日常利用している膨大な機器の数に比べると、簡素なものそのものです。土曜日が休日で、会社や学校は休みなので更なる混乱や被害は少なかったのかもしれません。倒壊が激しかったのは、古いレンガ作りの家でした。被害状況はその後続々と悲報が入ってきます。こうした悲報が更に人々をパニックに追い立てるのはゆうまでもありません。
しかし、何らかの用件があって旧市街の町並みを散策していたとしたら、私もそうした瓦礫の中に埋もれていたかもしれません。想像すると・・・・・。ここ地震が発生し1週間前に4軒の友人宅を訪問し、投宿したばかりです。家族と共に食事をし、楽しく過ごしたのは、ついこの前です。それが後の報告で、4箇所とも全壊もしくは半壊の状況で避難生活を余儀なくされてしまいました。間一髪で難を逃れているという感がしてなりません。
しかし数日後には、電話は無料で使えるようになり、インターネットも通じるようになりました。お互いの無事を確かめ、励まし合うことによって、悲惨などん底から、明るい話題がすこしづつ見えてくるようになりました。こうした状況で活躍したのは、いうまでもなくフェイスブックです。日本以上にその普及率は高く、みんな器用に使いこなしています。こうした励ましあいは、多くの人々の心の病を解放してくれたのではないでしょうか?そして、携帯電話を利用してのSMSも有効に稼働しました。しかもネパールの一部の会社は無料で提供しています。私もこれを利用して、なるほどと実感しながら、多くの友人たちにメッセージを流したのはゆうまでもありません。

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